千八百十二(和語のうた) 図書館は「斎藤茂吉 声調に見る伝統と近代」を購入してはいけない
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
八月二十五日(木)
田中教子「斎藤茂吉 声調に見る伝統と近代」(2019)はひどい内容の本である。田中さんの経歴を見ると二〇一八年に博士号取得とあるので、おおかた博士論文をそのまま出版したのであらう。これが第一印象だった。
まづ「ゆらぎ」の語について、二つ意味があるとし、一つ目は物質が動くこと。二つ目は、赤彦の「いと強き日ざしに照らふ丹の頰を草の深みにしみて思ひし」について左千夫が評した
意味の上に会得するのみで、言語の上に作者が感じた情緒のゆらぎが表れて居ない。
について
つまり「ゆらぎ」とは、かすかで捉え難い心情そのもの(以下略)
次に茂吉が万葉集の歌「をとめ等が袖振山の瑞籬の久しき時ゆ思ひき吾は」を評し
或は中止のない大きいゆらぎを持つた階調音として受け取ることの出来るものである。
別の歌「さ夜中と夜は深けぬらし鴈がねの聞ゆる空に月渡る見ゆ」について
その声調のゆらぎによつて、現実を再現せしめる効果を有してゐる。
この歌を『万葉秀歌』では
流暢にしてなほ弾力を失はない声調である。
ここまでなら反対ではない。ところがこのあと、ブラウン運動、ボルツマン、アインシュタインまで登場し、「ゆらぎ」について四ページ言及する。これでこの本は台無しになった。茂吉が理系の「ゆらぎ」の定義を用ゐたとしたいなら、そのことを数行書けば済む。こんなに長々と書いてはいけない。田中さんだって
茂吉の歌の評価語にいう声調の「ゆらぎ」は、次節に詳述するように、このブラウン運動をいう「ゆらぎ」の通念を念頭においたものと考えてよいであろう。
とする。それでは次節に移ると、「をとめ等が・・」の歌への茂吉の論評について、田中さんは
この「ゆらぎを持つた階調音」は、茂吉が独自に受け取った感覚であって、誰もが共通して感じ取り得るものではない。
もしさうなら茂吉は、多くの人が分かるやうに文章を追加して書いたはずだ。田中さんは独自に解釈を試みて
まず「中止のない」とは、言うまでもなく、二句、三句、四句のいずれにも歌に切れ目がないという。「階調音」は、調和のよくとれた音の意である。
ここからして変だ。「中止のない」は「大きいゆらぎを持つた階調音」に掛かるのに、田中さんは「中止のない」と「大きいゆらぎを持つた階調音」をどちらも歌へ掛かるものと解釈した。茂吉は一句と二句の間に「中止」があるとは云はなかった。それなのに田中さんは「二句、三句、四句のいずれにも歌に切れ目がない」と、一句を特別扱ひした。
茂吉の文章は、歌全体が大きな動きを持つ階調音だと云ってゐる。ところが田中さんは、をとめ等が袖振る、から、袖振山の瑞籬の久しき時、に移動しそこから、久しき時ゆ思ひき吾は、に移動するとする。
こうした動きを「ゆらぎ」とするのは、ブラウン運動のありかたに合致する
この解釈に当てはまらないものが出るのは当然で
だが、茂吉のいう「ゆらぎ」はその一種類に統一され意識的に用いられたとは言えない面がある。
として「御食(みけ)むかふ南渕山の巌には落(ふ)れる斑雪(はだれ)か消え残りたる」の歌について、茂吉の
結句の、「消え残りたる」は、迫らない静かなゆらぎを持った句で(以下略)
について
「落れる斑雪か」の「か」という疑問形によって心情の揺れがあらわれていることを指している。
とする。ここで私の意見を述べれば、茂吉の云ふ「ゆらぎ」とは「良好の動き」のことだ。左千夫の「ゆらぎ」とほぼ同一だが、茂吉は大きいものも含める。
ゆらぎとは役立つ動き大きいを左千夫含まず茂吉は含む
八月二十六日(金)
第二章は屈折である。「あしひきの山河の瀬の響(な)るなべに弓槻が嶽に雲立ちわたる」の歌は、前半と後半が無関係の「腰折」のため
古来ほとんど注目されることはなく、明治に入ってもまだ評価されなかった。
ところが茂吉は
上の句で『の』の音を続けて、連続的・流動的・直線的にあらはして、下の句で屈折せしめて(中略)一首はそのやうな関係で動的に鋭くなつてゐるのである。
これについて田中さんは
下の句で歌の世界観ががらりと変わることを、「屈折せしめて」というのであるが(以下略)
ここが変だ。茂吉は、上の句で『の』が続くのを下の句ではさうではないことを屈折と云った。もちろん世界観も変はるが、それは屈折ではない。さて、この歌は最初に左千夫が高く評価したと、茂吉は云ふ。
伊藤左千夫がこの歌の特色に就いて門人に口伝し、門人等が大正の初年ごろから雑誌アララギを中心として此歌を強調したのに本づくのである。
のが続く歌が半ばで変はるとき大和言葉の曲がるに当たる 屈(くぐ)まり折れる
八月二十七日(土)
茂吉の歌には腰折のものも多い。田中さんは二十世紀初頭にヨーロッパで起きた芸術「未来派」の影響だと主張する。未来派とは、統語法の廃止、形容詞副詞接続詞句読点の廃止を主張し、世界的な広まりを見せたが、後にファシズムと結びつき崩壊した。
田中さんは「木のもとに梅はめば・・・」の歌が、未来派の影響だとする。この歌は左千夫と茂吉の間で論争になり、赤彦まで巻き込んだ。もし茂吉が未来派の影響でこの歌を作ったのなら、論争記録に残るはずだ。残らなかったなら、未来派は関係ない。第三章と第四章はこれで終了としたい。
