千六百三十九(歌) 埼玉南部生協旧南浦和店建物の解体
辛丑(2021)
十一月十日(水)
自転車で生協本部の前を通ると、一号館、七号館解体とビル建築の掲示があった。建築年は昭和五十一年とある。まづ、どの建物が何号館なのか、まったく判らない。コープデリ連合会のホームページに、地図があった。

一号館は、埼玉南部市民生協南浦和店として開店した。それが昭和五十一(1976)年だ。そして約十年後(年数は不確実)に閉店し、建物は生協事務所として使用されてきた。コープみらいの「旧さいたまコープのあゆみ」によると(抜粋。関係部分を赤)
1947年
・高階村消費者生活協同組合設立
1965年
・所沢生活協同組合設立
1970年
・高階生協と所沢生協が合併し、埼玉市民生活協同組合となる埼玉中央市民生活協同組合設立
1971年
埼玉南部市民生活協同組合設立
1972年
・埼玉北部市民生活協同組合設立
・埼玉県生活協同組合連合会設立
1979年
・埼玉中央市民生活協同組合と埼玉南部市民生活協同組合が合併し、埼玉中央市民生活協同組合となる
・・・
1982年
・埼玉市民生活協同組合と埼玉中央市民生活協同組合が合併し、市民生協さいたま生活協同組合(通称さいたまコープ)となる
・・・
1996年
・埼玉北部市民生協とさいたまコープが合併
・・・
2008年
「コープ南浦和店」開店(2月)
・・・
2012年
さいたまコープ、ちばコープ、コープとうきょうの首都圏3生協の組織合同(以下略)


一号館の道路を隔てた向かひに、コープ南浦和店がある。普通のスーパーより大きく、広い駐車場はたくさんの自家用車が出入りする。自転車で来店する人も多い。あまりに繁盛するので、すぐ裏のマルエツがつぶれその影響で文蔵商店街が壊滅寸前になった。それほどになるには、一号館の旧南浦和店が閉店してから二十年を要した。
生協の 店が作られ 年を経て 組合員の 証明を 示す運動 始まりて 後に閉店 二十年待つ

(反歌) スーパーや 商店街が 閉店し 生協による 影の部分か
生協の店は組合員以外使へないとする方針は、生協側が組合員獲得のため始めたのか、それとも周辺の小売店から苦情が出たのか。組合員証または、組合員を示す小型のアクセサリーを、レジに示す運動が始まった。その何年後だらうか、南浦和店は閉店した。

十一月十一日(木)
次に、コープデリ連合会とは何だらうか。「コープデリ連合会のあゆみ」を引用(抜粋)すると
1990年度
・いばらきコープ・とちぎコープ・コープぐんま(当時は前身の群馬県民生協・前橋市民生協)・ちばコープ・さいたまコープで任意団体「東関東コープネットワーク」を設立
1992年度
・コープネット事業連合設立総会・法人認可
・・・
1996年度
・いばらきコープ・とちぎコープ・コープぐんま・さいたまコープの4生協、共同購入商品統一
・・・
1999年度
・さいたまコープ・コープぐんま、生鮮商品部業務受託
・コープとうきょう加入
・・・
2013年度
・首都圏3生協(ちばコープ・さいたまコープ・コープとうきょう)の組織合同によりコープみらい誕生
・・・
2017年度
・「生活協同組合連合会コープネット事業連合」から「コープデリ生活協同組合連合会」へ名称変更


十一月十一日(木)
上記の地図で「4号棟」と書いてあるその「棟」の位置に、まづ生協の店が進出した。その直後に埼玉南部市民生協が、南浦和店を今の1号館の位置に開店することを発表しそのパンフレットには、前に開店したもう一つの生協は民主的ではないと書いてあった。私は埼玉南部市民生協が日本共産党系かと思ひ、これは誉め言葉だった。なぜなら当時の共産党は、アメリカと近代西欧に反対する頼もしい存在だった。
今のコープみらいにその頼もしさは無いが、年表を見て七十九年と八十二年の合併が理由かな、と変に納得した。(終)

(見沼代用水と地元の話題、二十七) (見沼代用水と地元の話題、二十九)

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