千八百十九(うた) 茂吉の歌論
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
八月三十一日(水)
斎藤茂吉選集第十六巻(歌論三)、十七巻(歌論四)を読み、まづ感じたことは、石榑茂、太田水穂と激しく論争したことだ。それぞれ書籍の半分近くを占める。思へば子規、左千夫も他派への論争を続けた。私は論争が嫌ひなので、この部分は読まなかった。
大正八年の「万葉調」と云ふ小文で
『余等の万葉調』といふ語を用ゐてものいつた。周囲の万葉を模するの徒は僕の云ひ方を嫌がつたけれども、嫌がるよりも、(中略)『余等の歌調』と解すればいいのであつて、真淵、宗武、元義、良寛、竹の里人、実朝の歌調におのおの独自の境を見出すものは(中略)僕の言ひ分に感心しなければならない。

茂吉が、大正の初め頃から万葉とは無縁の歌を作り始めた根拠がこれで判る。
現在に於て、万葉調を云々することを嫌ふものはなかなか多い。これは興味あることで又いいことである。それならば猛然として新歌調の現出すべきであるのに、かつて啄木・夕暮・白秋らの創めた歌調以来のものさへもない。

万葉調はほかで少し云ったので繰り返さないとあり、それは同じく大正八年の「万葉調」と云ふ小文で
万葉調は、万葉集の歌の、単に『意味・概念・筋』からは来ない。万葉集の歌の、『語気・響き・魄力(はくりょく)』さういふものから来る。

私は、美しさから来ると考へるので、茂吉の意見には三割賛成だ。
万葉調は(中略)ほかの歌集、古今・後撰・拾遺などの歌調特質との比較のうへに立つてゐる。謂はば相対上であつて、絶対上ではない。

これは十割賛成だ。
耳よせ猫なでこゑよりも肉薄突喊(かん)のこゑに、(中略)後撰、拾遺あたりから万葉に移るに及んでいかにもはつきりして来てゐるに相違ない。

これは十割賛成。

九月一日(木)
「短歌声調論」は昭和七年に書かれた。
先師伊藤左千夫の唱へた『言語の声化』に関連してゐる。

字余りについて
本居宣長は古歌を調べて、母音で字余にするのが原則とし、村田春海は、必ずしもさうでなく、(中略)これはやはり母音子音に関係なく字余にしていいのである。ただ、阿行、奈行等の音は柔らかな音だから、発音するのに(中略)余り邪魔にならないといふ実際の事実に立脚してゐるのである。

ここは私と茂吉で正反対だ。私は、母音子音ともに字余りは駄目だが、昔は母音の「あ、い、う、お」があるため可とする。母音の「え」は今後も調査したい。
枕詞は(中略)もとは表象的特質を有(も)つてゐたものが、時にただ音で続けるやうになつたものもある。それであるから、音楽的象徴の役目をし、短歌声調の構成の要素として大切な一部門をなしてゐる。

そして
先師伊藤左千夫の如きは、この枕詞の用法の多寡を以て、意味の歌か、音調の歌かを極(き)める一つの目安としたほどである。

序詞については
意味を朦朧(もうろう)とせしめる効果があり、西洋近代の象徴主義的な詩句に似かよふ点がある。

ここで注目すべきは「西洋近代の象徴主義」である。茂吉の歌は、西洋の影響を受けてゐた。

九月二日(金)
十六巻、十七巻を読み終へた段階で、茂吉は大正七年頃はかなり慢心だったが、十四年頃はそれが直った、と感じた。その根拠となる文はどれなのか探したところ、前者は「新時代の短歌」二つの「万葉調」「短歌の範囲」、後者は「短歌道一家言」であらう。この二冊は、他社への批判が半分以上なので、特にさう感じたのかも知れない。
或は後に借りた十四巻を読み始めた分も含まれるかも知れない。「童歌漫語」は明治四十三年から大正七年までなので、大正七年はここから出た可能性が高い。三井甲之について
君が伊藤左千夫・長塚節に言及したなかの、『小説をつくつて、過労のために死んでしまつた』といふ言が『魯鈍言』であるといふことを、もう一遍はつきり云つておく。

