千七百十一(和語の歌) 茂吉の末流で統一してはいけない
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
三月二十六日(土)
図書館の開架で和歌の本を探したところ、茂吉の本ばかりだ。あと會津八一が一冊あり、良寛を調べるときに八一の名を知ったので、前回はこの二人で特集を組んだ。今回の本棚も変はりはなかった。
私が茂吉をあまり好きではないのは、師匠の伊藤左千夫と不仲になった状態が、歌論に関して左千夫の死後も続いた。赤彦と茂吉は仲が良いのに、赤彦は左千夫を尊敬し懐かしみ、茂吉はそれがない。
茂吉の歌で佳いのは、明治四十年の二首だけだ。ここまでが、前回の内容だった。今回は、茂吉の歌を更に精査することにした。
子規左千夫節(たかし)は同じ流れにて赤彦茂吉新たな流れ
さいたま市立図書館の在庫種類数(同じ本が別の図書館にあっても一冊として数へる)を調べたところ
名前 | 種類数 |
左千夫 | 95 |
赤彦 | 64 |
茂吉 | 211 |
信綱 | 52 |
牧水 | 123 |
水穂 | 27 |
流派別に色分けした。茂吉が圧倒的に多く、牧水、左千夫と続く。さいたま市は、二十二図書館と三分館があり、元は四つの市だったから、偏りは無いだらう。
三月二十八日(月)
塚本邦雄「茂吉秀歌 『赤光』百首」はひどい本だ。茂吉の秀歌を褒めるふりをして批判する。私は前回の調査で、茂吉が嫌ひになった。その理由は、茂吉は師匠を裏切ったし、私が前回調べたら佳い歌は二つしかなかった。
だからと云って、茂吉の歌をけなしたりはしない。佳い歌が二つしかなかったと云ふだけだ。それに対し、塚本邦雄なる男は取るに足らない批判を繰り返す。例へば
ものみなの饐(す)ゆるがごとき空恋ひて鳴かねばならぬ蝉のこゑ聞(きこ)ゆ
「土屋文明へ」
について
茂吉は後輩のノイローゼを憐んでか、この頃「文明子へ三首」の注ある歌を見せてゐるが、掲出の蝉の歌はそれに含まれてはゐない。(中略、三首について)いづれも、どう眺めても挨拶の歌とは思へない。ましてや神経衰弱に効能ある呪文とも取りかねるし、病める弟弟子を鼓舞する心ばへなど更に感じられない。
そもそも塚本なる男は破壊短歌の立場から茂吉の破壊不足を批判し、私は表現重視の立場から茂吉の破壊性を批判する。立場が正反対だった。破壊短歌は、歌とは云へない。
字余りや字足らず歌に非ずして心を汚す歌も甲斐無し
三月二十九日(火)
今回の特集を「茂吉の末流で統一してはいけない」としたのは書籍やインターネットに、左千夫が擬古派に偏ったため茂吉や文明など全員と不仲になった(つまり左千夫が孤立した)とするものが多い。これは茂吉系の人が多いためだ、と考へた。
実際はどうだったのだらうか。思潮社の「現代詩文庫 1012 斎藤茂吉歌集」を読んだ。「歌集改選<赤光>全篇」のうち、明治三十八年の十七首は佳い歌が無い。明治三十九年は、「地獄極楽図」(十一首)、「蛍と蜻蛉」(五首)は佳い歌がないものの、「折に触れて」(二十首)に美しい表現を持つ歌が九つある。ただし字余りや結句が悪いなどの理由で、佳い歌にはあと一回推敲が必要だ。枕詞を用ゐた歌は、美しい表現を持つ歌とした。枕詞を使ふ茂吉に敬意を表した。
明治四十年の「蟲」は八首のうち
花につく赤小蜻蛉(あきつ)もゆふされば眠りにけらしこほろぎのこゑ
「ゆふされば」が美しく、「こほろぎのこゑ」が起承転結の結に当たるのも美しい。
あきの夜のさ庭に立てば土の蟲音はほそぼそと悲しらに鳴く
「さ庭」「「悲しら」が美しい。
なが月の秋ゑらぎ鳴くこほろぎに螻蛄(けら)も交りてよき月夜かも
「秋ゑらぎ鳴く」「螻蛄も交りて」が美しい。
同じく明治四十年の「雲」(十四首)は
かぎろひの夕べの空に八重なびく朱の旗ぐも遠(とほ)にいざよふ
と
小幡ぐも大旗雲のなびかひに今し八尺(やさか)の日は入らむとす
を前に挙げた。
岩根ふみ天路をのぼる脚底ゆいかづちぐもの湧き巻きのぼる
