千八百十(和語のうた) 斎藤茂吉全集第二十巻から「伊藤左千夫の歌論」
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
八月二十二日(月)
「良寛、八一、みどり。その他和歌論」のリンクは、1806『東京城東地区左千夫所縁の四ヶ所を訪問』まで一つ置きだった。このリンクは頻度が高いので、他のものは二つ続かないやう予め一つ空けて作る為だった。
ところが1807『「働かないおじさん」は上司が惡い』 から旧1809『地元の話題』まで三つは、他のものが続いた。これは1802『齋藤茂吉全集第二十卷から「伊藤左千夫概説」「伊藤左千夫の歌」』と1804『(八一+牧水+水穗+左千夫)÷4 』に日数が掛かり、一つ空けるのを忘れた。
昨日1802と1804が終了した。新たにこのリンクの1808『太田青丘「太田水穗と潮音の流れ」』を作り、旧1808『地元の話題』を1810に移動した。そして今回この特集を組むにあたり、1810(旧1808『地元の話題』)を1811へ移動した。


私は歌論が好きではない。歌は鑑賞して評価すべきであり、歌論で他を批判して勝敗を決めるべきではないからだ。特に子規の一門(根岸派、アララギ派)はその傾向が酷かった。
その様ななかで、茂吉の「伊藤左千夫の歌論」は佳作である。その理由は「松籟語録」と云ふ左千夫の雑記帳を中心とするからである。まづ茂吉の意見として
左千夫は子規のごとくに、『写生』のことをさう屢は云はなかつたけれども、それは左千夫の時代には、もはや子規の時代ほど此語を使ふ必要がなかつた(以下略)

これは同感で、子規の時代は使ふ必要があった。左千夫の時代は、もう写生を云ふ必要はなかった。
左千夫の歌論には多く『根本問題』といふことが出て来るし、従って、『人格』云々といふことが出て来る。

具体的には
作者其の人の人柄丈けのものしか出来ないのが普通である。

これは同感だ。茂吉も
私はその頃未だ若かったので、血気のあまりかういふ根本論、人格論が嫌ひで(中略)もつと具体的な話、もつと各論的な話を聴くことを好んだのであつたが、先師歿後二十数年を経過した今日になつて見れば、思当ることが幾つもあるのである。

左千夫は更に
詩的作物に勉むるは、又人格を養ふの好方便なることを忘れてはならぬ

これも同感である。私が散文に歌を入れるやうにしたのも、読みやすくするとともに、人格を養ふのが目的である。
歌を論(と)くほかの歌への悪口を含まないならこれも好い文(ふみ)


八月二十三日(火)
左千夫の言葉に
歌は新しい為に価値があるのではない。生命があつて初めて芸術であるのである

これについて茂吉は
現今の人々にとつては、当然過ぎる程当然の論で(中略)当時の歌壇にあつては(中略)左千夫の万葉調の歌は、、明星、スバルを主調とせる歌壇からは古い古いと云はれ、後には左千夫の周囲に居た若者等の動きが、ややともすると左千夫の歌風以外に食み出さう食み出さうとした時であつた。与謝野晶子女史などは、『伊藤左千夫一派の歌はあれは新派の歌ではない』といふことを大つぴらに云つてゐた程であるし、一般歌壇は左千夫の歌をば寧ろ黙殺してゐた時である。

ところが副作用として
左千夫の周囲の歌で(中略)生命ありとして褒める歌の中には、平板陳腐に終る歌が幾つもあるやうになった。

対策として
左千夫の『生命』の説を読むに際して、これを根本論とし、根源論として受納すべきこと、他の『叫び』の説等に対するのと同様であるべきだと思ふのである。

左千夫は晩年に、『真は力である。力の無いものは総て仮の物である』(松籟語録)とも云つた。此の境界に至れば、もはや相対的な『新』などは問題にしてゐない。
新しい古いではなく力ある力が無いに左千夫は至る
新しい古いではなく美しい美しくない私の見方


八月二十四日(水)
「万葉集」で左千夫は
○(前略)作者の詩的感懐が高い、材料の観取が非常に広い、言語の駆使が自在である、使用の言語が非常に饒多である。(中略)(子規と和歌)

また
○万葉集の歌は詠嘆した歌であるから(家持以下のものには思索して作つたものが多いが)、作者の興奮的感情が直接声調の上に表現されて居る。作者の考や感情を提供して読者の同感を強ひるやうな歌は少い。(表現と提供)
○万葉の良い歌は、句々総てに芸術要素が含まれて居るが、今の歌は三十一字を読了して考へて見なければ味がない。(松籟語録)

また
万葉集の歌は、極めてゆるやかに落ついて、ゆつくりゆつくり詠まねばなだらかには詠まれないのである。これが一方から見ると、如何なる思想材料をもこなし得て、歌のたけ高く広やかになる所以である。故に万葉の歌は後世の歌のやうに単調ではない。含蓄があつて重厚であるのだ。(以下略)

「歌の調子」で
○洋語・漢語・新事実、打ちこなしては万葉調たらしめんと欲するなり。
これは、明治三十四年に左千夫が続新歌論を草した時に喝破したる語である。正岡子規一派の万葉調の歌が、『擬古』の一語を以て排し去られむとした時に、左千夫は、殆ど絶対賛美ともいふべき程の賛美を万葉調に冠らせ、豪然として此語をなしてゐるのである。謂はばこの語は左千夫の歌論としては初期のものであるが、左千夫は子規歿後と雖毫もこの信念を撓めることなく、歌壇の主潮流から黙殺されつつ、つひに生を終つたのである。

茂吉は続けて
私の如きも先師歿後、歌風の変化を試みつつ、既に三十年にならうとしてゐるが、私の得た結論もまた先師のこの一語の外には出でざるものであつた。
(終)

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