一五一、二二年ぶりの正信会寺院参詣記(その一、柿沼総監と菅直人)

平成二十三年
一月四日(火)「変わらない本堂」
昨日は二二年ぶりに正信会の寺院を参詣した。三十年前に創価学会と宗門の間で第一次宗創紛争が起きた。その直後に管長が急死し学会派の新管長が三分の一の僧侶を僧籍剥奪にした。そのため処分された僧侶が正信会を結成した。宗門側は正信会の各住職に寺院明渡し訴訟を起こした。裁判所は宗教不介入を理由に住職在位中に限りこの訴えを却下した。その後三十年に亘り住職の死亡とともに寺院を返却し新たに布教所を作ることが繰り返された。
あの寺院も返却したのだろうか。不安とともに参詣すると三十年前と変つていなかつた。日蓮正宗の寺院は、以前は多数の創価学会員で賑つた。そのため住職のほかに執事と言ふ在勤僧侶がゐる。他宗では副住職と呼ばれるがこの場合は世襲を前提としてゐる。執事の寺崎素道師はまだゐるだろうか、それとも新しく布教所を作つて赴任したのだろうか。しかし亡くなつた後だつた。寺崎師とは仲がよく年齢も近かつた。惜しい人を亡くした。

創価学会と宗門はその十年後に第二次宗創紛争を起こして分離した。これで全国JRの団体客の三分の一を占めていた東京方面から富士宮と、大阪方面から富士への団体列車はなくなつた。品川駅の団体待合所もなくなつた。

一月七日(金)「創価学会と正信会」
創価学会は正信会と組んだらどうか。以前そう思つた。そのときは創価学会が昭和四五年一月に折伏大行進を停止し、このときを境に変化したことを知らなかった。折伏大行進の停止はたまたま日蓮宗年表の他宗欄を見ていて見つけた。
このとき以前の創価学会は最下層の人も多かつた。純粋な信仰の人も多かつた。一方で正信会は僧籍剥奪になつてまで信念を貫いたのだから立派である。だから両者の連携は可能だと考へた。しかし正信会が批判する相手はまさに昭和四五年以降の創価学会である。だから現時点では手を結べるはずはない。

それにも係らず同盟を主張するもう一つの理由は第一次宗創紛争のときの管長の細井日達師こそ正信会と昭和四五年以降の創価学会路線の生みの親だからである。

一月八日(土)「菅直人氏と日蓮正宗の関係」
昭和三四年に日達師が管長に就任して以来、伝統を次々に変へてゐつた。
・それまで信徒の家が新築されると僧侶は棟札という曼荼羅の一種を書いて天井裏の柱に釘で打つた。ところが日達師はこれを廃止した。日蓮正宗では塔婆には「南無妙法蓮華経」ではなく「妙法蓮華経」と南無を除いて書く。これは昔からの伝統だが或る僧侶が「南無妙法蓮華経」は猊下(管長の尊称)しか書けないので我々は「妙法蓮華経」と書くと言つた。これなど棟札を書いた事がない僧侶の間違いである。
・それまで僧侶の養成は末寺が弟子を取つた。ところがすべて管長の弟子として採り、総本山の寮で養成するようにした。そのため多数の中学生、高校生の僧侶が修行するようになったが先輩のいじめ(トマホークと呼ばれた)や飲酒、たばこ、退学などが多発した。創価学会から名前に「道」の付く僧侶は特に悪いと批判されるくらいだつた。日達師の弟子は全員名前に「道」が付いた。
・曼荼羅の前に日蓮の御影像を置くことが寺では一般だつた。古い信者の家でも見られた。しかし御影像を撤去するようになつた。もつともこれは創価学会から曼荼羅が見えないから撤去しろと圧力があつたと宗門では言つてゐる。
・御影像には冬になると頭巾をお着せし春になるとお脱がせするお綿上げ、お綿下げといふ行事があつたがこれを行はなくなつた。
・信仰がある程度続くと常住御本尊という管長直筆の本尊を授与されたがこれを廃止した。
・日達師の娘は建築士に嫁いだが、その建築士の設計した伝統寺院建築とは異なつた建物が総本山や末寺に多くなつた。
・宗務総監は宗会が指名した。それを管長が指名するようにした。
・日達師の前の管長が急に倒れたときは宗務総監だつた日達師が前管長から死の二日前に血脈相承の儀式を受けた。そしてその数日後に参議会で管長代務者、更にその一ヶ月くらい後に宗会から管長に任命された。或は参議会で管長代務者、宗会で管長代理、その後に能化会で管長かも知れない。しかし宗教法人規則を変更して、管長が次の管長を指名するようにした。
・学頭を指名せず亡くなつた。学頭とは次の管長予定者で総本山塔中の蓮蔵坊の住職となつた。従つて蓮蔵坊は無住のまま二〇年を経過した。

