千四百五十一 松代、善光寺、新潟市古町、鼠ヶ関旅行記
庚子(仏歴2563/64年、西暦2020、ヒジュラ歴1441/42年)
七月二十三日(木)
朝家を発ち、松代と鼠ヶ関に向った(八月一日追記。善光寺の朝事にも参加した。新潟市古町の商店街にも行った)。毎夏恒例の青春18旅行である。出発は毎年、緊張と期待が交錯する。
早朝に 信濃越後と 出羽の端
 旅発つ一歩 まづこの時に

長野駅に到着。改札前のそば屋で天ぷら玉子そばを食べた。地元の人が多いから、人気のある店なのだらう。松代駅までバスに乗り、象山神社、佐久間象山資料館を見学した。
先生と 県歌が謳ふ 象山は
 志士の師匠の そのまた師匠

長野県歌「信濃の国」五番に、象山(ぞうざん)佐久間先生とある。象山神社で最も人気のあるのは、吉田松陰など多数の銅像だ。浄財箱があるので、小銭を入れた。本殿でも賽銭を入れ礼拝しようとしたところ、長野県神社庁の掲示物が貼ってある。一例二拍手だ。私はこの方式では拝礼しない。強制されたから拝礼と賽銭を中止した。
寺社ともに 合掌すべきが 昔から
 神仏の前 静粛保つ

象山ゆかりの建物と、屋敷跡地にただ一つ残る井戸跡を見て退出した。
象山が 世に出る前の 井戸の跡
 蟄居の時も また伏流に

松代大本営跡は、着いたら閉門五分前で、入口の人は市の人が戻ってきたら言ってみると提案してくれたが、いやいいですよ、と固辞した。
幕末に西洋野蛮人が現れ、世界中を植民地にする勢ひだった。そんな状況での日本が行き着く先を見ても、歴史とは断絶した情報だ。
今夜は善光寺平のビジネスホテルに一泊する。

七月二十四日(金)
善光寺早朝の朝事に参拝。自動車用道路標識の「善光寺」に沿ったら、信大教育学部前、合同庁舎の横を通り、かなり大回りになった。
幾つかのグループが山門などで案内人から説明を聴くのを尻目に、本堂に入り、内陣の入場券を自販で購入。天台宗と浄土宗のお勤めに参加。浄土宗は、回向と祈願がすごい量で、何回にも分けて開催した。その度に、幕が開く。
俗世では 皆が善人には非ず
 朝事は皆が 善人になる

回向する すべての人が 広大な
 慈悲の心と 一度は見える

義理や見栄 そんな法事も あり得ると
 多数の開幕 一瞬思ふ

たくさん開幕するのは、それだけ内々陣に順番で参列する多くの人が、善光寺と特別の縁を結んだ。回向の途中で抜け出して(この時点で内陣の九割は既に退出)地下の戒壇周りのあと、考へ直した。
回向には 残った人の悲しみを
 超えるための 先人の知恵

大勧進を見たあと参道を下ると、回向を終了したあとの尼公上人のお行列に追ひ付いた。ゆっくり歩いたり横に入った釈迦堂を見たりして時間調整した。インターネットで調べると、日本仏教婦人連盟名誉会長、鷹司家の娘、従姉妹の一条智光より後継者を探してゐると伝へられ出家。
ホテルに戻り朝食の後に、再び善光寺に行った。史料館は九時からで、内陣参拝券は史料館を含む。日本忠霊殿の一階にある。インターネットには「戊辰戦争から第二次世界大戦に至るまでに亡くなられた240万余柱の英霊を祀る、我が国唯一の仏式による霊廟です。御本尊は秘仏の善光寺如来様の分身仏です」とある。
これはよいことだ。英霊には礼を尽くし回向することが大切だ。それを怠ると、元龍谷大学教授の植民地化された非西洋はそのことを喜んでゐるだらうとする奇妙な主張や、朝日新聞元主筆の英語公用語化論などが現れる。
十時過ぎに飯山線で新潟に向かった。飯山線は山の中を走る。本数も少ない。十日町でほくほく線と出会ふので駅の手前で合流し、その先で分岐するのだらうと想像したら、何と高架で頭上を越えた。貨物全盛の時代には考へられないことだ。
今夜から新潟市内に二泊。

