千五百六十八(和語の和歌) 山本健吉「日本詩歌集 古典編」は名著
辛丑(2021)
四月二十四日(土)
山本健吉さんの「日本詩歌集 古典編」は名著だ。『上代』の「神々の歌」から「聖徳太子」まで、『明日香時代』は舒明天皇から童謡(わざうた)を含み東歌、古歌集、風土記の歌まで。このあと『奈良時代』から、『鎌倉・室町時代』の太田道灌や上杉謙信を含み、『江戸時代』の井原西鶴、松尾芭蕉、新井白石、加茂真淵、小林一茶、良寛、橋本左内、吉田松陰など、すべての時代を網羅する。
昭和五十七年の発行。山本健吉さんは奥付によると
文芸評論家。日本文芸家協会理事長。日本芸術院会員。文化功労章受章。

とある。昭和四十二(1967)年から十年間は明治大学教授だったが、それは載せてゐない。これはよいことだ。
「まえがき」には
日本の詩華集(アンソロジー)を選びたいとは、私の長い念願で、昭和三十四年には(中略)同名の書物を編んでいる。(中略)絶版となって久しく、再刊を望む声も聞えた。ことに故福原麟太郎氏は私に逢うたびにそのことを言われた。もともと私は、英国のゴールデン・トレジュリアやオックスフォード詩選などを頭に置いていたから、英文学者の福原氏にある程度の満足を与えていたのではないかと思う。

この当時は、英文学者も日本文学に造詣が深かった。
外の国 言葉を学ぶ 人たちが まづ学ぶべき 内なる言葉

山本さんは続いて
記・紀・万葉以来の日本の詩歌を、国民のものにしようという願いに発したもので、私はたとえば誰々選と名乗った詞華集のような、個の好みで一貫したものより、もっと幅広い嗜好に執し、場合によっては私の個の嗜好は捨ててもよいとした。

これは貴重な志だ。とかく誰々選とすると、その人の和歌観を示すから、選ぶほうも評判を気にする。しかしそれがあってはならない。

四月二十五日(日)
「日本詩歌集 古典編」は名著であり、私が論評することは適切ではない。以下は、私がこの名著をどう読んだかと云ふ、単なる雑記帳である。
『上代』は倭建命(やまとたけるのみこと)の解説で
出雲建(いずもたける)を討とうとして、まず友だちになり、(中略)川から上がって、倭建は刀をとりかえようと言い、それから太刀合せをしようと言って(中略)出雲建は偽刀なので抜くことができなかった。倭建は、その場で出雲建をうち殺した。そこで詠んだ歌
やつめさす出雲建が(以下略)

この話を読んで、倭建命が嫌ひになった。勿論これは古事記にある作り話だ。日本書紀にはないからだ。互ひに謀略を掛け合ふのならよい。友だちになって殺すなんて、やってはいけないことだ。このあと
新治 筑波を過ぎて(以下略)

の旋頭歌があったとしても。
『明日香時代』に入ると、古語が現代語に近くなる。石川郎女(いしかわのいらつめ)の
水薦(みすず)刈る信濃の(以下略)

と振り仮名がある。昭和五十七年は、まだ「みこもかる」が正しいとする説は広まらなかった。
柿本人麻呂の長歌、反歌、短歌が十ページ続く。柿本人麻呂は確かに
古代における最大の歌人で、後世から歌聖と仰がれている。

そのあと人麻呂歌集として、人麻呂作、人麻呂採集、人麻呂作と信じられた歌が八ページ続く。
東歌は楽しく読むことができる。
『奈良時代』は、まづ山部赤人だ。
天地の 分れし時ゆ(以下略)

の長歌と、反歌が有名だ。葛飾の真間娘子の墓を過ぎ、ここでも長歌と反歌を作った。解説に
墓。高橋虫麻呂、東歌の下総国相聞歌にも葛飾の真間の娘子を詠んだ歌がある。

その高橋虫麻呂は
勝鹿の 真間の井を見れば(以下略)

解説に、手児奈とは
東国の語で、娘子のこと。娘さん。

山部赤人のところでも解説があるが、東国の語とは書いてないので、こちらのほうで判った。この少しあとに大伴家持がゐる。
『平安時代』は、短歌二首、童謡(わざうた)一つ、短歌二首ののち、漢詩が続く。神楽歌、催馬楽(さいばら)などのあと、和讃が二つ。二つ目は
法華経ヲ我ガ得シコトハ(以下略)

これは僧X門弟の誰かが作ったと思ってきたが、叡山所伝。解説に
光明皇后作とも伝える。

在原業平の和歌は滑らかだ。平忠度の
さざなみや志賀の都は荒れにしを(以下略)

は有名だ。
西行は人気がある。しかし私はどこがよいか判らない。
今様の解説に
七五調四句形式。平安中期恵心僧都のころ、仏教の和讃から派生した。

とあり、本文は
よろづの仏の願よりも、
千手の誓ひ(1)ぞたのもしき

(1)の註に
千手観音の衆生を救おうとの請願。

とある。阿弥陀仏以外にも、同類があることに注目した。

四月二十六日(月)
『鎌倉・室町時代』は後鳥羽院から始まる。隠岐島に流された。その十七人後の順徳院も佐渡に流され
百敷や古き軒端の忍ぶにもなほあまりある昔なりけり


入日さす峰の浮雲たな引きてはるかにかへる鳥の一声

は感性が合ふ。
『江戸時代』は俳諧が多くなる。小林一茶は、既知の五句以外で感性が合ふのは
うつくしや障子の穴の天の川

だけだった。母が、祖母が「一茶のおじさん、一茶のおじさん、あなたのおうちはどこですか」よく歌ったと述懐した。インターネットで調べると「『信州・ふるさとの歌』長野県商工会婦人部連合会/編」に載るので、地方の子守り歌だ。私も幼稚園のときから聞いたが、今回に限り最後に「すずめと遊ぼ」が付いた。
漢詩も少しあり、狂歌が現れ、後方で和歌になる。私は良寛と思想が似てゐると思ふ。ところが語感は違ふ。長歌、短歌のうち一番気に入ったものの、合はないところを橙色にした。
の子に菫たんぽゝこき交ぜて三世(みよ)の仏にたてまつりてむ
(終)

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