千八百二(うた) 斎藤茂吉全集第二十巻から「伊藤左千夫概説」「伊藤左千夫の歌」
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
八月十二日(金)
斎藤茂吉全集第二十巻「伊藤左千夫・正岡子規」の前半七割以上は伊藤左千夫だ。そのうちの第三章「伊藤左千夫の正岡子規景仰」では
伊藤左千夫は(中略)最も敬虔にして熱烈な門人となつた。それであるから左千夫の子規賛美は殆ど絶対に近いもので(以下略)

子規を擬古派に引っ張ったのが左千夫と考へがちだが、それは違った。子規自身さうだから、左千夫がそれに倣ったとすべきた。
なほ、左千夫のやうな人のゐる組織に所属すると、私なら不満が出る。「先生の云ふことは絶対に正しい」と誰かが熱狂すると、かへって冷めた目になる。

八月十三日(土)
第二章「伊藤左千夫概説」に戻り
正岡子規歿後、馬醉木時代ごろには、新派歌壇の主潮流は(中略)新詩社の歌に移り行いて居た。(中略)歌人等は知らず識らずのうちに晶子の影響を受けつつあつた中にあつて、根岸派の歌人等は頑としてその歌風を排撃したため、世間からは擬古派といふ一語のもとに軽蔑せられ、歌壇から全く黙殺せられるに至つた。この現象は馬醉木を通過してアララギの初期まで続いたのであるから、左千夫は世間的には殆ど全く歿却せられてゐた時代にゐた歌人だと謂ふべきである。左千夫生涯中の傑れた歌は、大部分はさういふ時に出来たものである。

前にも書いたが、左千夫は貢献をしたのであり、野心ではない。関心が高くなった集団の中心になれば野心だが、さうではなかった。
新詩社に染まらないのは馬醉木のみ茂吉は主張擬古一理あり
創作社また新詩社と別の道牧水が書くこれも正しい


八月十四日(日)
第四章「伊藤左千夫の歌」で
春さめのふた日ふりしき背戸畑のねぎの青鉾並み立ちにけり
なぐさみに植ゑたる庭の葉広菜に白玉置きて春雨のふる
このごろの二日の雨に赤かりし楓の若芽やや青みけり

一首目と二首目は悪くないが、三首目は凡庸だと思ふ。ところが茂吉は
この三首を注意して読むと、如何に子規の歌の影響が著しいかが分かる。左千夫の従来の歌は、もつと大掴みにして、内容を単純にして、それを調べ豊かな万葉調で歌ひあげようとするにあつた。

先へ進むと
青畳(あをだたみ)八重の塩路を超えくれば遠つ陸山(くがやま)はな咲ける見ゆ
天つ風いたくし吹けば海人の子が網曳(あび)く浦わに花ちりみだる
病みこやす君は上野のうら山の桜を見つつ歌詠むらんか

三首目は駄作だが、一首目と二首目は表現が美しい。しかし茂吉は
これは子規が日本新聞で「桜」といふ題で歌を募集したとき選ばれた歌が十八首ばかりあつたが、その中の三首を此処に載せた。さうたいして優れてゐるといふ程の歌ではないが、大体万葉調で行かうといふ調子が見える。

茂吉が云ふやうに、三首とも大した内容ではないが、一首目と二首目は表現が美しい。表現を重視する私と、内容を重視する茂吉及び子規との違ひが分かる。そして左千夫も、子規のやり方を選んだ。
表現を重視するのか内容か両方揃ふ歌は少ない

茂吉の歌の多くは、両方とも欠ける。私の歌も同じだ。だが茂吉は連作で、私は散文に埋め込むことで、物語性の美しさを出した。

八月十五日(月)
百花園の
とりどりの色あはれなる秋草の花をゆすりて風ふきわたる
秋草の千ぐさの園にしみ立ちて一(ひと)むらたかき八百蓼(やほたで)の花
あき草の千ぐさの園に女郎(をみなへし)穂蓼(ほたで)の花と高さあらそふ

これらについて茂吉は
万葉調もやうやく整つて来たのみのみならず、(中略)子規流の万葉調といふことになる。その万葉調は、真淵流とも良寛、元義流とも幾分づつ違ふといふ意味である。

さて
このころの左千夫等はそれほど熱心であつた。これを単に野心などと云つて片付けてしまはれぬものがあつた。長塚節は『野心』と評したが、同じ野心でも邪気の無い野心であつた。

そもそもここで茂吉が云ふ「左千夫等」には節も入ってゐる。このあと百四十五句の長歌を紹介の後
その頃の歌人の長歌に比して実に驚くべき程の優れた力量を示して居る。(中略)後年になつて左千夫は人麿の長歌に就いて彼此論議したけれども、それは人麿の長歌を通過した揚句の論議であるから、ただ漫然として人麿を非難して居るのではない。


八月十六日(火)
榛黄葉の
七葉八葉(ななはやは)なほ残りたるはしばみの黄葉(もみぢ)のさ枝見れどあかぬかも
汲みかへし苔つくばひの水のおもに色うつりたるはしばみ黄葉(もみぢ)
はしばみの実もいちじろくあらはれて黄ばめる木の葉やや落ちつくす
色はややあかねばみたる苔の上に三葉四葉(みはよは)ちりぬはしばみ黄葉(もみぢ)
片庭のはしばみ黄葉(もみぢ)落ち散りて残りすくなみはや冬さびぬ

