千七百三十八(和語の歌) 他の歌人たちの歌を見る
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
五月五日(木)
近年、歌人と称する人たちのなかに破調が目立つ。破調がない場合でも、定型の美しさを活かしてゐないのではないか。そんな気がしてきた。
これらの人たちは、歌を作りたいのではなく、短い詩を作りたいがさう云ふ分け方がないので、歌に入ったのだらうか。
徳川が終はりて後は 国の外ね(音)の数合はぬうた(詩)があり 国に入りて似たものを作る人たち歌ととな(称)へる

(反歌) ねの数が合ふと一つ目美しさ二つ目次は何を探すや

五月六日(金)
他人の歌をたくさん読まう。さう思って「朝日歌壇'94」「朝日歌壇 共選二十年秀歌集」「朝日歌壇 四者共選二十年秀歌集」「毎日歌壇59年版」を借りたが、不発に終はった。語感、美への感覚が違ひ過ぎる。そんななかで「朝日歌壇'94」の選者四人による「新春詠」は読み応へがあった。
近藤芳美さんの
今もやまぬいずちの飢えと流血と吾ら地上のひとつ民として

「今もやまぬ」は「い」があるから破調ではない。しかし「ひとつ民として」は破調だ。と云ふことは、一句目はたまたま「い」があっただけで、この人は音の数を整へる美しさをまったく考へないことがよく判る。もう一首は字余りが酷くて、取り上げる気にもならなかった。
馬場あき子さんは二首とも褒めることとしたい。
三陸の川を上れる太鮭(ふとざけ)のはららごを奪(と)りて塩を握れり

まづ私は、動物を殺したり調理する歌は嫌ひだ。だから内容は嫌ひだが、表現が美しい。歌はかうでなくてはいけない。
球根を埋めたる土のやはらかき黙(もだ)しみらかに冬の日は射す

これも表現が美しい。
島田修二さんは
家ぬちの硝子器にきよく光(かげ)射して思ひしづけく年あらたまる

硝子器を除いて、古語が美しい。せっかく美しいのに硝子器で台無しになった。硝子器でガラスと読むなら辛うじて合格だが、おそらく「ガラスき」だらう。まさか「ガラスうつわ」ではないと思ふ。どちらにせよ字余りだ。「家ぬちの硝子にきよく光(かげ)射して思ひしづけく年あらたまる」或いは「家ぬちのコップにきよく光(かげ)射して思ひしづけく年あらたまる」では駄目なのか。
過ぎ来たる日日それぞれに影ふかく武蔵野の春鎌倉の春

「武蔵野の春鎌倉の春」では、まるで素人だ。「武蔵野そして鎌倉の春」のほうがまだましだ。
佐佐木幸綱さんの二首は、取り上げる気にさへならない。二首目がひどすぎる。一首目だけなら
降りそめてまた降りやみぬ行く雲を冬の運河は映すいくたび

の「映すいくたび」を「続けて映す」あたりだと良いが、二首の題「ライデンにて」は悪い。

五月七日(土)
気を新たに「朝日歌壇 共選二十年秀歌集」を、全部ではないが読んでみた。かつては労使対決、資本主義対社会主義の時代だったことは懐かしい。私は今でも世の中は、労使対決、資本主義対社会主義の対決にしないと駄目だと思ふ。全国に革新知事市長が誕生した時代を経験した世代なら、多くがさう思ふことだらう。
さて、これは佳作だと思ふ歌があった。五島美代子、前川佐美雄、宮柊二、近藤芳美の四名のうち前川さんの選歌だ。
日照りたる琵琶湖の魞に秋水の還りて白き雲の映れる

私は佳作だと思ふが、前川さんしか選歌してゐない。一方で
シベリアの夕焼雲がそのままに朝焼となる白夜うるわし

これは宮さんと五島さんが選んだ。私も佳作だと思ふが、「うるわし」を変へるとよい。日本から遠いことを示す表現にするには字数が足りないから「そのままに」を削除する。例へば
朝焼けに夕焼け雲が白夜経て祖国離れた北極の空