・丑寅勤行といふ午前二時からの読経を午前0時からに変えた。
・宗務総監の職名を総監に変へた。


ちなみに日達師が総監に任命したのは柿沼広澄師で、柿沼師の娘が菅直人氏の奥さんのお茶の先生である。だからその息子であり柿沼師の孫である山村てるつぐ氏は菅直人氏の秘書となり、品川区議を経て参議院の比例区に立候補したこともある。

一月九日(日)「教義の唯物論化」
これ以外にも次のようなものがある。
・重症で死の直前の信徒には御秘符というものが下付され、これを飲むと寿命が延びると伝へられてきたが、これを一般には廃止した。学会大幹部には下付され続けたのかも知れない。
・御守り御本尊という小さな曼荼羅も一般には廃止した。
・御隠尊猊下と呼ばれる前管長や元管長が血脈の断絶に備えたが日達師は御隠尊猊下がいないまま二〇年を経過し急死した。
・それまでの寺院は畳だつたが、靴のまま本堂に入り椅子席に座るように末寺を順に変へていった。
・日興の遺誡置文に「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構へば、之を用うべからざる事」とある。時の管長が仏法に相違したときはその己義を用ひてはならないという意味だが日達師は、時の管長は誰を役僧に用ひてもいいが仏法に相違した者は用ひてはならないと管長の権限を示すと新解釈をした。

・一回目の読経ののちの観念文から天照太神・正八幡大菩薩を抜いた。
・崇峻天皇御書という日蓮の著作の題名を三種財宝御書と変へた。日蓮自身が崇峻天皇御書と命名した訳ではないが、長い歴史を無視して軽々しく題名を変えていいものではない。
・昭和四十年ころ、舎衛の三億といふ故事を持ち出し国民の三分の一が日蓮正宗を信仰するようになつたときが広宣流布達成のときだと言ひ始めた。
・昭和五十年あたりから既に広宣流布が達成したと言ひ始めた。しかし創価学会員は国民の五%弱だから舎衛の三億にも達していない。
・お経や題目を唱えるときは曼荼羅の「妙」の字を見るように説法した。
これ以外に日達師は引き題目を短くしたといふ古くからの信者の話もある。引き題目とはお経とお経の間に唱える長く延ばした題目で日達師のころは一遍が六十秒ほどだつたろうか。しかし日顕師は引き題目が更に短く三十秒ほどだから、必ずしも日達師が短いとは言へないかも知れない。

曼荼羅の「妙」の字を見るという説法が特に該当するが、日達師の進めたことは教義の唯物論化である。唯物論かどうかは信仰のあるなしで決まるのではない。正信会の僧侶も教義の唯物論化とまでは言わなかつたが教義の即物化といふ言ひ方をした。
日蓮正宗では日蓮からの血脈が六老僧の一人日興に伝へられ日興が日目に伝へ、それが代々伝わつて今の六六世日達師に至つたと主張する。一方の日蓮宗では六老僧全員に血脈がある、或はそもそも血脈はないと主張する。

或る末寺で新築落慶法要があり日達師が説法した。畳より椅子のほうがよいと勧めた。東京近辺のお寺はみな椅子だが地方までは行き渡らずここのお寺は畳のままだつた。そんな内容だつた。しかしそんなことを言つたらそこの住職の立場がない。
総本山での別の説法では、ある搭中ではご本尊の周りが暗い。しかも灯篭が青くておばけが出てきそうだ。私は総本山の住職なのにそのような搭中があるとは知らなかつた。そういふところにゐて変な思想に染まるといけない。そのような内容だつた。これでは搭中の住職の立場がない。
東京向島の常泉寺といふ宗内筆頭末寺の住職が亡くなつた。本来はこの僧侶が管長になつてもおかしくはなかつたが死亡時に権僧正だつたので贈上人号だつた。池田大作氏は弔辞で、宗内の大久保彦左衛門と呼ばれていることを存じております、といふようなことを言つた。
半年ほどして東京池袋の常在寺の住職がなくなつた。日達師はこの住職に僧正を追贈し上人号にした。併せて半年前に亡くなつた僧侶も僧正に追贈し上人となつた。両者の釣り合ひを考へてのことだが半年前の僧侶は墓石を作り直さなければならないし過去帳も書き直さなければならない。

