一五一、二二年ぶりの正信会寺院参詣記(その二、プロ野球西村監督と落合監督)

一月十六日(日)「西村監督と落合監督」
プロ野球の日本シリーズの西村監督は創価学会、落合監督は宗門の信徒である。昭和五五年頃に宗門側信徒組織のある幹部が「落合選手が入つた。今度落合君を総本山に連れて行くか。」と自慢げに話してゐた。もつともその幹部の妹が「駄目なんじゃないの」と否定的なことを言つていたから完全に入つたわけではないかも知れない。しかし週刊誌の報道によると落合監督のバッグが盗まれて中にお守りご本尊が入つてゐたと落合が怒つたそうだから今では立派に信仰を貫いてゐるのであろう。

私が今回参詣した正信会寺院に二三年前にロッテ浦和工場の若い女性従業員がゐた。その後プラザ合意により国内の製造業は壊滅状態になつた。そして浦和工場の敷地内に二軍球場が作られた。ロッテも製造施設の多くを海外に移したのであろう。
西村監督と落合監督には来年もがんばつてほしい。だけど監督の権威でチーム内で布教活動をやらないように。広宣流布が達成できるのなら短い年間の間に布教を完了させるべきだが昭和四五年に布教を停止したからである。

創価学会、宗門、正信会にはそれぞれ長所と欠点がある。それを次に見てみよう。特定の団体が正しく他は間違つてゐるといふ考へはいけない。そういふ考へが紛争の原因になる。

一月十七日(月)「三団体の長所と短所」
創価学会、宗門、正信会の長所と短所を下の表にまとめた。併せて今回の騒動と同じことを七百年前に体験し、創価学会と正信会の立場だつた旧本門宗を参考に掲げた。

一月二十二日(土)「昭和四五年一月二七日までの創価学会」
昭和三八年二月に母が向かひの魚屋の妹から入会活動を受けて創価学会に入つた。私は当時小学生で東京向島の本行寺にいつしよに行つてご受戒を受けた。住職は後に管長となる阿倍日顕師である。
長所短所
創価学会一、信徒の九八%が所属。
二、弱者救済。特に自営業者。
三、一般会員に良心的な人が多い。
一、広宣流布の暁には解散する筈だつた。
二、昭和四五年以降は既得権化のおそれ。
三、僧侶が極めて少ない。
宗 門一、七百年続いた。
二、他宗と異なり住職は世襲ではない。
一、組織に腐敗を生じる。
二、管長絶対。
三、六十六世日達師以降に改変した宗内をどのように六十五世日淳師の状態に戻すか。
正信会一、教義は一番正しい。
二、研究熱心。
一、信徒数が少ない上にじり貧。
二、宗務院がなくて僧侶の堕落をどのように防ぐか。
旧本門宗一、今回の騒動を七百年前に経験。
二、七本山貫首の権限は理想的。
一、戦争中に日蓮宗と合併。
二、戦後は末寺が日蓮宗残留派と脱退派に分裂。
三、日蓮宗に所属して六五年を経過し、身延の影響が大きい。

当時はタテ線と呼ばれ紹介者の組織に所属した。だから我が家の所属は東京第二総合本部東京第二本部向島総支部向島支部梅島地区北千住班である。

選挙対策に地域別の組織が併存した。文京区は衆議院の東京八区だから、東京第八総合ブロック本部文京ブロック本部第四総合ブロック第一総ブロック根津第五大ブロックであつた。
私は小学生だつたから自動的に入会したが、昭和四五年までの創価学会は魅力的だつた。今入会を誘われても入つてもよいくらいである。

一月二十三日(日)「思ひ出に残る大幹部」
思ひ出に残る第一の大幹部は、私が中学生のときに中等部長だつた細谷昭氏である。中学三年のときに高校受験を激励する葉書を頂いた。すべての中等部員に書いたのかも知れないし、細谷氏はたしか千住に住んでゐたからタテ線が北千住班の私に書いてくれたのかもしれない。当時そう思つた。
二十年前の宗門と創価学会が分かれたときにテレビの報道番組に宗門側から総本山内事部の小川只道師、学会側から副会長の細谷昭氏が言ひ分を述べた。小川氏は通称「カバさん」と僧侶仲間の間では呼ばれ親しまれてゐると聞いたことがある。富士宮駅の駅長が最後の団体列車の車内を挨拶して回り、車内の乗客に拍手される光景も映された。