第五章は波動で
伊藤左千夫のいう「情緒の波動」とは、情緒から起るエネルギーの高ぶりが連続して現れ、つのってゆく様をいうのである。
このあと
島木赤彦の「波動」は、万葉集の歌の様式を言うものと、万葉集が歌う心情への賛美の二つの意味があった。これら二面のうち茂吉は、次節で述べるように様式の「波動」のみを受け継ぎ、発展させている。
これだって変で、赤彦は「三吉野の山の嵐の寒けくにはたや今夜も我が独寝む」について
「はたや」といふ詞が入つて一首の調べに波動を生ぜしめて(以下略)」
「茜根刺紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」の歌については
激情的なるべきに激情の波動を伝へ、慎ましくひそかなるべきに慎ましくひそかなる波動を伝ふる(以下略)
前者は調べが歌全体にあり、その調べの変動が伝はるのに対し、後者は激情や慎ましくひそかなる心の動きそのものが伝はる。前者しか茂吉は使はないから、二つの違ひを問題視する必要はないが、この章はその前にエーテルの波動やホイヘンスの原理など四ページ分があり、その前に二ページある。六ページも無駄に書くのなら、二つの違ひを説明すべきだ。波動は、波か粒子かの問題だ。
次節に入るが、まづ十八ページに亘り長歌についてなので読者は通過しなくてはいけない。余分なことに頭を疲労させてはいけない。私は気づかずに、全部読んだ。短歌には役立たないことが、読み終へて短歌に入ると分かる。ずいぶん読者を馬鹿にした本だ。
短歌に入り、「ともしびの明石大門に入らむ日や榜ぎ別れなむ家のあたり見ず」の歌について
一首の声調は人麿一流の波動を打たせたもので、『入らむ日や』といつて、『榜ぎ別れなむ』とつづけ、ラムとナムと二つ云つてゐるのなども人麿的な大きい調子である。
茂吉の解説で十分に分かる。それなのに
一見「ム」の音に注目しているようでいて、「ラム」「ナム」とすることから、実は「a」+「mu」の音の連続をさしていると理解すべきである。
茂吉が「ラム」「ナム」と云ふのだから、そんなことは当たり前だ。その次の
また、「入らむ日や」と「榜ぎ別れなむ」のそれぞれの後には、文章にすると「、」読点を打つほどの休止がある。ここを大きく波うつかたちをしているといい、これを「波動」というのである。
茂吉はそんなことを言つてはゐない。私も読むときは休止を入れる。だからと云って、新たな波動を定義してはいけない。
田中さんが休止を波動とした根拠は、もしかすると長歌の解説かも知れないので、飛ばした長歌に戻ると「玉襷 畝傍の山の 橿原の(以下略)」について
これなどは、天爾遠波(てにをは)の使ひざまなどは実に達人の境で、その大きな波動をなして音調の進んでゆくさまは心ゆくばかりであり、西洋の詩などと違つて連続性であるにも拘はらず、そこに微妙の休止と省略と飛躍と静止と相交錯した変化を保たせながら進行らしめてゐる(以下略)
茂吉は、波動をなして音調が進むことを讃へ、そこには微妙の休止と省略と飛躍と静止と相交錯した変化があると述べた。なるほど長歌を読むと、それを実感する。ところが田中さんは、休止を波動だとしてしまった。その理由は、物理学の波動を、無理に茂吉の云ふ波動に当てはめるからだ。だから、短歌に戻ると
波動の性質のうち、破調が長いほど回析が顕著で、波長の短い波は回析がなく直進する性質が強いのである。
長歌で繰り返しが離れた位置に現れるのは、歌が長いためだ。短歌は短いからすぐ現れる。短歌で離れた位置に居れたら、二首くらい後の歌に入ってしまふ。
長歌のところに、茂吉の書いた長歌の図が載る。これは元の句と繰り返しの句に、丸、三角、四角とそれらの中黒(これで六種。これ以外に小丸、点など)を付けたものだ。同じ記号が離れたものもあるが、歌謡の一番と二番と同じで一番分離れたものもあるし、一行離れたものや二行離れたものもある。それは当然だ。それなのに
浪の回析は障害物にあたった波が後方へまわりこむ現象であるが、茂吉によれば長歌においてはほかの波も障害物になる。
茂吉はそんなことを云ってゐない。そもそも一つの対句があればその句に別の対句は入れられないから後になる。当たり前の話だ。
八月二十八日(日)
この書籍を批判しなくてはいけないと思ったのは、判りにくいことと、題と内容が乖離し過ぎることだ。図書館は、内容を詳しく吟味せず、題名だけで購入してしまふことだらう。税金でそんな無駄をしてはいけない。個人では、書店にあれば中身を見て購入はしないが、取り寄せた場合は購入せざるを得ないだらう。図書館に購入希望を出すこともある。だから題名は、中身を表すものにしなくてはいけない。
この本に云ひたいのは、この三行だけだ。さすがにそれでは読む価値が無いと云ってゐて失礼なので、内容についても批判した。(終)
追記九月五日(月)
二つ追記することにした。まづ茂吉は、音調を調べと同じ意味に使ふ。(茂吉の歌論)。
二つ目は「伝統と近代」と云った場合に、近代は近代短歌のことだと誰もが思ふ。ところがこの本では近代科学のことで、しかも的外れだ。だから近代短歌に役立つと思ひ、本を購入または図書館に希望をだした人は、題に騙されたことになる。
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