千二百六十九 1.台湾祭2019(列が長く入場しなかった)、2.虎ノ門5丁目、芝公園、東京駅丸の内側、小川町から神保町、3.救世軍と「星の界」
平成三十一己亥年
二月十日(日)東京タワー駐車場の台湾祭2019
昨日から明日まで、東京タワー駐車場で「台湾祭2019」が開かれる。私も本日出かけた。寄らば大樹の陰と云ふ諺があるが、私はどうもその反対のやうだ。だからアメリカに対抗する中国は応援したくなるが、その中国と対抗する台湾も応援したくなる。だから台湾祭に出掛けることは、ごく自然のことだった。一番よいのは中国と台湾が交流を続けることだ。午前十一時の開場なので、十一時過ぎに到着して驚いた。行列がつづら折りになってゐる。プラカードを持つ女性に質問したところ一時間から二時間待ちだ。アクセントから台湾出身だらう。入場せずそのまま芝公園に抜けた。

二月十日(日)その二虎ノ門5丁目と芝公園
東京タワーまでは、地下鉄の六本木一丁目から歩いた。もともと東京タワーや増上寺に行くには地下鉄の神谷町で降りることが多いが、昨年夏に引っ越したので、乗り換へが便利な六本木一丁目で降りてみた。
神谷町に出るまでの前半はビルや高級マンションの街だ。後半は木造の家やアパートの並ぶ伝統的な街だ。ところが各家に取り壊しの貼り紙がある。どうやら前半と同じ街になってしまふやうだ。神谷町の通りに出ても、低層階建てビルに移転の貼り紙が並ぶ。神谷町の通りを入口にビルを建てるみたいだ。

東京タワーを出発ののちは、芝公園に行った。梅の花が咲き始めてゐた。隣の神社はかつて増上寺の境内社だった。家光御手植への大木がある。出たあと日比谷通りを歩いて考へた。幾つも門がある。小学校低学年のときに都電37系統に乗り、門が後に過ぎるとまた門が前から現れ後ろに消える。このうち二つの門はその内側に一般の建物が建つ。徳川墓地が民間に売却されたためだ。

二月十一日(月)東京駅八重洲側
イワタニ産業ビルの周りを一周した。かつてFACOMビルがあった場所だが、思ったより狭い敷地だ。途中で一本東のとおりに移り更に歩くと東京駅からの御幸通りがある。この通りを少し歩いてあとは地下道に行った。ビル風が強くて寒いからだ。地下街は広いだけで洗練されてゐない。完成したばかりとは云へ、JR東日本関係者は洗練能力に欠けるのではないか。高輪ゲートウェイがいい例だ。
地下道を大手町まで行き、外に出た。三階までの柱がかつてあった逓信総合博物館に似た建物がある。暫く行ったあと戻ると、やはり跡地に建てたビルだった。このビルは中がよくない。開業して数か月と云ふ事情はあらう。しかし内部がやたらと広くがらんとしてゐる。日曜にも営業してゐる店を外から眺めると、値段が高い。
入居するのは郵政系、NTT系、そして民間。(1)役所の意識が残ると洗練されず大きな建物になるのか。或いは(2)大手町は西新宿と異なり、大規模なものが流行なのか。或いは(3)平日だと賑はふのか。昨日は(1)だと思ったが、(3)なら幸いである。
芝公園を歩いたときは、新橋から地下鉄に乘らうと思った。西新橋に着いたときは、往復で243円(土日券なので1700円/14を2枚)消費するにしては歩き足りないとばかり東京駅まで来た。この先、八重洲側に回って銀座通りを歩き新橋に戻らうとも思ったが、そのまま丸の内センタービルの横から地上に出た。新宿センタービルを別のビルと間違へたのは、センタービルの記憶を丸の内に引っ張られたためだった。


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二月十一日(月)その二神田の本屋街
淡路町、小川町を通り、その間にウェルシアで昼食(ハムと野菜のサンドイッチ、ピーナツコッペが20円引き、日本酒カップ100円。私は昼間は酒を飲まないがあまりに寒いので体を温めるため)を買ひ、店内の食事コーナーで食べた。交差点で聴いたことのある心地よい旋律が聴こえる。信号が青になるころ「星の界(よ)」だと気付いた。交差点を渡り終へると演奏は終り、救世軍の建物の前で女性が体験発表をしてゐた。歌詞が「星の界」と違ふので周りで写真を撮るスタッフに質問しようとも思ったが、インターネットで調べれば判ることだ。
神田の本屋街はずいぶん店が少なくなった。それでも靖国通りの左側は店がまだ残ってゐる。神保町から池袋まで地下鉄に乗り帰宅した。本日になり、インターネットで調べると「讃美歌312番いつくしみふかき」。歌詞は「いつくしみふかき ともなるイエスは」で始まる。私は全ての宗教は瞑想方法の違ひで、本質は同じとの立場だ。しかしこれだと、上座仏道の目的は瞑想だから、上座仏道は全然譲歩しないではないかと云はれさうだ。上座仏道の目的は涅槃であり輪廻の停止だ。瞑想は目的ではない。瞑想、祈り、儀式。これらは同じものだ。すべての宗教は統一が可能だ。(終)

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