千六百四十三(和語の歌) 山本健吉「日本詩歌集 古典編」
辛丑(2021)
十一月十八日(木)
山本健吉「日本詩歌集 古典編」は、前にも読んだことがあり、そのときも特集を組んだ。前回は「上代」の章が素通りだった。そんな感想を持つほど、今回は「上代」で時間が掛かった。
最初から数へて三つ目に「八雲立つ出雲八重垣(以下略)」があることが大きい。四つ目と五つ目に枕詞「ぬばたまの」があることも大きい。和歌(長歌、短歌)として字数が合はないものが多いのも興味がある。特に四文字。
万葉集の歌も幾つかあるものの、万葉集以前、和歌以前の時代として読んだ。
「明日香時代」の章になると、現代語ではないかと思へてくる。さう云ひたくなるほど、「上代」は難しかった。
万葉集が中心だが、日本書紀もわずかにある。どれも和歌の形式が定着した。万葉集とは、和歌の形式を定着させたものだ。これが万葉集を称賛する最も良い表現だ。
「明日香時代」で印象に残ったのは、大津皇子の歌と東歌だ。大津皇子は
謀反の罪で死を賜った。才知と文章のたくみをうたわれ、漢詩をよくした。(六六三-六八六)

大津皇子二つ目の
百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を、今日のみ見てや、雲隠りなむ

鴨が鳴くのを見るのは今日のみで、まもなく大津皇子はこの世から雲隠れする。
四つ目の五言絶句
金烏西舎に臨み
鼓声短命を促す。
泉路賓主無し。
此の夕家を離れて向ふ

一行目は太陽が暮れようとし、二行目は日没を知らせるつづみの音が死を促し、三行目は黄泉の道は一人、四行目は家を離れて旅立つ。
東歌は、印象に残るものばかりである。
奈良の世に 歌を集めた 書(ふみ)が出る 明日香の時に 優れるは 大津皇子(おおつのみこ)が 死の前と 東の国に 名無き諸人

(反歌) 東歌 富士と筑波嶺 足柄に すがの荒野と 葛飾の真間

十一月十九日(金)
「奈良時代」は万葉集で始まる。万葉集を山本健吉さんは、「明日香時代」と「奈良時代」に分割された。「奈良時代」で印象に残ったのは、山部赤人の
天地の 分れし時ゆ
神さびて 高く貴き、
駿河なる 不尽の高嶺を
天の原 振り放け見れば、
渡る日の 影も隠らひ、
  照る月の 光も見えず。
白雲も い行き憚(はばか)り、
時じくぞ 雪は降りける。
語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ。
  不尽の高嶺は。

(反歌) 田子の浦ゆ 打出でて見れば、真白にぞ、不尽の高嶺に 雪は降りける。
葛飾の真間では
古に ありけむ人の
(中略)
葛飾の 真間の手児奈が
奥津城(おくつき)を 此処とは聞けど、
真木の葉や 茂りたるらむ、(以下略)

(反歌) 我も見つ。人にも告げむ。葛飾の真間の手児奈が奥津城処(どころ)
葛飾の真間の入江に うち靡(なび)く玉藻刈りけむ、手児奈し思ほゆ

万葉集は、膨大な数の人びとから歌を集めた。気に入る歌も、嫌ひな歌もあるだらう。最近、図書館の開架で題名だけ見て万葉集の本を借りたら、とんでもない揚げ足取りの批判本だった。この本は、嫌ひな歌だけを採り上げたのだらう。好きな歌も注目すればいいのに。
好きな歌 嫌ひな歌も あるだらう 多くの歌を 書(ふみ)に集める


十一月二十日(土)
「平安時代」で印象に残ったのは、在原業平だ。二番目を除く、一番目から五番目までの詩は、最高級と云ってもよい。
その理由は、一つの歌が一つのあらすじに留まらない。まづさう思った。
世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

この歌は、仮定の前半、結論の後半。二つのあらすじからなる。
ちはやぶる神代もきかず龍田川から紅に水くくるとは

この歌も、龍田川を修飾する前半と、結論の後半。二つの文からなる。
から衣きつつ慣れにしつましあればはるばる来ぬるたびをしぞ思ふ

掛詞で、前半と後半の文を繋げてある。
名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと

都鳥を修飾する前半と、問ふた後半。これも二つの文だ。
今挙げた四首は、どれも有名なものだ。有名でよく知るから最高級に感じた。さう思ふやうになった。なぜ有名なのかを問ふと、二つのあらすじだからだ。
歌の中 二つ流れが あることで 歌が動きて 止まるを避ける


十一月二十ニ日(月)
「鎌倉・室町時代」では、藤原定家の
見わたせば花ももみぢも無かりけり浦の苫屋の秋の夕暮

が目に留まった。あと式子内親王の
かへりこぬ昔を今とおもひねの夢の枕ににほふたちばな

か。多くの人が云ってきたことだが、万葉集は生活の歌も多く、技巧に走ることもない。古今集或いは新古今集から、生活を離れ技巧に走る。だからこれはと思ふ歌がほとんど無くなる。
武士(もののふ)が 威(おど)すによりて 作る世は 帝並びに 周り人 力失ひ 物足りず 歌も力と 勢ひが無し


十一月二十六日(金)
前回の『山本健吉さんの「日本詩歌集 古典編」は名著だ』は誉めすぎだった。解説にそんなことは書かなければいいのに、と思ふ内容がある。選歌にも選ばないほうがいい、と思ふものがある。幅広く、なのかも知れない。
前回の特集から七ヶ月を経過したため、山本健吉さんを英文学者と勘違ひしてゐた。国文学者である。前回を読むと、英文学者から再刊を望まれたのであった。月日の経過とともに、記憶違ひを生じた。
昔より 多くの人が 喜びと 哀しみ歌ひ 詠み続く 今この空と 水汚れ それよりはるか 短きに 続くか否や 分かれ目にゐる

(反歌) この星の 生きものすべて 滅びると 歌も滅びる 継ぐ人は無し
続編へ(終)

和歌論十八へ 和歌論二十へ

メニューへ戻る 歌(百八十ニの二)へ 歌(百八十四)へ