千五百七十(準和語の和歌) 辰巳正明「短歌学入門 万葉集から始まる<短歌革新>の歴史」を称賛
辛丑(2021)
四月二十六日(月)人はなぜ歌うのか(九頁)
辰巳正明さんの「短歌学入門 万葉集から始まる<短歌革新>の歴史」は優れた書籍である。まづ、中国から漢字を始めとする知識が入って来たことにより万葉集ができたことを、きちんと書いた。辰巳さんは國學院大學教授だが、反中国や神道一辺倒に陥ることなく、公正な主張である。
中国に目を移しますと、古く詩歌は志を言うものだとされました。それゆえ、人々の思いは詩歌に現れ、為政者は詩歌を集めて人々の思いを知り、政治を質(ただ)したとされます。(中略)日本でも平安朝に勅撰による歌集を編纂するのは、このような中国の伝統的詩歌観に基づいています。

文字のない中国の少数民族では
かえって歌唱文化が花開いているという現象は、(中略)最も重要な内容として語られるのは、村落や民族の出来事を歌で伝えるということにあります。(中略)また、農作業や狩猟の方法も労働歌として伝えられていて(以下略)

日本も六世紀に漢字が入ったが、その前は
かつてはこのようであったと思われます。(中略)文字が輸入されたのちにも継続して存在し、民俗歌謡として現在に至っていることが窺われます。

そして
このような歌唱文化から出発することで、『万葉集』というすぐれた歌集を形成することになったものと思われます。

ここから先は辰巳さんとは無関係に、私の想像だが、和歌が五と七を用ゐるのは、中国の五言絶句、七言絶句の影響ではないだらうか。その前の日本は、三、四、六文字の、五と七以外があったからだ。
或いは日本と中国ともに、或る原理から作られた文芸が日本では和歌、中国では絶句になったとも考へられる。

四月二十七日(火)反歌と短歌(七十二頁)
『万葉集』の中でも、初期万葉と呼ばれる段階のグループがあります。その中でも記紀(括弧内略)に見られるような、歌謡の性格を帯びながら『万葉集』へと向かう段階の歌が認められます。

最初期の歌である磐姫皇后の短歌四首について
通説によるとこの歌は磐姫皇后に仮託したものであり、実際はもっと後の歌であるとされています。(中略)それでは、初期万葉のなかでも古体の歌というのはどれを指すかといいますと、『万葉集』の巻頭に載せる雄略天皇の長歌ということになります。

この歌も仮託であり、これに続く歌も
これも舒明天皇に仮託された儀礼の歌で、いずれも『古事記』や『日本書紀』の歌謡に繋がる古い時代(中略)を伝承しているものと見られるのです。

さて、中皇命(なかつすめらみこと)と云ふ女性が間人老(はしひとのおゆ)に、天皇へ献呈するやう命じた次の長歌
やすみしし わご大君の 朝(あした)には とり撫でたまひ 夕(ゆうべ)には い縁(よ)せ立たせし (以下略)

について
対句の方法を取り込みながら新しい装いへと移行しつつあるのですが、繰り返しのリズムは古体を継承していると思われます。

この歌には反歌があり
たまきはる 宇智の大野に 馬並(な)めて 朝踏ますらむ その草深野(巻一)
先の雄略天皇や舒明天皇の長歌が、長歌のみで完成しているのに対して、この長歌は≪反歌≫という歌を付属させ、(中略)ここに長歌は歌謡から離脱する状況が準備されたといえるのです。

さうなった原因について
長歌は特定の作者のものではなく、伝承の儀礼歌で(中略)間人老は中皇命に命じられて(中略)朗唱し(中略)反歌は、中皇命の作であり、これも、老によって歌唱されたものと思われます。


四月二十八日(水)万葉の短歌革新(百三十七頁)、漢詩に向き合う短歌(百五十三頁)
近江朝には(中略)百済の亡命知識人たちが仕え、(中略)彼らがもたらした宮廷文化の中に、漢字による≪詩≫と国風(くにぶり)による≪歌≫という考えがあったのです。額田王はこの国風の専門歌人となるのです。しかも、国風の歌に漢風の文雅を取り入れます。

さて
漢風の時代を迎えることで伝統の歌(主に儀式歌)は消えかかりましたが、国風という考えが取り入れられることで、(中略)並び行われるようになったのです。

和歌は漢詩と共存した。このことが大切で、だから和語を用ゐて美を表現したのだらう。私が最近、和語で和歌を作るやうになったのは、通常の文章が漢語を多数含む中で、美を表現したい為だ。
漢語と共存してゐる前提を忘れると、脱亜入米と云ふ変な流れになる。脱亜入欧ならまだあり得る。脱亜入米はあり得ない。移民国は、地球温暖化の今では、癌細胞だからだ。
大(おほ)あじあ 中の大和の 心にて 生きとし生ける 世の中の為


大化改新以降、古代日本は漢文学・漢文化の時代に入りました。(中略)奈良時代も、基本的には漢詩の時代であったのです。(以下略)
伝統の歌がまだ中心を占めていたのは、人麿の時まででした。(中略)しかし、歌は旅人・憶良・家持・坂上郎女などの作品からわかるように、漢文学によって新しい文学として育てられることになるのです。これは、伝統の歌が歌謡から出発していることに原因がありました。歌謡は基本的には作者未詳の文学です。かつ、歌謡の一般的な性格は恋歌です。『万葉集』に多くの恋歌を見るのも、この歌謡の性格を継承しているからです。

兼ねてより思ってきたことは、万葉集に恋歌があるからと云って、若い人たちはそれを真似してはいけない(古くは与謝野晶子と俵万智)。それが裏付けられた。
人麿の時代はすでに漢文学の時代ですから、(中略)人麿が要請されたのは、伝統の歌を新しい発想によって詠むことが出来(中略)その新しさは漢詩をモデルとすることで可能だったのです。

さて
(中国でも漢詩は歌謡から出発しましたから、古い詩はいくつかの詩体を持っていました。しかし唐の時代には五言と七言に集約されて行きます)

括弧で括られたのは、万葉集も歌謡から出発したので歌体が幾つもあるとする補足で述べられた。万葉集は短歌に集約された。
その完成の姿は、家持の短歌から想定することが出来(中略)伝統の歌は漢詩と同じものであるという考え方です。

さて仮名序の冒頭の
やまとうたというのは、人の心を種として(以下略)

『詩経』の「大序」には
詩というのは、志の向かうところのものである。(以下略)

大序は続けて
人の悪い行いを正したり、天地の神を感動させたり、不幸な死に方をした者の魂(鬼神)を和らげたりするのに、詩よりほかに良い方法はない。

貴之の仮名序には
力を加えずに天地を動かしたり、目には見えない鬼神を「ああ」と感動させたり、男女の仲を取り持ったり、勇敢な武士の心を慰撫したりするのは、歌である。
(終)

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