千五百五十三(和歌) 仏道私感
辛丑(2021)
四月十ニ日(月)
仏道について、思ふことを書いてみた。個人で感じたことだが、仏道の基本は外れてゐないと思ふ。まづ
一、過去の流れを無視してはいけない
南伝にしろ、明治維新前の北伝にしろ、過去の流れを無視してはいけない。その流れが定着した背景を考へて、変更するのであれば構はない。例へば、江戸時代の寺請け制度で発生した、など。
今までに従ふことは過去からの数へきれない比丘比丘尼 修行で出来る平坦な道を用ゐて迷ふことなし
(反歌)
南伝と北伝ともに歴史あり流れに沿ひて変へず乱さず
二、教義は複雑化する
時間が経つにつれ、教義は複雑化する。だから、原始の仏道に関する中村元さんの主張に賛成だ。南伝も北伝も、二千五百年に亘り複雑化した。
とは云へ、北伝はサンスクリット語に翻訳されたため、研究に不向きのこともある。パーリ語経典は貴重だ。
三、瞑想前に読経を
突然瞑想をするのと、読経してから瞑想するのでは、雲泥の差がある。前者は人間の気ままな行為、後者は仏道に沿ふ行為になる。
読経は短くてもよい。私は三帰依文(ブッダンサラナンガッチャーミ・・・。漢文だと南無仏・・・)か、礼拝文(ナモー タッサ バガヴァトー アラハトー サンマー サンブッタッサ)を三回繰り返すのみだ。両方の場合もある。
読経はチャンティングとも呼ぶものに 優婆塞優婆夷これにより仏の前の列に加はる
(反歌)
入滅後二千五百の年重ね今も続ける在世のままに
四、息に集中し過ぎてはいけない
瞑想で息を観察するのは、息が唯一動くものだ。注意深く観察すれば、心臓、その他の動きが判るかも知れないが。
だから息を観察するのは、精神を落ち着けるためであり、場合によっては生きてゐることを観察することだ。息の観察が目的になってはいけない。
四月十四日(水)
仏道と縁があって良かったと感じるのは、心を落ち着かせられるときだ。宗教と無縁なら、心が暴走する一方だ。
人によっては逆のこともある。心を活性化できてよかったと感じる人もゐる。
もう一つ別の尺度がある。仏道は時代とともに複雑化したかどうか。中村元さんと私は、複雑化したと考へる。さう考へるのは、根本原理を考へるからだらう。
複雑なものを好む性格は、釈尊の時代から変はらないと考へる。
仏道の良いところは二次元で、安定/活性が必要、単純/複雑を好む、の四種に対応できることだ。鎌倉時代に出来た宗派は、一つにしか対応できない。合はないと感じた人は、天台宗または南伝に興味を持つとよい。
釈尊と天台宗の時代には四種すべての性格に対応すれど 鎌倉は武士の時代と末法を感じた僧は一にまとめる
(反歌)
日蓮は非常時布教宗派にて普通の時は注意を要す
-------------------------------------ここから歴史の流れの復活を、その三百九十八---------------------------------
四月十五日(木)
西洋野蛮人の始めた産業革命により、今は地球が滅びる過程だ。別の表現をすれば、死を待つ癌患者の体内の細胞が我々だ。
そのやうな特殊な環境だから、社会が複雑になり、本来は比丘比丘尼の修行法である瞑想を、南伝、大乗、鎌倉仏道を問はず、信者も実行するとよい。
と同時に、地球滅亡を防ぐために努力することは、野生を含む全生物の命を守ることだから、南伝だと阿羅漢に至る、大乗だと成仏のための、貴重な行為となると確信する。(終)
(歴史の流れの復活を、その三百九十七)へ
(歴史の流れの復活を、その三百九十九)へ
-------------------------------------ここまで歴史の流れの復活を、その三百九十八---------------------------------
固定思想(二百六十四)へ
固定思想(二百六十六)へ
メニューへ戻る
和歌(九十ニ)へ
和歌(九十四)へ