千四百十四 自宅と職場近辺の話題(傘、100円ローソン、義父、酒、JMITU、25階)
庚子(仏歴2563/64年、西暦2020、ヒジュラ歴1441/42年)
一月二十四日(金)
天気予報の雨雲の動きでは、朝の出勤時に、家から駅までは降られないが、新宿駅から会社までは霧雨になりさうだ。それでも傘を持たないで家を出たのは、会社に傘が二本溜まったためだった。霧雨なら傘無しで大丈夫だらう。
ところが新宿駅に着くと、霧雨ではなく小雨が降ってゐる。そこで外に出るのが一番少ない経路を採った。これは二つ考へられるが、一つは外に出たあと混むから、走ることができない。もう一つは人通りが少ないから走れる。そこで後者を選択した。
新たな方法の発見があった。途中で外に出たあと、ガードの下は歩き、上が無い区間は走る。これで疲労を軽減させるとともに、上が無い区間を速く走れる。二番目に外に出たあとは、会社までガードがない。しかし途中のビルの入り口に屋根のあるところで少し立ち止まる方法も開発した。
会社到着後にインターネットで調べると、この時間の狭い地域に限って霧雨が小雨に変化した。
一月二十五日(土)
かつては一週間に三回くらい新大久保駅で降りて会社まで歩いた。しかし乗車を山手線から埼京線に変更したため、今ではすべて新宿駅で降りるやうになった。
それでも暫くはローソンストア100に寄るため、新宿駅で山手線に乗り換へて新大久保まで一つ戻った。今ではそれも無くなった。
会社でのお昼用に、魚の缶詰を買はうと思ひ立った。来週の月曜朝に新大久保駅で降りて立ち寄ることを最初は考へたが、自転車で蕨のローソンストア100に行くことにした。
途中に広い空き地がある。建物の解体が終って弦植物用の棚だけが残る。S院と云ふお寺と同じ敷地だ。四十年前から名前は聞いたことがあった。こんなに大きな寺だとは、知らなかった。
ローソンストア100ではイワシの蒲焼と塩焼きの缶詰を合計六個買った。ポイントが130近く溜まったのですべて使った。
帰りに再びS寺院の横に行くと、塀の網にW幼稚園とある。インターネットで調べると、S寺院と同じ敷地だが経営は別で2015年に三年後閉園を発表したさうだ。
一月二十六日(日)
金曜の夜に義父(妻の父)が来て二泊した。八十八歳だから、我が家へ来るのは最後かも知れない。先月南三陸町に行き、一ノ関で乗り換へた話をすると、それだと行き過ぎだと云ふ。一ノ関で乗り換へたのは帰りで、泊まったのは気仙沼だと説明した。
義父は千厩(今は一関市に合併)の出身でその後、仙台に移ったから、この地帯は詳しい。二十七年前に始めて会ったときは、云ふことの半分しか判らなかった。それは今でも同じだが。Wikipediaによると
イ段とウ段の母音は中舌母音[ï]・[ɯ̈]で発音される。このうち「し」対「す」、「ち」対「つ」およびその濁音「じ」対「ず」(「ぢ」対「づ」)は大半の地域で区別がなく、(中略)北奥羽方言では「し・ち・じ」に近い発音、南奥羽方言は「す・つ・ず」に近い発音になる。
義父はこの発音をする最後の世代だらう。ただし福島県の海岸地方を三十年くらい前に日帰り旅行したときに道を尋ねると、私と同じくらいの年代の人がこの発音だった。その後、福島第一原発の事故があり、集落は消滅してしまったことだらう。
---------------ここから「日本酒、その九」-------------
一月二十八日(火)
酒の酔ひが早く回るにはどうしたらよいか。早く回ると、飲む量が少なくて済む。仕事が終って、家で一杯飲んでほろ酔ひ加減で夕食を食べる。これが楽しみだ。
仏道の信者が守るべき五戒の一つに、不飲酒戒がある。釈尊の時代に果実酒は、おそらくアルコール分15%だ。だから焼酎をビール(5%弱)の更に半分(2.5%)に薄め、しかもほろ酔ひ加減に留めればぎりぎり合格かな。
さて、日本酒の出荷量は昭和四十八年の170万㎘がピークで、今は50万㎘に減った。だから文化の伝承で、2ヶ月ほど日本酒を飲んでみた。日本酒は14%くらいなので、日本酒を1杯飲んだらお湯を1杯飲んで、胃の中で7%に下げた。
ところが日本酒は、酔ひが回るのが遅い。お燗をすると早くなるが、それでも薄い焼酎より遅い。遅いと飲む量が増える。理由を考へた。(1)日本酒を1杯飲んだあとお湯を1杯飲んでも、胃の中で完全に混じらず、まだら状態になると吸収が遅いのではないか、(2)日本酒に含まれる糖分など他の成分が吸収を遅らせるのではないか。
本日ホームページを書いて思ひついた。日本酒のあと三杯飲まないと、2.5%にならない。
「日本酒、その八」へ
兼、「日本酒、その十」へ
---------------ここまで「日本酒、その九」-------------
一月三十日(木)
会社に行く途中のビルの前で、JMITUがビラを配布していた。3年に渡る争議で解雇を撤回し、和解したというものだ。さすが共産党系の労組だ。かうでなくてはならない。
ところがよく読むと、解雇は撤回したものの、合意退職した。3年間の賃金が支払はれ、それ以外におそらく解決金も支払はれるのだらうが、私のやうな事情を知らない部外者としては、職場復帰を勝ち取ってほしいと思ってしまふ。
突発性難聴やうつ病を発病したから、本人も会社にはゐたくなかったのかもしれない。JMITUは私の記憶と名称がすこし異なるので調べると、四年前に全日本金属情報機器労働組合(JMIU)と通信産業労働組合(通産労)が合併した。
JMIUは共産党系と認識してゐたが、全金が全民労協に加盟した後に分離し、委員長は中里忠仁さん、全労連と全労協に加盟したから、社会党左派系と共産党系の連立で発足した。後に全労協は脱退したから、社会党左派系は衰退したかな。中里さんを検索しても経歴が出て来ないから私の記憶で書くと、確か尼崎の鉄鋼会社の出身だと思ふ。
一月三十一日(金)
本日は二日ぶりに、歩いて25階から1階まで往復した。火曜のミャンマー語教室のときに、脚がつった。そのため水曜は歩くのを中止した。木曜は気温が高く、何となく歩くのを中止した。
思へば前に、マハーカルナさんの学習会に参加したときに足がつり、数日間中止したことがあった。
椅子以外の場所で、行儀よく座ると足がつるみたいだ。歩く最中や歩いたあとにつったことは一度もない。(終)
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