千七百二十五(歌) 瞑想を「目的を目的としてはいけない」論から見ると
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
四月二十三日(土)
今から三十年前に、瞑想は出家者がするものだった。その後、世の中が複雑になったため、今では在家者も瞑想をするやうになった。
瞑想には止と観がある。止は心を落ち着かせるため、観は心を活性化するためだ。瞑想法によっては、止の比重が極めて高いものや、止を省略して観から入るものもある。これらは在家向きに開発されたものだと思ふ。
私自身は今のところ止しか行はない。心を落ち着かせる必要はあるが、心をこれ以上活性化する必要はないからだ。それでは四禅や四向四果と無縁ではないかと云はれさうだ。しかし、四禅や四向四果を目指すことは、目的を目的としてしまふ。
釈尊の世に複雑な四向四果四禅が在るか無いかは不明
釈尊の時代に、仏道の比丘比丘尼が在家から支持されたのは、教へが分かりやすかったためだ。だから、四禅や四向四果のやうに複雑なものは、初期仏道の後半でできたのではないか。これは俗だから云へることだ。「俗だから間違へました」で済まされる。
四月二十四日(日)
「比丘や修道女は、僧院での生活自体が瞑想だ」。これは瞑想を重視する近年に合はせた表現で、その前の年代で云へば「比丘や修道女は、僧院での生活自体が修行だ」。
出家して持続するこそ尊けれ故に在家はそれを助ける
「こそ」があるので係り結びの部分が「文語」になった。口語に文語を含めるよい方法に発展するかも知れない。
在家で瞑想を重視し過ぎると、執着になるから注意が必要だ。在家は、複雑な世の中で仕事や生活する助けとして瞑想する。これくらいがよい。
四月二十五日(月)
日本、中国の禅宗は、曹洞宗と臨済宗に分かれ、前者は非思量を目指し、後者は公案の解答を目指す。しかしこのままだと、非思量や公案に執着してしまふ。解決方法として「目的を目的としてはいけない」。
目的を目的とせずその先は人や宗派に依りて異なる(終)
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