思ひ出に残る二番目の大幹部は高等部文京本部長の高木氏である。高等部の本部長は男子部幹部が派遣される。あるとき目白台の東京第四本部といふ創価学会の建物で会合が重なつたのか急遽近くの日本図書輸送を借りたことがあつた。たしか外付けの階段で二階に上がると第四本部と同じように仏壇が正面にある畳敷きの大広間があつた。
昨年私の所属してゐる労働組合が委員長派と書記長派に分裂した。私は委員長派だが書記長派は代表者が不在となつたために副委員長のTさんが代表代理を半年間務めた。Tさんは日本図書輸送に勤めてゐた。都労委の審問を傍聴に行つたところ、高木さんといふ専務が証人に出た。あの高木さんかと一瞬喜んだが別人だつた。Tさんは昭和四二年の入会で正本堂建立のときはずつと総本山にゐたといふ。タテ線を聞いても分からなかつたから活動を始めたのはもつと遅いのかも知れない。

一月二十四日(月)「入江大ブロツク長の話」
このころは今月は何日から翌月の何日までがタテ線、その後はブロツクと学会全体が交互に活動をした。しかし徐々にブロツクの期間が長くなつた。だから毎週土曜夜に行はれた座談会で地区部長の家に行つたのが二回、班長の家が一回。座談会以外で深川住吉町の東京第二本部に行つたのが一回、墨田公明といふたしか小さな仏壇店の奥に行つたのが一回。タテ線の記憶はこれしかない。
これに対してブロツクの会合は数十回参加した。大ブロツク長は調理師で食堂だけではやつてゐけないので弁当屋を経営し、二階の自宅で座談会を行つた。
或るとき大変な事件が起きた。大ブロツク長の家の前にパトカーが何台も停車し立ち入り禁止のロープが張られた。後でわかつたことだが娘さんの結婚に大ブロツク長が反対したため、相手の男が猟銃心中した。しかしそれが原因で退会する人は居らず大ブロツク長も役職を続けた。
ある夜、台東体育館で会合があつた。当時はトロリーバスが走つてゐたが、大ブロツク長夫婦と私の母と私の四名だつたのでタクシーで帰つた。大ブロツク長は車が走り出すや寝てしまひいびきをかいた。皆で笑つた。私は当時小学生だつたが、笑ひの中の悲しみを感じた。

一月二十五日(火)「総本山御仏師、赤澤朝陽」
浅草の赤澤朝陽といふ仏具店の二階を借りた会合に一回参加したことがある。台東区は東京第八総合だからタテ線ではなくブロツクであろう。木造の普通の造りで大きな和室だつた。あの当時は学会の建物もタテ線やブロツクの幹部の家も学会系企業も皆が広宣流布に向つて真剣だつた。
昭和の後期や平成に赤澤朝陽は「総本山御用達」「総本山御仏師」といふ脇書きを付けて宗門の機関紙に宣伝を載せてゐた。しかし第二次宗創紛争では宗門ではなく創価学会に付いたことはこのことから理解できる。

仏師といへば宗内でも指折りの碩学の手塚貫道師が平成元年のころに、日蓮正宗の御影像はお腹にご本尊を入れるから背中から切って作るが、その技術が廃れてしまふ、と心配してゐた。

一月二十六日(水)「昭和四五年一月二八日」
昭和四五年一月二八日に創価学会は折伏大行進を中止した。大行進を中止すれば組織に腐敗を生じる。入江大ブロツク長が大事件にも係わらず役職を続けたのも組織が広宣流布に向つてゐたからだ。もし沈滞した組織だと、事件を起こした人が役職にゐるのはまずい、とか言つて解任するだろう。毎週土曜に行はれた座談会が隔週になり曜日も金曜に変更された。
母が学会と距離を置くようになつたのはこの二年後である。しかも郊外に引つ越したためブロツクの人脈が壊れ、タテ線は既に廃止されてゐたから我が家は実質的に退会した。

学会は国立戒壇路線を昭和四〇年ころから徐々に放棄していつた。放棄自体に問題はない。その次に管長の細井日達師が正本堂は戒壇だと定義した。戒壇は広宣流布のときに建立すべきものだがこれも今までの勢いで信徒が増えれば近いうちに達成できるからその呼び水といふことで理解できる。ところが更にその次に広宣流布は達成されたと言つた。これは理解できない。誤りの原因はすべて細井日達師にあつた。

