千七百八十二(和語のうた) 三たび玉城徹さんの本を読む
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
七月十六日(土)
前回に引き続き、玉城徹さんの歌集「香貫」(文庫版なので平成十五年、通常版は平成十二年)を読んで、私と歌感がまったく異なる。歌集「汝窯」も同じだった。特に「汝窯」は各章の先頭に、例へば
鏡は自分の前におかれたものと同じ色彩に変るものだ。
             レオナルド・ダ・ヴインチ

が入る。これが西洋かぶれで嫌だし、歌自体も取り上げるものはなかった。それが前回だったが、雨天が続き図書館に行けないため、読む本が無い。
今度は歌集「汝窯」を先に読み、辛抱して一首一首をていねいに読んだ。すると四十七頁目に
さくら白き潮入り川のかはのべに沿ひつつくれば海に波あり

「さくら白き」が字余りでなければ、悪くはない歌だ。一頁に平均四首として七頁から始まるから、百六十首目で初めて悪くはない歌に出会った。その次は六十六頁目の
ぬばたまの夜空わたらふとどろきは避くるが如きひびきまじへつ

枕詞を使ふこともあるのは、よいことだ。「夜空わたらふ」が美しい。「は避くるが如き」は推敲の余地がないか。六十八頁目の
はやち風吹きすぐるたびいそのかみ古木(ふるき)のつばきあかあかとして

これも枕詞があり、よいことだ。「はやち風」の工夫が美しいが、「あかあかとして」でよいのか。疾風と関係あるかないか。七十九頁の
山ふかく大しらびそはみどり濃き樹とこそたてれ天つ日のひかり

係り結びも使ふのはよいことだ。「天つ日のひかり」に推敲の余地はないか。八十六頁の
原爆を投下せしアメリカの卑劣なるこの沈黙を見るべし世界も

内容は良い。歌としては、字余りがひどく失格だ。私が修正すると
原爆を投下の米は卑劣なるこの沈黙を見るべし世界

または
原爆を投下せし米卑劣なる沈黙を見よ世界人民

万葉調で美しいのが九十頁の
馬(ま)放しの島みをゆけば沖つべにたつ白波は見えわたりけり

「馬放し」「島み」「沖つべ」が美しい。その隣の
ここにしてしばしがほどを佇ちゐたり白く泡だつ磯の夕ぐれ

「しばしがほど」「白く泡だつ」「磯の夕ぐれ」が美しい。
よろづはの言葉の歌は少ないが多くの歌に力が及ぶ


七月十七日(日)
玉城さんは昭和二十七年に、都高教執行委員を務める。だから三十九頁の
亡命者マルクスを思ひマルクスの娘を思へば涕(なみだ)とまらず

がある。玉城さん自身は、昔で云へば社会党穏健左派、分かりやすく云へば容共派かな。
そのこととは無関係に、玉城さんの膨大な歌のなかには、幾つか優れたものがあった。(終)

追記七月十九日(火)
「玉城徹作品集」も読んだ。歌集「馬の首」「樛木」、詩集「春の氷雪」からなる。このうち詩集は読んでも駄目だった。私は、不定形詩がよほど合はないのだらう。
歌集は、これまで読んだものがほとんどだが百八十頁の
平城(なら)の宮の土より出でしひとがたを見をれば寂し霧湧くごとし

一句が字余りだから「平城の宮」と最後の「の」を除き、ひらがなにすると
なら の みや つちより いで し ひとがたを み をれば さびし きり わく ごとし

八一の作と見分けがつかない。ただし見分けがつかないのは、この一首だけだ。玉城さんと八一では力量と作風がまったく異なる。ところがこれらには幅があるので、極めて稀にかういふことが起きる。

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