千二百四十三 ミャンマー経典学習会(ダンマパダ)
平成三十戊戌
十二月十日(月)
日曜のミャンマー経典学習会は、トゥ・ミンガラ比丘によるダンマパダ(法句経)の90「ジーバカの質問」と92「ベラタシッサ長老の物語」だった。
「ジーバカの質問」では、デーヴァダッタが霊鷲山の山頂から岩を落としてブッダを殺害しようとした。岩の破片がブッダに当たり、ブッダの指から血が流れた。
名医のジーバカが手当てをして、約束をした時刻に包帯を替へるはずだったが、遅れて市内への門を入れなかった。翌朝駆けつけると、ブッダの傷は治ってゐた。
憂ひを離れ、束縛を脱した人には、痛みや苦しみはない。その偈を聴いて、多くの人が預流果になった。

「ベラタシッサ長老の物語」では、ベラタシッサ長老が托鉢の途中で食べ、さらに托鉢したものを乾燥させ、数日間はそれを水に浸して食べ、空いた時間を瞑想に使った。
ブッダは新たに食べ物を蓄へることを禁止する戒を作るとともに、ベラタシッサ長老に悪意はないので罪はないと述べた。 財を蓄へず、食物の本性を知り、解脱の境地が空で無想なら、彼らの行く道は、凡夫には知り難い。

十二月十一日(火)
質問で、涅槃のときに魂(質問者がパーリ語の単語を使ったので、それに類する単語かも知れない)が残ると云ふ回答があり、終了後のお茶会で話題になった。
私の意見は、どちらでも正しいと思ふ。まづ、魂が残ったのでは、いづれ再び六道を輪廻する。だから、消滅するとするのは正しい。一方で、消滅するよりはしないはうを好む人もあり、これは極楽に行けるとする考へ方だ。涅槃なのだから、有る無しを超越したものだ。
以上の考へは、このページを書くためにまとめたものでお茶会のときは、瞑想の方法として性格により合ふはうを採用すればよいと思った。涅槃すればすべてが消滅すると考へて瞑想することが合ふ人は、さう考へればよい。涅槃しても残ると考へて瞑想することが合ふ人は、さう考へればよい。縁起で我が生まれたとする思想がある。これが仏道の根本だとすることもできるが、我への執着を無くすための瞑想の方法と考へてもよい。
お茶会では、春雨のうどんを頂いた。本日の施主はマンダレー出身で、ヤンゴンでは魚を用ゐるのでうどんだが、マンダレーは鶏を用ゐるので春雨を使ふと説明して頂いた。
今回は経典学習会の参加者が12名と多かった。小さな女の子を連れたお母さんもゐた。お茶会には参加されず帰られた。(終)

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