これは昭和六十年代に宗会議長野村日修師から聞いた話だが、正本堂の計画段階で、十年毎に屋根の修理に多額の費用が掛かるがもし創価学会が出て行つたら費用をどうするのか議論があつたそうである。昭和四〇年に既に宗門と創価学会の間にはすきま風が吹いてゐた。

一月二十八日(金)「入信時の経本」
(一般の人が呼んでも興味を持ちそうにない部分は紫色で活字を小さくしてあります)
昭和三八年のお経本には、裏面に大石寺の年間行事が載つてゐた。「お綿上げ」「お綿下げ」といふ冬に御影像に頭巾をお着せし春になるとしまふ法要が載つてゐた。もう一つ足袋か何かについても載つてゐたように思う。
初座の読経の観念文に「天照大神、正八幡大菩薩」が入つてゐることは既に述べたが、四座には「爾前迹門の謗法退治」が載つてゐた。これは古来からのものである。四座には「我ら弘法の誠意大御本尊に達し」とも入つてゐたが、これはこのころの一時的なものである。


一月二十九日(土)「朝夕の勤行」
勤行は朝が五回、夕方は三回の読経が正式だが、野村日修師は夕方の勤行を一座で済ますことがあつた。御観念文は三座分を読むからそれでよいのだが、創価学会員はきちんと毎日八座を行ふ人がほとんどだつたからお寺に勤行に来て一座だけのときには家に帰つてから再度三座の勤行をやり直す人が多かつた。
総本山では戦前は世雄偈といふ方便品の長いお経を読んだがその後読まなくなつた。正信会はその後世雄偈を復活させる寺院が現れた。創価学会では逆に朝夕二座に簡略した。


一月三十日(日)「皆が必死に生きた時代」
昭和四三年頃だろうか。東京第四本部で会合がありたぶん南米だつたと思ふが海外に住んでゐる日本人が紹介された。ところが登壇するや畳に座つて仏壇を向き題目を唱へ始めた。すぐ終るだろうと会場中が思つたがなかなか止まない。もう止むだろうと思つても止まない。つひに幹部が「君、皆が海外の話を聴きたがつてゐるのだから」と促すと題目を止めて演壇に向かひ話し始めた。海外の生活は苦しいのだろう。布教の自由が制限されてゐるといふようなことも淡々と話した。話が終つた後に幹部が「題目しかないといふことを皆にいいたかつた」とまとめた。

あるとき総本山に行く団体列車の車内で勤行をする人がゐた。朝夕八座を毎日勤めることは尊い。家庭の事情で曼荼羅を家に安置できないこともある。だから車内で勤行する人がゐても別に驚かない。ところが輸送班が車内で注意点の説明を始めた。話し始めてから「勤行をしてゐる人は止めてください」と言つた。富士宮まで時間はかなりある。勤行が終つてから説明すればいいではないか。座席配置が一一三系電車だつたから昭和四五年ころだと思ふ。

我が家を折伏した人は向かひの魚屋の妹で結婚して同じ町内で駄菓子屋をやつてゐた。魚屋の息子の通称けんちやんも学会員だつが今で言ふ知的障碍者で家の中で学会の書物を大声で読んだり学会歌を一人で歌つたりしてゐた。魚屋夫婦は入会しなかつた。妹と息子はともかく向かひの我が家まで巻き添へで入会したのにけんちゃんの両親は入会しなかつた。「けんちゃんにお金の計算を教へれば魚屋の店番ができるよ」と婦人部の幹部が心配してくれてゐた。
このように皆が必死に生きた時代だつた。ところが最近矢野絢也氏と島田裕巳氏の共著を読んだところその中で島田氏は、創価学会は大労組に相手にされない中小企業の従業員が入ると言つてゐる。これは許しがたい。創価学会は個人経営者が中心である。ここがまず違つてゐるし、何より島田氏の言ひ方は創価学会と中小企業労働者の双方に失礼である。といふことで次章では矢野絢也氏と島田裕巳氏を批判しようと思ふ。


(その一)へ (その三)へ
メニューへ戻る 前へ 次へ