千三百八十六 日本の仏道関係者が今後すべきこと
己亥、西暦2019、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
十一月八日(金)
タイ、ミャンマー、ラオス、カンボジア、スリランカと、中国、ベトナム、バングラディシュの一部に広がる上座の仏道は、これまで繁栄したのだから従来の方法をこれからも続ければよい。気掛かりなのは、科学と経済の発達による圧迫と、それへの対応として科学と矛盾する部分を切り捨てたことがどう影響するかだ。
しかしこれらの国々は、それほど心配してゐない。心配なのは日本だ。明治維新の時に、神仏分離、僧侶妻帯をしてしまった。
僧侶妻帯の悪い理由は、自分と家族の生活を考へないといけない。だから仏道に集中できないし、金銭への執着が生まれる。
上座の仏道では、新月と満月の日に布薩(ウポーサタ)を行ふ。具足戒に違反しなかったかを確認する儀式だ。戒壇(シーマホール)の中で行はれる。布薩に、瞑想の進捗や経典の学習(かつて口述だった時代は暗記具合)ではなく、具足戒を確かめるところに、信者は注目する必要がある。
日本以外は、ほとんどの大乗国でも具足戒を守る。そして比丘には神通力がある。つまり具足戒を守ることで神通力があると、上座の信徒も大乗の信徒も知ってゐる。
具足戒のない比丘は、准比丘として経典や瞑想の指導と寺務を行ふ。各宗派は二十年計画で比丘の比率を高める。これが必要だ。なを比叡山とそこで宗祖が学んだ各派は、具足戒を持たない。これは大乗戒を保つことで上座を越えると考へたものだ。実際にそれができなかったことは歴史が証明するが、大乗戒を保つことで上座戒を越え妻帯を停止すべきだ。

十一月九日(土)
日本には、説一切有部など各派の漢文の経典が残り、これまでも研究されてきた。そこに上座のパーリ語経典が加はったため、見方によっては世界で一番研究が進んだ国と云へる。
まづ、この研究成果を上座の国に還元することで、役立つ情報を生むことがあるだらう。上座の国は、三蔵と注釈書の研究に閉じこもるやうに、外国からは見える。一方でマハーシ、マハタート、パオなど世界中から支持される瞑想も生む。
各派の漢文の経典と上座の知識を混合し、出て来た結果が上座の国では役立たなくても、日本など大乗の国では役立つだらう。

十一月十日(日)
上座が大乗を批判する古文書は、ほとんど見つからないさうだ。これは現在の上座の比丘も同じで、大乗を批判する比丘は、ほとんどいらっしゃらない。
上座が大乗を批判しない理由は、他の宗派を批判すると瞋りの気持ちが含まれがちだ。いくら学術の上から批判したと言っても、そこには含まれてしまふ。
また正統派を自任するから、いちいち批判しない。日本以外では大乗も、具足戒を保つと云ふ理由があるだらう。
これは上座側の美点だが、それをいいことに日本では小乗仏教などと悪口を云ったり、一旦は上座で出家した人が、ブッダになっただとか、上座と大乗の両方を越えただとか、LGBTを騒いで上座と社会の両方を破壊しようとするなど、悪質なものが多い。だから当ホームページでは、これらを批判したが、これは本人たちのためでもある。このまま放置したら、死後にその罪悪は重大だ。
日本で上座を批判する人にありがちな誤解として、初禅、二禅、三禅、四禅の内容から、上座は他人のことを考へない冷淡な人間を目指す、と考へてしまふことだ。
初禅、二禅、三禅、四禅は、戒定慧のうち、定についての修行だ。実際には戒と慧で、他人への慈悲を身に付ける。
もう一つ、上座に不浄観があると批判しがちだ。しかし不浄観は大乗にもある。天台大師の著作にもある。

十一月十六日(土)
信仰心のない人が、瞑想をしてはいけない。マハーシ瞑想は、一つ一つの行動を意識するものだから、信仰心のない人がやると、感覚を鋭くする訓練になるだけで、それ以外の効果はない。逆に副作用が心配だ。
ミャンマーにマハーシ瞑想が流行しても問題が起きないのは、上座部の仏道が人々の心に染み込んでゐるからだ。パオ瞑想も同じで、呼吸に集中することは、心を落ち着ける訓練にはなっても、信仰心のない人がやるとそれ以上の効果がない。それなのに光が見えたなどと先に進むから、後で慢心を起こす。
在家にとって大切なことは、お寺に行くことだ。比丘の法話を聴くことだ。その上で、瞑想を教へる比丘がゐるから参加してみたいと思ふなら、それはいいことだ。
だから私の場合は、上座と出会って二十五年を経過するが、今までずっと「止」の瞑想だった。マハーシの瞑想法を三回(スマナサーラ長老、ウィセッタサヤドー、チンナワンソ比丘からそれぞれ一日)習ったがすぐにやらなくなった。デジタル思考(言葉にできる思考)では、合はないとはまったく思はなかったが、アナログ思考(感覚の思考)では、合はないと思ったのだらう。
パオの瞑想は、クムダサヤドーの一日瞑想会に四回(うち一回は最初だけ聞いて抜けようと思ったところ、怪しげな宗派の人間が変な質問を繰り返すので心配になって最後まで参加した)と、中国人比丘の一日瞑想会に二回(うち一回は参加者が少ないといけないので参加した)だけだ。しかしパオの呼吸に集中する瞑想は今でも実行してゐる。
最近になって「観」の瞑想に感心を持つやうになった。経典学習会で大念処経を学んだ効果が現れた。と同時に、「止」から「観」に進むのに、日本人だと二十五年くらいかかるのだらう。
ミャンマーの人たちは、幼児のときから上座に親しんで育つ。だから二十歳で出家しても、それまでの信仰心があるし、在家として瞑想会に参加しても、子供のときからの信仰心が生きる。
日本人の場合は、大乗に親しんで来たと言っても、お賽銭を上げればご利益がある、程度だから信仰心があるとは云へない。カゼ薬を飲めばカゼが治ると考へるのと変はらない。

十一月二十四日(日)
最近「原理主義」と云ふ言葉をよく使ふやうになった。途中の伝統を無視して、大昔に帰らうとすることだ。使ひ始めた理由は、次の四つを見たためだった。
(1)明治維新で吉田松陰など一流志士が亡くなったあと、三流、四流権力者による神仏分離、廃仏毀釈、僧侶妻帯
(2)XX会が所属した宗派では管長が絶対化してしまひ、蓮華寺など二ヶ寺離脱、妙信講破門、正信会僧籍剥奪、XX会破門と事件が続発
(3)プロテスタントの発生と、産業革命による地球破壊
(4)上記(3)の対抗として、イスラム原理主義の発生
子供の時から上座とともに育った人が、瞑想に参加するのは悪いことではない。しかし日本のやうに大乗が形骸化した国で、市井や農村のお寺にお参りすることなく瞑想に参加すると、原理主義になりがちだ。
お寺にお参りすることの意義に気付いたのは、最近のことだ。「観」の瞑想に興味を持ち始めたのも、最近のことだ。上座と出会って二十五年。このくらい掛かるのだらう。
毎月の経典学習会は、お寺にお参りするよい機会だ。ミャンマーから瞑想指導サヤドーやサヤレーが来られたときの参加者は多いが、毎月の経典学習会は少ない。お寺にもお参りしてほしい。(終)

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