千二百三十四 1.スエヒロ館で夕食を食べた話、2.南浦和西口商店街が消滅寸前
平成三十戊戌
十一月十九日(月)スエヒロ館
下の子が帰省し、三人で夕食に出かけた。間もなく始まる就職活動の相談を兼ねた夕食会だった。「スエヒロ館」の予定だったが、まづ「くいどん」に行った。二十五年ほど前にお客様のところに車で行く途中に、「スエヒロ5」で食べたことがよくあった。このころ「スカイラーク」ともう一つ名前を思ひ出せないが、これら二つと並んでファミリーレストランのランチタイムは、自動車で移動する人たちに人気があった。中でも「スエヒロ5」が一番よかった。だから新鮮さで「くいどん」にまづ向かった。
予算は一人三千円だ。入り口の看板を見ると、予算内に収まりさうもない。そこで「スエヒロ館」に向かった。下の子はランプステーキの200g2680円(税抜き)、私と妻は140g2180円を注文した。サラダバー、ブレッドバー、ライスお替り自由が付いてゐた。
妻は酒を飲まず、子もあまり飲まない。私は家を出る直前に、焼酎を五倍に薄めたものをカップ三杯飲んだので、ほろ酔ひより更に軽い状態で話し合ひをした。
焼酎を五倍に薄めるのは、私が普段に飲む方法で、(1)舌、咽喉、食道、胃への癌を防ぐ、(2)酔ひが速いので、アルコール総量を抑へることができる、と二つの長所がある。お釈迦さまが戒律を決めたときにビールは無かったから、それと同じアルコール濃度のものなら、何とか許される範囲かなと勝手な解釈をしてゐる。この度数でもたくさん飲めば戒律違反だ。少しならほろ酔ひより軽いから在家なら次回に再び五戒を受ければよいのかなと思ふ。

十一月二十日(火)南浦和西口商店街が消滅寸前
文蔵(ぶぞう)商店街が消滅寸前だ。私は四十五年前からさう呼んできたが、今回の特集を組むにあたり調べてみると、南浦和西口商店街だと知った。
それなら駅前の商店街は何と呼ぶのか。調べてみると、昭和五十三(1978)年に南浦和駅前西口商店街として発足し、平成九年に彩の街南浦和商店会と改称した。
我が家が昭和四十七年に越してきたときは、近くに商店街が無かった。六店か八店が入居した小規模の屋内小売市場があっただけだった。自転車に乗って捜すと、離れてはゐたがマルエツを見つけた。更に驚いたことに、その少し先に文蔵の商店街を見つけた。古くからある雰囲気の商店街だった。銭湯があるので余計にさう感じた。

十一月二十二日(木)マルエツが閉店
それから四十数年を経過したから、少しづつ閉店が続いたに違ひない。しかしほとんど目立たなかった。
三年前にマルエツが閉店になった。商店街からは路地で三つ離れるので、商店街とは無関係の出来事に思はれた。
ところが昨年の暮れに帰省してみると、商店街の半分が取り壊されマンション建設用地になってゐた。黒龍と云ふ中華料理店も無くなった。我が家が引っ越した直後に、黒龍の何軒か先に用事があり、出掛けたことがあった。だから懐かしい店名だったが、その周辺が一度に消滅した。マルエツ閉店の影響が大きいことに驚いた。

十一月二十三日(金)昭和の初期から
インターネットは便利だ。検索すると、昭和初期や終戦前後の地図が出てきた。これらを見ると、商店街とその周辺二倍くらいの広さには、昭和の初期から集落がある。農家か、或いは近くの工場に勤務か。歴史のある商店街が消滅寸前になるとは驚く。
この時点まで、商店街とマルエツ閉店は共働き世帯の増加が原因だと考へてゐた。ところが或るものを見て、考へが一転した。それは「文蔵商店街」で検索したところ、地図が出てきた。それには南浦和西口商店が文蔵商店街の名で載るとともに、生協ストア、マルエツが斜めの区画に並ぶ。実際には、生協ストアの背後とマルエツの背後が直行する路地に向かひ合ふから、入口から入口まで歩くと四区画ある。しかしこれほど近いとは知らなかった。商店街とマルエツ閉店は生協ストアが原因だった。

十一月二十四日(土)廃業した銭湯と、見沼代用水西縁で土嚢撤去
文蔵商店街には銭湯があり、これは今でも営業してゐる。かつて文蔵にはもう一つ、銭湯があった。東京方面から京浜東北線に乗り蕨駅を過ぎると、市境を過ぎたところから一面に田圃が広がった。その田圃の端に銭湯があった。場所はどこだったのだらうと歩いてみた。しかし判らなかった。無理もない。今では一軒家とマンションだらけだ。
帰りに見沼代用水西縁辻用水の大境橋で土嚢の撤去作業に出会った。(見沼代用水は3.として独立)

十一月二十七日(火)四十六年間で変はったこと
四十六年前と今を比べて、まづ変はったのは、田圃が全滅した。かつては釣り堀が何軒もあったのにこれも消滅した。金魚屋が二軒あったが閉店した。下水が完備してゐなかったので、多くの家は浄化槽、一部の家は汲み取りで排気塔に風車が付いてゐたが、排気塔のある光景が無くなった。田圃の排水路が残ってゐたが、暗渠または緑道になった。小規模の工場が点在してゐたが、ほぼ消滅した。
昔からの農家は敷地内に高い木があり、夏には蝉の声が響いたが、敷地は分割され木は切り倒された。金魚屋の前の道路で鶏の放し飼ひ、或いは消防署の通りの真ん中で犬が寝そべってゐたが、それは間もなく無くなった。
当時から感じたが、史跡の密度が低い。都内だとあちこちに史跡がある。しかしこの辺りは元の田圃だから史跡がほとんどない。引っ越す前は、大通りから東北線の列車の音と走る光景が見えた。700mあるから、今では誰も信じないだらう。引っ越したときは夕方になると、コウモリが空を舞った。自然を破壊した新興都市は、呪はれた街と云へる。
マルエツと文蔵商店街の消滅は、生協ストアが原因ではなく、個人事業の激減、中小工場の消滅、共働きが増えたことが原因であらう。生協は駅から家までの途中だ。マルエツと文蔵商店街は、生協ストアから100mだが、家への途中ではない。(終)

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