昭和四十年代の大先輩に添削なんて失礼だから、場所を北極に移し本歌取りとした。本歌を取らぬ和語の歌では
夕焼けが朝焼け雲に夜を経ず国を離れた北はての空


五月八日(日)
次に「朝日歌壇 四者共選二十年秀歌集」を読んだ。こちらは昭和四十五年から始まるので、四年間は昨日紹介した「朝日歌壇 共選二十年秀歌集」と重なる。だから昭和五十年から読み始めた。後者(昭和三十年から)は年号が主で、括弧内が西暦だったのに、前者(昭和四十五年から)は西暦が主で年号が括弧内だ。発行は平成三年なので、この辺りから西洋かぶれがひどくなったことを示す。平成になり、昭和と換算が必要と云ふ事情もあるが。
昭和五十三年の
善光寺無明の闇にさまよいて浄土の鍵にふれしときめき

選歌が前川さんだけなのには驚いた。他の選者は表現、美しさが眼中に無いらしい。昭和五十四年の
廃村の太鼓静かにこだまして湖底に沈む祭りなりけり

宮さんと、前年から選者に加はった馬場あき子が選んだ。「なりけり」に工夫の余地はあるが、年間秀歌にも選ばれた。
昨日(昭和三十年から)と比べて、本日(昭和四十五年から)は口先だけの政治主張が多くなった。歌を詠みたいのではなく、口先だけはいけない。
その問題とは別に、個人の周囲に起きた出来事でも、それを個人の歌に留めるか、公にする価値があるのか。「おほやけ歌」と「わたくし歌」の区別が必要だ。「わたくし歌」に美しさを加へれば「おほやけ歌」になると考へるのだが。
おほやけとわたくしがある歌にても皆が読みたいおほやけ歌を


五月九日(月)
本日は「毎日歌壇 昭和59年版」を読んだ。前期(六月まで)と、後期(それ以降十二月まで)から各選者が一首づつ選んだものを見ると、佐藤佐太郎さんの
幾度も見えなくなりし遠山の雪明りする夕昏れとなる
潮退きし午後にて遠く島結ぶ道黒々と海中に見ゆ

どちらも妥当なところだ。私と佐藤佐太郎さんの歌感が一致した。ところが窪田章一郎さんの
外つ国に心許せる友ありて子の成長を挨拶に問ひあふ
バルト海の岸辺に二本桜の木訪ふ人もなく盛りなりけり

一首目は、「外つ国に」と万葉式の表現と、他の単語が調和しない。「海外に」がよいし、カナダ在住の日本人だから「海外で」が良いのでは。窪田さんも、さう思いつつ選歌したのかも知れないが。
二首目の「バルト海の」は字余りで「バルト海」にすれば解消する。一首目もさうだが、窪田さんは破調に寛容過ぎる。あと、当時は海外に行ける人は稀だった。窪田さんは海外に甘過ぎる。
高安国世さんは前期のみで
泡生みてがうがうと海にかへりゆく原子炉をくぐりきたる海水

「原子炉をくぐり」が優れる。私と高安国世さんの歌感も一致した。
生方たつゑさんと玉城徹さんは多少歌感が異なるが、まったく異なる訳ではなく、特に反対ではない。二人の選んだ歌を紹介すると、つひ批評してしまふから何も云はないことにした。
「毎日歌壇 昭和59年版」で気づいたことは、「朝日歌壇」とまったく異なる。「朝日歌壇」は昭和五十年辺りまでは、共感しつつ読めるが、ベトナム戦争が終はりこの時点では共産主義が優位に立ったものの、昭和五十五年辺りから逆転し、朝日新聞の拝米がこの辺りを起点とするのか、と感じた。(終)

「良寛と會津八一、和歌論」(六十五)へ  「良寛と會津八一、和歌論」(六十七)歌(二百七十九)へ

メニューへ戻る 歌(二百七十七)へ 歌(二百七十九)へ