千四百五十 1.芥川賞は廃止する時期だ、2.玄侑宗久「慈悲をめぐる心象スケッチ」を批判
庚子(仏歴2563/64年、西暦2020、ヒジュラ歴1441/42年)
七月十五日(水)
「春と修羅」鑑賞記、續編を書くに当たり、八冊の本を図書館から借りた。その中には、草野新平の詩集が二冊、萩原朔太郎の詩集一冊に交じり、玄侑宗久「慈悲をめぐる心象スケッチ」もあった。著者名は見ずに、題名だけで決めた。
ところが「慈悲をめぐる心象スケッチ」は、読んでも中身がない。第一章の冒頭から、檀家の胎児が胎盤剥離で亡くなり、火葬場での出来事から始まる。2頁半続いたあと
いったい何の話が始まったのかと、訝(いぶか)る向きもあるかもしれない。(中略)「慈悲をめぐる心象スケッチ」としてみたのは、当然どこかで作家Xを意識してのことだ。

つまり心象スケッチ「春の修羅」とは無関係に、しかし作家Xを意識したさうだ。それなら題はそれに合ったものにしなくてはいけない。間違って書店で購入する人が出るし、図書館も間違って購入してしまふと税金の無駄になる。
私も最近、行動心象日記を始めたが、心象スケッチとは別であることをはっきりさせるため、スケッチではなく日記とした。
ここで玄侑宗久さんが、心象スケッチ「春の修羅」を意識しつつ別の題材を書いたのであれば、題に問題があったとしても、それはそれで構はない。間違って購入した人と図書館は怒るだらうが。
しかしこの本は、やたらと作家Xのことが書いてある。「はしがき」の冒頭からして
文学者としてはともかく、宗教者としての作家Xはかならずしも成功したとは言い切れない人生を歩んだ。
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これは間違ってゐる。作家Xの所属した国柱会は、本門宗北山本門寺と深い関係にあった。XX会の牧口常三郎が旧本門宗X寺派の信徒になったのは、おそらく北山本門寺の本家筋に当たるのがX寺だと云はれたためだらう。
その後、昭和九(1934)年に「雨ニモマケズ」の原稿が発見され、昭和十一(1936)年日本少国民文庫の「人類の進歩につくした人々」(山本有三編)に収録され、その前後からあっと云ふ間に広まった。
XX会は昭和五(1930)年に設立され、最初は教育者の集まりだった。本格的に布教を始めたのは昭和十二(1937)年辺りからで、有名になった「雨ニモマケズ」の影響は大きかったことだらう。
宗教者としての作家Xは、大成功だった。

七月十六日(木)
「いかりのにがさまた青さ」から(風景はなみだにゆすれ)までの五行を引用したあと
私はこの「春と修羅」の一節を、五月の火葬場で、明るい新緑のなかに想いだしていた。(中略)他人への怒りはもちろんだが、自らの内部の受け容れがたい矛盾への怒りは、慈悲という春の陽光のような温かさに包まれて溶かしてもらうしか解消しようがなかったのではないか。
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他人への怒りは、一般に他人が悪い(と自分は考へる)から発生する。それを解消するには、慈悲ではなく寛大な心が必要だ。自らの矛盾への怒りも、慈悲ではなく戒定慧のうちの定が必要だ。
そもそも慈悲は、「生きとし生けるものに楽を与へる」(慈)と、「生きとし生けるものから苦を除く」(悲)だから、他人や自己への怒りとは別件だ。

七月十七日(金)
『X経』は云う。矛盾なんてものは、人間の解釈が及ばないというだけのこと。自然はもとより矛盾なんかしていない。なるほど『X経』は、読みようでは矛盾に溢れている。あらゆる考え方が積め込まれた百科事典みたいなものだから、「百科事典読んで悩むなんて、そんなのバカよ。人間だって矛盾してるのが普通なんじゃないの?」作家Xはそれを(中略)、X経から読み取っていったのだろう。
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まづX経を読んで矛盾に悩む人はゐない、難解で悩む人はゐるが。百科事典を読んで悩む人もゐない。それに対し、人間社会での矛盾は、解消したほうがいいものと、解消すべきだが現在は難しいものと、許容範囲のものがある。
それなのに、宗久さんは全部をいっしょくたにした上で、悩むなんてバカだと云ふ。とんでもない暴言だが、それより宗久さんの主張は中身がない。解釈が及ばない、矛盾なんてない、悩むなんて馬鹿だと言ひながら、その内容を書かないからだ。また、作家XがX経から読み取ったと云ふが、根拠は何か。どう読み取ったのか。
胎児の話が12頁続いたところで第一章は終はる。

