千四百五十七 和歌を創ると、社会がよくなる
庚子(仏歴2563/64年、西暦2020、ヒジュラ歴1441/42年)
八月十四日(金)
和歌を創ると、社会がよくなる。これが今回の主題だ。短歌とせず和歌とした理由は、素材が伝統に従ふことが必要だ。だから石川啄木の
わが髭(ひげ)の
下向く癖(くせ)がいきどほろし
このごろ憎き男に似たれば

は不合格だ。素材が伝統に従はないから、和歌ではない。
和歌には、長歌や旋頭歌も含まれる。或いは、俳諧や、七五調、五七調の文章も含まれる。
文語体でなくてもよい。近年は連体形の「流るる」などは、逆に違和感を持つ人が多い。文語体と口語体が混ざることは、文章が美しければ問題ない。一番大切なのは、文章が美しいことだ。
文語と口語は、方言の違ひみたいなものだ。完全な東京弁で話す人も、完全な大阪弁で話す人もゐない。例へば「東海道」「中山道」「あかとんぼ」は、東京弁なら先頭にアクセントがあり、あとは低く話さなくてはいけない。しかしほとんどと云ふか、すべての人が二番目と三番目にアクセントをつける。「熊」は多くの人が先頭にアクセントをつけ、一部の人が二番目にアクセントをつける。今でも後者が正式で、だから信州の上高地に熊が現れたときに、テレビのニュースは二番目にアクセントをつけて発音した。
正仮名遣ひと新仮名遣ひは、正仮名遣ひを用ゐるべきだ。新仮名遣ひは、人類史上最悪の戦争犯罪人マッカーサが押し付けたものだ。あんなものを使ってはいけない。とは云へ、これは和歌の話で、仕事や日常に正仮名遣ひを使ふと誤解を招く。あと、漢字の読み仮名は、漢詩を創る場合を除き、新仮名遣ひで構はない。

八月十五日(土)
和歌を創るときは、目の前の光景と、自身の心の中の動きから、一句が浮かぶ。次の句も浮かぶ。途中を飛ばして後ろの句が浮かぶこともあるし、初句を除いて第二句が浮かぶこともある。それらを組み合はせたり、抜けた句を考へるうちに一首が完成する。そして推敲する。
これら一連の流れは、仏道の瞑想である、止(サマタ)と観(ヴィパッサナ)そのものだ。和歌を創ることは、瞑想と同じ行動だから、心を整へる。皆が心を整へれば、社会が良くなる。
和歌の内容そのものも、正直に生きる、正しく生きる、自然を穏やかな気持ちで観察する、自然に共感する。そんな内容だから、創る人も読む人も、心が正しくなる。

八月十六日(日)
私がこれまで和歌を創るのは、旅行中だけだった(富山南三陸信濃越後鼠ヶ関)。旅行は、見るもの聞くものすべてが新鮮だ。だから自然に一句、二句と浮かぶ。
それに対し、平時は周りが見慣れたものばかりだ。句が浮かばないのに無理に作るから、駄作になる。

一昨日、文語体と口語体について書いたが、口語体で書けば混じることはない。しかし昔の和歌を読めば、それが記憶に残り、創るときに影響しないとも限らない。それを気にして創作力を減じるよりは、気にせず創ったほうがよい。文語体と口語体の混在を避けたほうがよいのは当然だし、読んで美しければ、そこには混在はないはずだし、あったとしても表現がより美しくなったと考へるべきだ。

八月十七日(月)
文語に比べて、口語は助動詞が少ない。「けり」「をり」「なり」「ぬ」などがないから、現在形なのか推量感嘆完了形なのかが判らない。その一方で、口語の現在形に慣れると、助動詞がない分、単語を増やすことができる。これは口語の有利な点だ。古典を学んで自分も創りたい人は文語、現代文として和歌を創りたい人は口語と、使ひ分けがよい。(終)

和歌三(その二)、和歌五、和歌論二

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