千二百三十八 ひろさちやの邪論を批判
平成三十戊戌
十二月一日(土)
ひろさちやの主張は邪悪だ。前にも批判しようと思ったが、佼成出版の書籍だった。佼成図書館は、立正佼成会の会員以外も利用できる。だからその温情に報いて佼成出版の批判は避けた。
しかし春秋社から出版されたひろさちやの「仏教の歴史2 仏陀なき仏教 小乗仏教の世界」は、悪質が過ぎる。初版は1986年だが新装版は2000年だ。1989年に竹田倫子さんがスマナサーラ長老とともに活動を始めてから十一年。その後、スマナサーラ長老は竹田さんとは別の団体に移り、別の団体も会長の鈴木一生さんが独立し、団体はどんどん増加した。日本に上座部がないのならともかく、いろいろな団体が活動をしてゐるのに、こんな本を新装するとは失礼だ。小乗仏教の語を、原始仏教或いは部派仏教と直せば済む話だ。こんな簡単な作業ができないのはひろさちやが悪い。
小乗仏教--というのは、大乗仏教に対抗する仏教である。(中略)新しく興起した大乗仏教が、既存の仏教を「小乗仏教」と貶称したのである。既存の仏教は出家者だけの救いをしか説かないから、「小さく」「劣った」仏教だというのである。

まづ上座部は、大乗と対抗はしてゐない。判り易い例を挙げれば、電気炊飯器があるのならわざわざ薪でご飯を炊いたりはしない。だからと言って、薪でご飯を炊く人に対抗はしない。同じやうにブッダの時代から続く戒律や経典や伝統があるのに、わざわざ異なる方法を用ゐない。しかし対抗はしてゐない。
次に、日本以外では大乗仏法の僧は、具足戒を受けた上に菩薩戒を受ける。伝教大師は比叡山を建立したときに、菩薩戒のみとしたが、これは形式を捨てても実態を保てば大丈夫だと考へたのだらう。しかしその後の僧兵や比叡山の堕落を考へれば、具足戒を捨てた伝教大師は誤りだったことになる。明治維新以降の妻帯と大正昭和初期以降の世襲も未解決だ。
日本以外では、大乗仏法の僧は具足戒を受けるから、上座部と共通項を持つ。だから昭和二十五(1950)年に第一回世界仏教徒会議がコロンボで開催され、小乗仏教の語は使用しないことになった。
次にひろさちやは「出家者だけの救いをしか説かない」と云ふが、タイやミャンマーでは一時出家で比丘と信者の交流がある。信者は比丘を支へるし、困ったことは比丘に相談するし、お寺は地域交流の役割を果たす。タイやミャンマーの社会で比丘と信者の調和は見事だ。
ひろさちやが悪質なのは
”小乗仏教”の呼称は貶称である。あまり使わないほうがよさそうだ。(中略)けれども、わたしはあえて”小乗仏教”の呼び名を使用する。

中村元さんが小乗仏教の語を使っても、若いときからその語を用ゐてきたから、仕方のないことだ。中村元さんは仏道に対し深い信仰心があった。それに対してひろさちやは一体何だ。 平成十二(2000)年の読売オンラインによると
宗教評論家で作家、ひろさちや=本名・増原良彦=さん(64)の東京都内の自宅から、現金一億七千万円が盗まれていたことが二十二日わかった。
警視庁駒込署の調べによると、今月十九日昼前、ひろさんが文京区千駄木四のマンション十四階にある自宅に帰宅すると、玄関がバールでこじ開けられ、室内の金庫から現金が盗まれていた。金庫わきに置いてあった数千万円相当の金の延べ棒は無事だった。

この事件を今でも覚えてゐる理由は、私は昔、千駄木の隣町に住んでゐた。もしひろさちやが別の場所に住んだのなら、この事件は忘れてしまっただらう。
それにしても、「小乗仏教」が貶称だと判ってゐながらあへて使ふことと云ひ、二億円前後を自宅に隠し持つことと云ひ、驚くことばかりだ。
大金を自宅に置いて何が悪いと云ふかも知れない。仏像は置くべき場所に置くべきで、信仰心の無い人や、文化財の価値の判らない人のところに置いてはいけない。同じやうに大金は預ける場所に預けるべきで、自宅に置くと脱税、犯罪、本人の精神堕落の原因になる。

十二月一日(土)その二
小乗仏教の語は蔑称なので、今後はSと略す。
Sにおいては、釈尊は基本的に「人間」と見られている。(中略)かくて、釈尊の死は、Sにおいてはきわめて当然のこととして受け取られる。/しかし、それだけではない。/やはり釈尊は、普通の人間ではない。(中略)Sの人々も、そのように考えた。そう考えただろうと、わたしは推理している。

釈尊が亡くなったときに、周囲の人々は釈尊と間近に接してきた人たちだった。当然、釈尊を人間と考へる。数百年を経過すると、釈尊は神格化される。日本だって徳川家康を間近に見た人々は、タヌキ親爺と思っただらうが、後世の人は東照神君と呼んだ。 ひろさちやが、上座部は人間と見るのに、大乗は人間と見ないと云ふのであれば、本来は上座部が正しいことの証明にしかならない。
で、そのように考えると、八十歳で入滅された釈尊の死は、あまりにも早かった--ということになる。(中略)、次には、きっと誰かがへまをやらかしたにちがいない--という、「責任論」が出てくる。(中略)かわいそうに、その責任を負わされたのがアーナンダであった。

これはずいぶん低級だ。今から五十年前でさへ六十歳代後半で亡くなる人は長寿だった。二千五百年前に八十歳で亡くなれば、極めて長寿だ。

十二月一日(土)その三
じつは、在家信者たちは、釈尊の死を境にして、仏教の教団から離れてしまったのだ。
もしさうなら大変なことだ。ところがすぐ次の行で
もっとも、「離れた」といっても、完全に絶縁したわけではない。仏教教団の修行僧(比丘、比丘尼)が托鉢にやってくれば、彼らは喜んで布施をした。ときには、長老をわが家に招いて、鄭重なる供養をする信者もいた。

つまり釈尊在世のときと、変はるところはない。それはこの直後でひろさちやも認めるものの
精神的な意味での在家信者と仏教教団との紐帯は、だいぶ疎遠になってしまったようである。

と何の根拠も示さず主張する。この書き方は悪質だ。判り易い例を挙げると「精神的な意味で、ひろさちやは仏法とは無縁だ」「精神的な意味で、ひろさちやの主張は悪質だ」と言ってよいのか。
それに、仏教教団には、釈尊に代わるカリスマ的な人物がいなかった。

釈尊が入滅ののちも、カリスマ無しで仏法は長く続き、現在に至る。特に上座部はその国々で圧倒的に支持されてゐる。その点、大乗は社会の一部に留まる。その違ひを考察し、大乗の国々でも仏道が社会の中心になる方法を探すことこそ、必要なのではないのか。
このあとも、ひろさちやの偏向した主張は延々と続く。これ以上は時間の無駄だから無視する。(終)

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