千七百八十四(和語のうた) 牧水「短歌作法」
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
七月二十日(水)
若山牧水全集から「短歌作法」を読んだ。上篇十三章を過ぎて、下篇六章のうち第四章「さうですか歌」に眼が止まった。
各種新聞雑誌の歌壇の歌を選びながら、悪いと見て捨つる歌の中で一番多いのは私の謂ふ「さうですか歌」である。

歌を見て、こちらも感動して何も云へない場合は、
多くの場合、秀逸な歌である。

次に、なるほどこれは面白い、と思ふ場合は
秀逸まではゆかずとも、先づ佳作の部に属する。

一寸面白いな、と云ふ場合は
無難な作

そして返事に困るのが
「さうですか歌」

因みに、私が佳作と言ふ場合は、牧水の基準だと秀逸と佳作の両方が含まれる。「さうですか歌」の例として、東京の某新聞にこの日投書してきた
こころよき目覚めなるかもへやぬちにひとりめざめて空を見つむる
二人ゐて小夜のくだちに鳴く蟲の声をあはれとききにけるかも

確かに「さうですか歌」だ。感動が全くない。牧水は「さうですか歌」を二つに分類し
第一は無感動な歌である。

ここまでは同感だ。しかし次から、私と牧水で少し意見が異なってくる。
次に「さうですか」を生むのは「説明」の歌である。説明の歌と云つても、説明するところから右
(インターネットは縦書きなので上)に云つた無感動の歌に堕ちてゆくにいふにすぎぬのであるが(以下略)
具体的には
「斯う斯うだから斯う斯うだ」「斯く〱(二文字繰り返し記号)斯やうしか〲(濁点付き二文字繰り返し記号)」といふ種類の歌を指すのだ。例へば
飽きそめしその日その日の事務なれどなりはひなれば務むるなりき
(二首目略)
と云つた風のものである。すべて理窟を云ふ形のもの、説明をするもの、これ〱しか〲といふ風な報告式のものなどみなこの部に属して来るのである。

ここはどうか。この歌は長年勤めた感動を詠んだかも知れない。この時点で、牧水は減点法、私は加点法と、大きな相違があることに気付いた。そして秀逸な歌は、加点法でなければ生まれない。
ぬきん出た事が一つで大きな差優れた歌の優れた謂はれ


七月二十一日(木)
減点法、加点法の問題とは別に、もう一つ別のことがある。説明することで感動が生まれる場合もある。それは牧水も分かってゐて
単にその説明が説明のみとして存在するに留まるか、若しくは説明は方便であってその説明を通して作者の感動が躍動してゐるかの差が生じて来るのである。

牧水はこのことについて、更に有益なことを言ってゐる。
単に材料だけしか歌の上に出てゐないとするならばーー即ち説明なり報告なりにと留まつてゐるならばそれは感動が弱いからである。

対策として
その材料なり感動なりを凝視し内省するも必要である。さうしながら次第に感動の統一を計るも必要である。而して常に自己を一段と高所に置いて材料を瞰下(かんか)すべきである。決して材料を真中に置き、その前後左右を右往左往すべきでない。右往左往することはとりも直さず材料の影のみを大きくして自己の姿を小さくし(以下略)

うたごころ高まり足りぬそのときはすべての影を見おろすとよい
(終)

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