私は血脈に疑問を感じた。私だけではない。創価学会も同じ気持ちだつたことであろう。

一月十日(月)「管長絶対主義の是正を」
日達師が急死し日顕師が管長となつてある程度是正された。特に創価学会と別れてからは総本山では伝統建築と異なつた建物は次々と壊された。御影像に頭巾をお着せすることも復活した。しかし管長絶対主義は是正されず逆に強化された。
正信会が僧籍剥奪になる直前の宗会は、正信会が多数派だつた。だから宗会議長と副議長も正信会だつた。ところがそれまで宗制宗規の改正は宗会で可決すれば交付されたのに、宗会と責任役員会の可決を経て交付されるように改悪された。責任役員会は三名でそのうち二名は管長と総監である。総監は管長が指名するから、管長が許可しないと宗会は機能しない。このような改正になぜ正信会が賛成したのか不思議である。

六老僧の一人、日興は大石寺と北山本門寺を建てた。日興が亡くなり同じ年に大石寺の後継の日目も亡くなると大石寺と北山本門寺で後継争ひが起きて八本山に分流した。この時点で貫首絶対はなくなつた筈である。
だから日蓮正宗では宗会と参議会と監正会を設け、前管長や元管長を御隠尊猊下と称して現管長の監督役とし、次期管長を学頭と称して宗務院の実権からは遠ざけた。つまり管長の権限を曼荼羅を書写することと教義の最終判定をすることと総本山の法要を行ふことに留めた。
宗門に管長絶対主義の是正をできない以上、正信会と創価学会が行ふべきだ。

一月十五日(土)「日顕師の登場」
日達師が急死し日顕師が管長になつた。直後にすぐ宿坊の布団が改革された。それまで総本山の一泊登山は、敷き布団の上に直に寝たが敷布を敷くようになつた。余談だが日達師の葬儀の時は総本山の宿坊が満員なので下条妙蓮寺という総本山から少し離れた寺に宿泊した。元は本門宗の七本山の一つで戦後に日蓮正宗に帰属し、創価学会の急増でここにも予備の宿坊が作られてゐた。しかしここの布団は変な臭ひがした。しかも廊下に山積みされてゐた。それに比べて総本山は敷布を敷かなくても布団はきれいだつた。創価学会の圧力はすごいなあ、とは当時気が付かなかつた。
布団はともかく伝統復帰の動きが見られた。日顕師も「そういうことを私も考へてゐるが、それは私ども僧侶が考へる立場です」という説法をしたことがあつた。当時伝統復帰を主張する信徒は宗内にほとんどゐなかつたし、妙信講は伝統復帰というよりは国立戒壇で破門された。だからその立場ではなく言ふ信徒とは私くらいである。日顕師の説法はなかなか面白いし私は気に入つてゐた。
しかし創価学会以外の信徒の全国組織の青年部の会合で日顕師が説法の最中に突然「そんなことでは駄目なんだ」と突然怒り出し机を叩いたことがあった。そのときは私のことだとは思つてゐなかつたが、あれは私のことだと言ふ人が多かつた。私は、伝統は大切だと主張しただけだから、怒られる理由はない。実に不可思議な事件だつた。
その後、前管長が青年部指導僧侶に任命した若手僧侶H師と一回衝突したことがある。原因は、H師が青年部の会合で突然管長本仏論を主張した。H師の管長本仏論は創価学会から評判が悪いと青年部幹部が言つてゐた。創価学会だけではない。何でこんな低級な話を聴かされなくてはならないのか私だつて不愉快だつた。

創価学会に倣つて輸送班といふ組織が団体列車や総本山内の整理や警備を担当した。私も反抗的になつて輸送班の会合で、全国信徒組織の委員長が登壇するや全員が正座したときに、信徒である委員長の話を聴くのに正座しなければならない宗教上の意義を見つけられなかつたから私はそのまま正座せずに聴いてゐた。しかしこの事件は前のH師との衝突事件と合わせて大問題になつた。
その後日顕師は別の理由でH師を青年部指導僧侶から解任した。そして全国信徒組織の役員全員が管長から退任に追ひやられた。どちらも私はまつたく係つていない。私は影で他人を追ひ落すようなことはしない。しかし私が騒ぎを起こしたからだといふ人は多かつた。その後H師は長年無風だった宗会議員に立候補して当選したり反管長言動で宗務院ともめたりしたものの正信会や創価学会みたいに破門されることなく三十年を経過した。しかし最近つひに還俗した。
こうして正信会と創価学会と私とH師と元役員の全員が離脱したり退任したり破門になつた。


大乗仏教(日蓮系)その三
大乗仏教(日蓮系)その五

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