と馬酔木でいつしょだったとは思へない厳しい口調である。
馬酔木での昨日の友は今日の敵 論争自体面白く 雑誌が来るを楽しみにする人たちが多くとも その文章は美しくない

(反歌) 勝敗は歌良し悪しが一番だ或いは歌で論争をする

九月三日(土)
第十五巻は、金槐集私鈔、良寛和歌集私鈔と、これらの補足などだ。後者については、冷めた目で褒め、たまに少し批判する。これは、良寛の歌はその質素な人生とともに鑑賞するところに美がある。そのことは茂吉も、本人だったか左千夫の云ったことの紹介だったか、認めてゐる。
(二二)みどりなる一つ若葉と春は見し秋はいろいろにもみぢけるかも
浅薄な悟りの歌である。かういう思想の歌は古来(中略)幾たび繰返されたか知れない。従つて陳腐極まる嫌味なものになつて仕舞つてゐる。

それでもこの歌を選んだのは
音調の点、つまり万葉調であるからである。良寛のこの歌は西行法師の、『さまざまに花咲きたりと見し野べの同じ色にも霜がれにけり』には及ばない。西行法師のは兎に角行脚してゐて実地にしみじみと感じた歌である。良寛のは実感の歌ではあつても未だそれほど捨身になつてはゐない。また、『春は見し』などの句も下手であるばかりで無く前人の句の模倣であるからなほ下等である。『いろいろにもみぢけめかも』の句は流石によい。

音調を万葉調と呼ぶ。そして実地、実感、捨身の語がある。音調と呼ぶから子音と母音に注意が行くが、意味を含めたものが音調である。
(二三)秋やまを我が超え来れば玉ぼこの路も照るまで紅葉しにけり
(二四)夕ぐれに国上のやまを超えくれば衣手寒しもみぢ散りつつ
(前略)『衣手さむし』から直ちに『もみぢ散りつつ』と続けた具合なども、余程うまい所がある。かういふ歌になると良寛の歌も宗武の秀歌に肉薄せんとする慨がある。(中略)徳川時代に前後して宗武良寛元義などの出たのは甚だ興味ある問題である。然かも三人共に互に流派の聯鎖がなく独立して類似の歌を作つてゐるのが面白い。


九月四日(日)
第十五巻の「良寛和尚雑記」は
伊藤左千夫先生が良寛和尚の歌を論ぜられた時には、まだ和尚の一生涯を知るに足るやうな参考書は出来てゐなかつた。

で始まる。良寛の略伝と、周囲の人たちの略伝の後
〇伊藤左千夫先生の評語。「私鈔」中の予の言は、一首一首に対する感想であつて、良寛の和歌全般に対する総合論ではない。(中略)ここには先師伊藤左千夫先生が嘗(かつ)て良寛の歌を論ぜられた文(明治四十一年日本新聞所蔵)中より、若干の語を鈔し(括弧内略)て先生の説を伺はうとおもふ。それがやがて、良寛の歌に対する予の綜合論たるべきものであるからである。
(一)良寛禅師は、その人すなはち総て詩なり。(以下略)
(二)禅師の歌は、心の響きをさながらに響かせたるものなり。(中略)世上多くの歌人等は、おのれの心を除者(のけもの)にして漫(みだ)りに筆の先、詞の先に空想を構へ寧ろお伽噺(とぎばなし)に類する趣向を立つるを以て作家の本領と迷信し居るなり。(以下略)
(三)禅師の歌には、想平凡にして材料の陳腐なるものあり。然かも全体として平凡ならざる、陳腐ならざる所以のものは、作者の生活即ち歌なるがゆゑなり。(以下略)
(四)禅師はおのれ以外に世に歌作る人のあることを心にとめざりし人なるに似たり。(以下略)
(五)吾詩は即我なり。吾詩は吾が思想を叙したるにあらずして直ちにわれ其物をを現したるものならざるべからず。(中略)禅師の作歌中、これは禅師の柄になき歌なりと思ふもの一首もなきは、禅師の高きを敬せざるを得ざるなり。

この時代資料不足も良寛を左千夫茂吉が正しく評価
(終)

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