「岩根ふみ天路をのぼる脚底ゆ」「いかづちぐもの湧き巻きのぼる」が美しい。つまり全文が美しいが、美しい理由はそれぞれ異なる。「岩根ふみ」は「天路をのぼる」に掛かるから美しい。「天路をのぼる」も「脚底ゆ」に掛かるから美しい。「「いかづちぐも」はこれだけで美しく、古語の利点だ。「かみなりぐも」と現代語だと、全然美しくない。「湧き巻きのぼる」」は動詞を三つ重ねたところが美しい。
ひむがしの天の八重垣しろがねと笹べり輝く渡津見の雲
「天の八重垣」「しろがねと笹べり輝く」が美しい。
十あまり四つのうちの四つまで優れた歌をよみ人冴える
三月三十日(水)
同じく明治四十年の「苅しほ」(八首)では
窓の外(と)に月照りしかば竹の葉のさやのふる舞あらはれにけり
「月照りしかば」「さやのふる舞」が美しい。
霜の夜のさ夜のくだちに戸を押すや竹群(たかむら)が奥に朱の月みゆ
光景が美しく、「戸を押すや」「竹群が奥」の表現も美しい。
ところが同じく明治四十年の「留守居」(八首)で急変する。佳い歌が無い。ここから明治四十一年に入り、佳い歌と、さうではない歌のせめぎ合ひになる。明治四十二年は、佳い歌が僅かな例外を除き無くなる。
「赤光」初版跋に茂吉は
近ごろの余の作が先生から褒められるやうな事は殆ど無かったゆゑに(以下略)
と書くが、左千夫が変はったのではなく、茂吉の作風が変はった。明治四十年を調べると、五月に茂吉は古泉千樫と知り合ふ。千樫も左千夫に師事してゐた。千樫をインターネットで調べるとWikipediaに
この頃から文壇に自然主義文学の作風が主流をなし、その理論や作風に傾倒した。
とある。これが影響したのか。或いは茂吉が十月に養父の建設した脳病院に移る。多忙となったことが影響したのかも知れない。
三月三十一日(木)
『歌集「白き山」から』を読みまづその佳き歌に驚いた。昭和二十一年の
蔵王より離(さか)りてくれば平らけき国の真中(もなか)に雪の降る見ゆ
もはや云ふことがない。それほど佳い歌だ。
きさらぎの日いづるときに紅色(こうしょく)の靄(もや)こそうごけ最上川より
「紅色の靄こそうごけ」が美しい。このあと十三首飛んで(抜粋だから実際は更に飛んで)
蛍火をひとつ見いでて目守(まも)りしがいざ帰りなむ老の臥処(ふしど)に
「いざ帰りなむ老の臥処に」が美しい。これで昭和二十一年が終はる。そして昭和二十二年になると、佳いうたが激減する。昭和二十一年は終戦の翌年なので、緊張して佳い歌が生まれたのか。(終)
追記四月一日(金)
北杜夫『「赤光」「あらたま」時代 青年茂吉』も読んだ。北杜夫は茂吉の次男だが、塚本邦雄「茂吉秀歌 『赤光』百首」「茂吉秀歌 『あらたま』百首」をかなり引用した。また、両親が不仲だった、茂吉に愛人がゐた、茂吉は売春婦を使ったなどの表現がある。
時代が変はると善悪の基準が変はるから、これについて私は論評しない。明治維新後、日露戦争直後、大東亜戦争後のやうに、男の人数が少なくなった時代は、経済に余裕のある人が二号を持つことは人助けでもあった。時代によって変はる。
そもそも文芸は、作品によって判断すべきで、どう云ふ性格だったか、二号や愛人がゐたかどうかは、まったく問題にしない。
それなのに、伊藤左千夫の場合にだけこのことを問題にする人がゐる。もし当時に問題だったなら映画「野菊の如き君なりき」が昭和三十(1955)年と昭和四十一(1966)年の二回と、映画「野菊の墓」が昭和五十六(1981)年と、合計三回も映画化されるわけがない。
今回の特集を組んだ理由は、左千夫を悪く書く書籍が多いので、それは茂吉やその同僚に師事した人たちがアララギ派の中心になったためではないか、と最初考へたためだった。
その後、考へが少し変はり、アララギ派を含む日本の歌界全体が美しさを求めなくなってきたため、古い時代を残す左千夫を批判するやうになった、と今では思ってゐる。
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