これらについて
写生の手法が細かに確実になつて来て居るが(中略)子規が俳句の方で悟入した、その態度を学んで居るのである。(中略)『七葉八葉なほ残りたる』といひ(中略)、斯くの如き実体の句は、他派の新派の歌には無かつた。

左千夫の評判が昭和五十年辺りから悪くなった理由は、戦後の旧派排斥の流れで、他派の人たちが左千夫を旧派としたいためなのだらう。茂吉は戦後も生きたため、旧派排斥の流れに乗れた。この本は昭和十六年に書かれた。
解説は続き
新派の歌は(中略)空想の歌が多かつたのを、子規は実体を看るといふ手堅い法を創めて、それを左千夫が模倣してゐるのである。(中略)万葉的言語を駆使することも日一日と進歩して居る。

終戦の後では皆の言論が昭和五十年の頃にも同じ 第二敗戦


八月十八日(木)
明治三十四年に入り
花ちらふ隅田(すだ)の河原の寺島に雨ふりくれて蛙なくなり
遠人(とほひと)も袖ぬれきつつ春雨のさくらの宿に茶の遊びすも
(前略)もはや大家の風格である。『花ちらふ』は既に人麿の歌の句にあり(中略)その取方が適切であり、『寺島』といふ固有名詞も、『遠人も』といふ熟語も極めて自然である。

私は、それほど佳くないと思ふ。『散らふ』なら誰もが分かるし、美しいと思ふ。『ちらふ』だと分からないし、美しくない。古語は意味が分からないときに、美しく感じるものと違ふものがある典型だ。
夕汐(ゆふしほ)の満ちくるなべにあやめ咲く池の板橋水つかむとす
夕やみは四方(よも)をつつみて関口の小橋のあたり鳰鳥(にほどり)の鳴く
うち橋のあなたこなたのあやめ草尖る瑞葉(みづは)に露光る見ゆ

これらは文句なしに巧いと思ふ。茂吉は
(前略)なかなか旨い。明治三十四年は同人皆緊張して勉強したことが分かる(以下略)

「なかなか」が引っ掛かるが、茂吉も全面で褒めたことにする。

八月十九日(金)
子規の亡くなった翌年の御題新年海を五首紹介し
御題について作歌することは(中略)当時の新派例へば新詩社あたりの歌人は(中略)避けたし、また作り得なかった。然るに根岸派の歌人等はそれをあへて避忌することなく(以下略)

当時は、旧派、新派、根岸派の三つだったことが分かる。百花園の
露繁き萩をし見むと朝晴の須田の寺島くればたのしも
うちわたす墨田の河の秋の水吹くや朝風涼しかりけり
(以下略)
(前略)根岸派で発育せしめた歌風が此処まで歩んで来て、もうただの材料羅列でなく、独特の『ひびき』を持つやうになつて来て居るのに気づく。

小園秋深し、では
朝なさな露の寒きにわが園の秋草なべてさびにけるかも
(以下略)
(前略)子規歿後の左千夫は(中略)思ふ存分に自分の好い点を発揮せしめ得たのであるが、併し左千夫は子規以来の伝統的歌風から食み出さうとせずして、じりじりとその歌風を深めて行つた(以下略)


八月二十日(土)
明治四十一年から、茂吉の分類による第四期アララギ初期に入る。茂吉は二十首挙げるが、その中で私が佳いと思ふのは一首だけで
汽車のくる重き力の地響きに家(や)鳴りとよもす秋の昼すぎ

これだって美しいのは力強さだけだ。茂吉は
歌会の歌でも(中略)いかにも抒情詩的で、恋愛情調にかよふものである。(中略)当時、此等の歌は、必ずしも門人等の賛成を得ず、(中略)長塚節でさへ、『左千夫君には近来此の如きものあるを歎ぜざる不能、しかも頑として他人の言に耳をかさず候』と云つたほどである。

私は門人等に賛成だ。ところが茂吉は
左千夫の歌は、この過渡期を通過して(中略)晩年の歌に移行するのである。さうして見れば、観潮楼歌会に出席したことも、小説に熱心であつたことも、作歌上の邪魔とならなかつたのみならず、却つてその進歩返歌を助けた(以下略)

私と茂吉の意見の相違は、「伊藤左千夫の歌」で診る限りここで発生した。「左千夫と茂吉、対、他の門人と私」である。

八月二十一日(日)
茂吉は、四十六歳から没年の五十歳までを五期とした。私が見たところ、五期の途中から悪くなる。前半は「人の住む国辺を出でて・・・」など名作が続く。ただし破調も多い。観潮楼歌会で他派の悪弊が伝染した。
後半に入り、ほろびの光は
おりたちて今朝の寒さを驚きぬ露しとしとと柿の落葉深く
鶏頭のやや立ち乱れ今朝や露のつめたきまでに園さびにけり
秋草のしどろが端にものものしく生きを栄ゆるつはぶきの花
鶏頭の紅ふりて来し秋の末やわれ四十九の年行かんとす
今朝の朝の露ひやびやと秋草やすべて幽けき寂滅(ほろび)の光

すべて破調だ。「露しとしとと」「柿の落葉深く」「園さびにけり」と美しい表現があったとしても、失格だ。茂吉はゲエテの抒情詩に匹敵すると、或は以下のやうに大変な褒め方だ。
この五首の連作は、九十九里浜の連作などとはまた別様にして左千夫生涯の歌の頂点に位するものの一つである。

歌感で私と茂吉異なるは左千夫第五期後半に因る
(終)

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