七月十八日(土)
第二章に入り、先日書いた慈と悲の話になる。
なんの定義もせずに「慈悲」という言葉を使いだしてしまったが、やはりある程度、仏教語としての説明をしておいたほうがいいだろう。
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で始まる。第一章で説明すれば、先日の慈と悲は書かなくて済んだ。用語の解説をしてから「いかりのにがさまた青さ」に入るべきだが、それをすると他人への怒りとは別の話になってしまふ。
このあと8頁に亘り初期仏教、三乗一乗などが慈悲の話の延長として展開される。意見の異なりはあっても、ここはまともな部分だ。意見の異なりは構はない。しかし悪意を持って上座の仏道や作家Xを批判する人が稀にゐるので、それには反撃しなくてはいけない。宗久さんに、そのやうなところはまったくなく、これはよいことだ。
それなのにこのあと急変する。
話は変わるが、私が宗教についてまともに書いた初めての文章は「愛と執着について」というものだった。
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に始まり、無駄話に戻ってしまふ。釈尊が比丘や比丘尼の性行為を禁じたことに言及ののち
釈尊がここまでエロスに拘った理由は簡単には云えないが、やはり慈悲という無志向性の博愛にとって、エロスが大きな妨げだと認識されていたことは間違いない。
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これは間違ってゐる。もはや意見の相違なんかではない。釈尊が性行為を禁じたのは、僧侶は修行だからだ。この流れは大乗の仏道でも守られ、日本では親鸞の系統を除いて明治維新まで続いたし、アジア各国では今も続く。
本の最終頁に書かれた宗久さんの略歴を見ると、臨済宗に所属する末寺の副住職だ。臨済宗は禅宗だから、そんなこと判りさうなものなのだが。それなのにこの人は
染心と呼ぼうとエロスと呼ぼうと、あるいは「結ぶ」と云われようと、それは人間にとって自然なこと。
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と暴言を吐いた。恐ろしいことを云ふ。明治維新までの臨済宗の歴史を否定してしまった。臨済宗の宗務所は、僧籍剥奪にすべきではないのか。
釈尊の伝記をいくつか読んでも、おそらく釈尊の青年期のエロス体験には殆ど触れていないはずである。しかしそれは、多くの偉人伝にありがちな省略やデフォルメが、伝統的になされた結果だろうと私は想っている。そう思わないと、私には釈尊のあそこまでの神経質さは理解できない。
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釈尊が結婚し、ラゴラと云ふ子がゐたことは周知の事実だ。省略やデフォルメではない。日本では僧侶がこんなことを言ってゐますと発表したら、世界中の笑ひ物だ。
今回の特集は、第一章を読み無駄話ばかりなので、書籍を購入した人たちが怒るだらうと云ふことで始めたが、第二章があまりに酷いので、驚愕した。私だけではなく、日本はおろか世界中の比丘、修道女、尼(大乗)、優婆塞、優婆夷も同意見であらう。

七月十九日(日)
私は、日本の僧侶が明治維新以降に妻帯したことについて、世襲の弊害などがあるのでいづれ伝統に復帰すべきだとは思っても、現在について批判したりはしない。上座のお寺に来たり初期経典を学習する日本の大乗僧についても、熱心な人たちだと感心はしても、妻帯を批判したことは一回もない。大乗の講演会を聴きに行ったが、妻帯を批判したことはない。
なぜこんな本が出版されたかを考へると、著者は芥川賞を受賞した。それは、そのときの小説が受賞したのであって、書いた人が受賞したのではない。それなのにこの男は、俺は有名人だ何を書いてもいいのだ、と勘違ひしてしまった。
小説は、読んだ人がいい作品だと思ふことが大切だ。選考委員会がいいと思っても、それはその人たちの感性だ。芥川賞は廃止の時期だ。(終)

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