千四百九十六 (和歌)東日本右回り旅行記
庚子(仏歴2563/64年、西暦2020、ヒジュラ歴1441/42年)
十一月二十五日(水)夜明け前
明日の朝、信濃越後出羽陸奥に出発する。しょっちゅう旅行にばかり行くではないか、と呆れる人が多いことでせう。ここは解説が必要だ。
私の旅行は、遠距離は青春18切符、近距離はバスや地下鉄の1日乗車券、と云ふのが定番だった。ところが昨年、大人の休日倶楽部ミドル会員になり、休日倶楽部パスを使ふやうになった。新幹線と特急に乗れて便利だ。
今年は夏休み旅行を7月に東日本パスで行かうとしたところ、コロナ騒ぎで販売が中止になった。そこで18歳よりは若干年齢が上だが、青春18切符で松代、鼠ヶ関を旅行した。
ところがJR東日本が、販売中止の減収を補ふため、臨時で九月に販売することになった。そこで、三陸鉄道、五能線、別所温泉に旅行した。
そして、十一月は当初の計画どほり発売されたため、旅行に出た。と云ふことで、今年は一回余分に旅行することになった。

十一月二十六日(木)小諸
北陸新幹線の佐久平で小海線に乗り換へ、小諸に到着した。九時十七分で、まだ店はどこも閉まったままだ。大手門、本陣、古い商店街を見て廻った。街全体が、観光名所と島崎藤村だ。
河野洋平さんが何十年か前に、松本の病院に入院した。ここにいたら一生住みたくなる、と感想を語ったが、小諸もそんな街だ。
和紙の店で、110円で西陣紙の切れ端を買った。店の中央だけ天井が高いのでお話を伺ふと、階段が両方に上がり、天井裏を含めると四階まであるさうだ。
俵万智さんが前に来て一首詠んだ(和紙店に 便箋の色迷いおり 時間の厚み こんなふうにも)記事が掲示してある。私も
万智さんに 対抗をして 一首詠む 店は層楼 時間の厚み
(反歌)戦後には 三階建ての 木造が 街では禁止 今は解禁
(反歌)街道の 道幅広げ 各軒を 削り時間が やや薄くなる
私の伯母が松本で障子紙商をしてゐた話をして、盛り上がった。店を出たあと、他の店にも説明が表示してあるので、外観と説明を写真に撮った。一番街外れの店は、軒が深い。かつては雨の時など買い物客が重宝したが、道幅拡張のため、他の店は軒を削ったことが判った。
その後、本陣と脇本陣に行ったが、まだ開いてない。そのまま懐古園に行った。四つの展示館も観た。島崎藤村記念館に、東筑摩郡里山辺村から出した葉書が展示してある。里山辺村の後のひらがなが崩し字で読めない。丁度館長か研究員が通りかかったので質問し、旅館の名前だと判った。祖母は里山辺の出身だと話して、盛り上がった。
小海線の発車時刻が迫るので駅前を一周すると酒屋があった。カップ酒を購入し、真澄の旗があるので店主のじいさんに訊くと、やはり地酒だと云ふ。ばあさんが諏訪の酒だと助太刀し、私が既にその名を知ることに納得した。

十一月二十六日(木)その二長岡
高崎経由で長岡に到着した。今まで新潟市には何回も泊まったが、長岡は初めてだ。小諸からは、長野経由、高崎経由どちらも距離は同じだ。しかし所要時間は高崎経由が断然早い。昼食は、高崎で天玉かき揚げそばを食べた。
長岡に着いて、まづ河合継之助記念館に行った。コロナ対策で予約制なので、予め日時を伝へた。薩長が正しかったかどうかは、先の戦争を見れば明らかだ。河合継之助は先見の明があった。
継之助 先見の明
正論で 薩長説得
してみるも 薩長傲慢 先の敗戦
(反歌)薩長と 幕府の連立 唯一の 明治と昭和で 平和への道
時間があったので、山本五十六記念館に行った。東條(インパール作戦)、山本(真珠湾攻撃とミッドウェイ海戦)、岸(工業力)には、敗戦責任がある。しかし記念館に入ると、悪いのは軍令部であって、五十六ではないと云ふ気がしない訳でもない。
(11月29日追記)記念館の展示に、真珠湾攻撃やミッドウェイ海戦はなかった。それが山本に敗戦責任がないと、一瞬思った原因だった。

