千六百ニ十六(和語の歌、普通の歌) 1.辻用水の本流、2.六辻付近公共施設の衰退
辛丑(2021)
十月十五日(金)
かつて辻用水と云ふ農業用水があり、見沼代用水西縁から分岐(実際は、川口市大字小谷場元西福寺前分水口の水門で新曾用水路にほとんどの水が分岐したあとの本流)したあと、浦和市大字辻の旧国道までを見沼土地改良区が管理した。
埼玉大学教育学部人文地理学研究室谷謙二さんの「今昔マップ」を見ると次のことが判る。私のメモによると(赤字は変更点)
1896~1906 旧国道の手前で二つに分岐し、現辻郵便局の少し先で合流の後は80mほど左側の延長で直進ののち西南西へ。新国道はまだ無い
1917~1924 同上
1927~1939 同上
1944~1954 旧国道の手前で二つに分岐し、現辻郵便局の少し先で合流。新国道開通
1965~1968 分岐の右側の流れ(下流に向かひ)しかない。合流後は右側の延長で直進し南西へ
1975~1978 分岐の左側の流れ(下流に向かひ)しかない。合流後は左折し南西へ
1983~1987 水路が表示されなくなった。かすかに水色の痕跡はあり。特に旧合流地点を左折の部分に80m×40mの痕跡
1992~1995 水路が表示されるやうになった。旧合流地点を左折の部分に80m×40mの長方形(釣堀池)
1998~2005 釣堀池は外縁のみ水色
旧中山道の手前で分岐した水路は、(1)右側と左側のどちらが本流なのか、(2)再び合流するのか。
この二つが疑問だった。本日、左側近くの農具店のお爺さんが小屋で作業してゐた。自転車を降りて、お話を伺ふと、左側が本流、右側はその沿線に水を分配し、左側と合流はしなかった、とのことだった。貴重なお話をありがとうございました。
とは云へ、昔の地図に書かれた合流と、今でも合流の部分が六辻水辺公園の支線として道路のみ残る。我が家が引っ越したときは、六辻交差点の東側に幅2mの空堀があった。ここからは以上の情報からの想像だが、支流で余水を本流に戻したのだらう。
支流の六辻から先は、新国道から斜め左側が水路だが、国道の右側歩道の外側にかつて空堀があった。これは地図には載らないが、今でも跡地は歩道増設部分として存在する。支流から更に分かれた流れだらう。
田に水を 農(たがや)す人の 本(もと)にして 苦(にが)く労(つか)れて 力出し 汗で作りた 水の路(みち) 十が五つの 前の年 田を潰しては 家を建て 今では路を 知る人僅か
(反歌)
利根川を 源とする 遠い水 見沼に代はり 稲を育てる
十月十六日(土)
六辻の交差点付近には、(1)交番と隣の(2)郵便局、国道の反対側に(3)埼玉縣信用金庫の支店、東に少し離れた六辻公民館の外付け階段から(4)浦和市役所六辻連絡室、国道を少し北に(5)埼玉銀行の支店があった。
浦和市役所六辻連絡室は住民票などを取ることができたが、まづこれが廃止された。これは利用者が少ないから、やむを得なかった。
(2)郵便局は、交差点から100m北西に移転し、最近更に70m北西に移転した。つまり元の位置から170m移動した。
埼京線が出来、埼玉銀行の支店(4)が武蔵浦和駅前に移転した。埼玉縣信用金庫の支店(3)が廃止され、跡地に埼玉銀行のATMが設置された。埼玉銀行の支店(4)跡には、東京信用金庫の支店が開店した。
ここまでは、埼玉銀行の窓口業務が無くなり多少は不便になったが、通常はATMで足りるから、信用金庫が別の会社に変はったことを含めて、それほど不便にはならなかった。
ところが埼玉銀行(この当時は埼玉りそな銀行か)のATMが廃止され、極めて不便になった。
一つ一つはそれほど影響が大きくはないが、全部まとめると六辻交差点は公共施設(金融機関を含む)が、かなり不便になった。それでゐて寂れた印象がしないのは、国道を走る車向けのレストランやコンビニ、オートバイ店、自動車販売店、中古車センターがたくさんある。
寂れたものに、釣堀店が二つ、自転車屋が二つある。その後、別の自転車屋が東京信金の近くに出来て10年くらいだらうか営業してゐたが、数ヶ月前に閉店した。跡地は仏壇のチェーン店になった。すぐ近くにもう一軒仏壇のチェーン店があるので、仏壇激戦区になった。皆さん、早く仏にならう、と云ふのはもちろん冗談だ。
自転車屋 そして釣堀 四店は 個人経営 一方で 後から出来た 自転車屋 会社経営 仏壇屋 二店どちらも 全国チェーン
(反歌)
円高は プラザ合意の 直後から 個人経営 難しくなる
十月十七日(日)
辻用水の本流が左側だったことは、見沼土地改良区の文書でも解る。「浦和市大字辻の旧国道まで」とあるが、新国道と旧中山道は六辻で交差する。右側の水路は六辻交差点を横断したから、ここまでなら「国道まで」と書く筈だ。わざわざ「旧国道まで」とは書かない。
もう一つ、六辻水辺公園が旧国道までは水路、そこから下流は暗渠になる。旧国道までは見沼土地改良区が管理し、所有者は不明(土地改良区、県、政府のどれか)。その下流は六辻町から引き継いだ浦和市。だから下流は暗渠化し循環水のせせらぎを作った。
旧国道の呼び方も何回か変はった。昭和三十年頃は旧国道だった。昭和五十年頃は旧中仙道。今は旧中山道になった。
玉鉾の 中山道が 維新後に 国道となり 昭和初期 不況対策 新しき 国道ができ 旧道化 昭和の末期 字を変へて 中仙道が 中山道に
(反歌)
江戸の初期 仙の字を持つ 五街道 三度(みたび)変更 今は山の字(終)
(見沼代用水と地元の話題、二十四)
(見沼代用水と地元の話題、二十六)
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