千六百ニ十一(和語の歌) 行動日記(文蔵商店街先のマンション、二つ閉店、上谷沼調整池)
辛丑(2021)
十月八日(金)文蔵商店街先のマンションが解体予定に
文蔵商店街が消滅寸前なことは、前に書いた。その原因の一つに、南浦和西口商店街と云ふ場違ひな名前を付けたためであることも、前に指摘した。今回はその文蔵商店街ではなく、その南端から東に100m行ったところのマンションに囲ひがある。解体予定とある。昼休みに自転車で走って見つけた。
昭和五十年前後のマンションなので、五階建て建物の両端に階段があり、一つは屋外で非常用を兼ね、一つは入口に鉄製扉があり、郵便受けと屋内階段だ。一階の四つの店は営業中だ。
このマンションが気になる理由は、かつてここから先は一面の田圃だった。京浜東北線の蕨駅を過ぎて、左側に日本車両の工場跡があり、それを過ぎると田圃が続いた。田圃の裏側が、このマンションの位置だった。
インターネットで調べると、1973年3月(築49年)、RC(鉄筋コンクリート)、公営水道、プロパンガス、下水、駐輪場あり、と書いてある。裏に浄化槽の高さ3mの排気塔が残ってゐる。家賃は二階2DK43.74m²で6.9万円~7.9万円、3階2LDK40.00m²で6.3万円~7.2万円とある。
このマンションは横にも道路があり、南浦和駅西口前を左折する道路だ。かつては南浦和陸橋までは歩道付きの二車線。その先なので歩道無し1.8車線くらいの狭い道だった。今は全体が歩道付き二車線と化し、車が多くなった。かつては南浦和陸橋通りと国道十七号に挟まれた地域はどの道路も車が少なく、落ち着いて自転車に乗れたが、今では昔話になった。
宅地化が 完成前の 境界に 立つマンションが 解体される


十月十六日(土)店が二つ閉店
南浦和駅西口駅前の、二つの店が閉店した。一つは駅前広場に面し、もう一つは駅前広場を出て、交差点を渡った位置だ。
駅前広場に面した店は、シューズ洗濯のチェーン店が衣服の洗濯も付加した出店で、一ヶ月で閉店した。交差点を渡ったところはTsutayaで、十年間営業したさうだ。
さう云へば、駅前広場の途中から入った道の二軒目にあったパチンコ店も閉店した。かつては朝から並ぶ人がゐたので、コロナ禍の大きさを実感した。同じく交差点を渡ったところにあるまるひろ百貨店一階の直営スーパーが昨年七月に直営スーパーが閉店し、ヤオコーが新規開店した。
ゆふはなの 栄(さか)え一つも 見ず閉じる 店の験(ため)しを 次に生かせる


十月二十二日(金)上谷沼調整池
十五日に自転車で上谷に行った。昭和四十七(1972)年に浦和へ引っ越した時、バス停で私の乗るバスより前に上谷(うわや)行きが来た。読み方はこのとき知った。上谷は南浦和団地の先にある中途半端な位置だ。浦和市がまだベッドタウンになる前の、市内で完結した時代のなごりだらう。
そこに藤右衛門の上谷沼調整池ができたことは、今回初めて知った。それより南浦和駅東口の駅前通り(南大通り)をまっすぐ(と云っても右斜め後ろからの道路と合流して)進むと、変形四つ辻がある。そこを右側に行くと、ここにも調整池が昭和五十八(1983)年頃にできた。と今までずっと思ってきた。本日、ストリートビューを見ると下水道部の藤右衛門ポンプ場で、調整池ではなかった。
変形四つ辻に至る手前の保育園の向かひを右折すると、突き当りに昔は「禁猟区」と云ふ30cm×20cmくらいの標識があった。県か市のどちらかが立てたものだ。今は丘の上がマンションになった。道路に沿って左に曲がると藤右衛門側を渡り、左側は先ほどのポンプ場だ。右側はかつて荒野だった。そこに調整池ができたのだった。 と云ふことで、昭和五十八年に調整池の一部が出来たと勘違ひした件は、一週間で解決した。
上谷沼 かつて鰻が 川上る 浦和の宿(やど)と 太田窪村
(終)

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