十一月二十七日(金)角館
長岡から新幹線で新潟、そして特急「いなほ」と秋田新幹線で角館に到着した。長岡から角館は、新幹線で大宮乗り換へのほうが早い。しかし大宮まで戻っては興ざめだ。私の住所はさいたま市だからだ。
角館では武家屋敷街に行った。角館は観光と工芸品の街だ。新型コロナ騒ぎで、無料で入場できる武家屋敷は、外からの見学になった。
私有で有料が二つあり、そのうちの石黒家(400円が割引で350円)に入場した。古い家を見学していつも思ふことは、昭和三十年代までの家と共通点が多い。今回は調理用水汲み場に共通を見た。
角館 武家の屋敷は
六つにて その他の家も
黒い塀 途切れず続く
その線は 武士の時代に 我らを誘ふ
(反歌)角館 民芸品も 重要な 産業にして 街を支へる
宿泊は大曲で、久しぶりの和室だった。特別ポイントで数百円安い代はりにGoToの1000円券が付かない。数百円損した気分になった。大曲は、街中を歩いただけに留めた。

十一月二十八日(土)旧山田線
本日は、津軽線の終点、三厩と、津軽鉄道の途中駅、金木まで往復する予定だった。 しかし、次の宿泊地本八戸の到着が夜八時前になるし、せっかく金木に行くのに反対列車にすぐ乗り換へなくてはいけない。金木には太宰治で有名な斜陽館がある。
予定を変更し、快速列車「はまゆり6号」に乗った。二両編成で、最前部と最後尾に展望座席がある。リゾートしらかみから、売店と個室を除いた編成で、快適だ。観光列車はかうでなくてはいけない。(社内での会話は外伝へ)
今回旧山田線の沿岸に乗った理由は、地震の被害でどれだけ修復したかを見ることだった。移設はほとんど無いやうだ。
震災で JRから
3セクに 移管された
沿岸部 昔の面影 僅かに残す
(反歌)国鉄の 貨物が元気な 時代での 遺跡はほとんど 去って残らず
釜石から花巻までは再び快速だが、全席指定ではない。しかし指定券を取った。本日乗るはずだった「リゾートしらかみ」を変更して、キャンセル待ちの人に早く回したい。盛岡駅で「はまゆり6号」の指定券の時にやりたかったが、みどりの窓口は一人並び、時間がないので券売機を使った。
八戸から乗った八戸線は、窓の外が真っ暗で、東京も昭和30年代は、こんな感じだった。
本八戸駅に着くと、駅前から真っ暗だ。かなり歩くと街路が明るくなってきた。なるほど駅は町外れにあるのが、昭和三十年代までの全国ほとんどだった。八戸は、今でもこれを踏襲する。
Daieiと書かれた建物があった。買ひ物や食事は価格を優先するものの、その次は(1)個人経営、(2)スーパー、(3)コンビニ、で選ぶ。コンビニは、利益の半分を東京に吸ひ上げられるから三位だ。この時間は、個人の食料店は閉店する。まだ開いてゐるスーパーは貴重だ。Daieiに入館すると、そこはパチンコ屋だった。

十一月二十九日(日)津軽線と津軽鉄道
朝、本八戸駅まで歩くと、途中に市役所があるし、民家や建物が駅まで続く。本八戸からの窓の景色も、次の長苗代まで民家が続く。その先は農地だった。
昨日の予定を本日に変更し、津軽線の蟹田まで往復した。昨日の計画は、終点の三厩までだったが、本数が少なく本日は無理だった。次は三厩まで往復したいものだ。
二回目の 旅においても 新たな気付き
車窓には 観るもの多く 尽きることなし

五所河原で待ち時間があるので、駅前のバスターミナルに行った。ここは昭和の香りがする。まづ待合室が広い。バス案内の放送と発車合図を出す女性のほかに、切符売り場にも女性がゐる。
津軽鉄道の駅に戻り、金木まで往復した。金木では太宰治の斜陽館を見た。一旦、津島家(太宰の本名)の手を離れて旅館になったことが、斜陽館の残った理由だ。もし大地主の家のままだったら、反感が強く残せなかっただらう。
斜陽館 復元工事で
大地主 豪奢な家に
戻るとも 太宰治が
住んだ家 見学出来て 極楽の旅
(反歌)ビデオにて 復元工事の 再現を 私以外は 誰も観ず去る 二十人中(終)

外伝

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