七月二十五日(土)
本日は鼠ヶ関に行った。鼠ヶ関駅で下車すると、街は寂れ人通りがほとんどない。県境に向かふも車はまったく通らず、庄内ナンバーの車がそれぞれの民家の庭にある。何だか化かされた気持ちになった。
すぐに県境に到着した。境に石の標識がある。道路に線も引いてある。街中に昔の国境(くにざかい)は、ここだけださうだ。かつて今の県境と、昔の国境は位置が異なると云ふ論文もインターネットにはあった。
集落を 二つに分ける 県境
 昔の境 何処(いずこ)にあるや

発掘で 古代にあった鼠ヶ関
 驚くべきは 今の境に

近代の 調査で分かる国さかい
 古代と今で 寸分たがはず

県境を越えると、車が新潟ナンバーになる。一旦踏切を渡り、崖の南側に新潟県知事のがけ崩れ棄権の標識、北は山形県側の道路票を見たあと、踏切を戻った。さきほどの県境を先に進み交差路を海岸に向かふと、新潟県側の漁港がある。斜めに海に突き出したところが県境に違ひない。小さい道路の民家側には、先ほどの石の標識とは別の、最近作ったコンクリート製の二つの集落名を示す標識がある。
海岸に沿ひ歩くと、山形県側にはアリーナのボート施設がある。更に進むとマリンパークのシャワーと書かれた建物がある。今年はシャワーは使へない、と垂れ幕がある。
広場手前のベンチで、鼠ヶ関駅まで来る途中で買ったうちの、レーズンロール3個とバナナ2本を食べた。たんぱく質が少ないので、あとでウィンナーでも食べようと計画した。
シャワーの建物が終ったところを海岸に近づくと、磯の生物と親しむ人工海岸とある。その先のイカ焼きなどを売ってゐる店の2番目で、いない汁とイカを食べた。いない汁は牡蠣に似た中型の貝が3つ入った味噌汁だ。最初はこれだけにしようと思ったが、味噌汁みたいなものだと説明されたので、イカ焼きも注文した。
いない汁はどんぶりで汁も多かったので、これだけでも足りたが、イカ焼きなんてここでしか食べられない。厳島神社を見たあと戻る途中、案内図を見ると、マリンパークの後方は海水浴場だと判った。今年は閉鎖されたままだ。 この浜は、弁慶の上陸地とも云はれる。勧進帳の舞台は安宅の関だが、安宅に関があったかは不明で、ここの近くは今でも勧進帳に出てくる富樫姓が多いなど、鼠ヶ関が上陸地の指摘には説得力がある。
このあと江戸時代の念珠ヶ関(読み方は同じで、ねずがせき)を見た。山形県指定天然記念物曹源寺のヒサカキも観た。五つに枝分かれする姿はすごいが、裏庭にあるので裏の路地を開放してくださる曹源寺の熱意に、更に感激した。
ひさかきは 県が指定の 記念物
 更に尊し お寺の善意

このあと県境に戻り、海岸の標識も再度見て、線路側に歩くと、古い鼠ヶ関の説明板があった。石柱もあるが、背後の配電盤が雰囲気をぶち壊した。鉄道の本数が少ないので、2時間の滞在時間があった。1時間で十分ではあったが、ゆっくり見て廻れたし、県境に二回行ったおかげで、古い関の説明板と石柱も発見した。


七月二十六日(日)
予定どほり12時6分の普通列車で帰ることにした。ホテルをチェックインのあと、萬代橋、古町を歩いた。閉店した三越の向かひのNEXT21の展望階に行った。晴れてゐるので、佐渡ヶ島がよく見えた。日本海は、相変はらず水が白かった。
日本海 水が白きは 海底の
 サンゴかそれとも 川の泥水

梅雨(つゆ)はまだ 明けないためか 信濃川
 水は土色 上流は雨

日を置いて 思ひ起こせば 日本海
 綺麗な水が 青く反射か
(八月一日追記)
古町の地下街で海産物を買った。前もこの地下街でお土産を買った。
地下街は 昭和の香り 漂はす
 商家が並び 繁盛並ぶ

古町の地下街に行ったのは、日曜日の十時半くらいなので、お客さんはほとんどゐなかった。「繁盛並ぶ」はいつまでも繁盛が続いてほしいとの希望だ。(終)

和歌二和歌四

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