千百八十一 「小乗仏教」なる語を用ゐる人間(例、ひろさちや)は劣悪だ
平成三十戊戌
八月十二日(日)
小乗仏教と云ふ呼び方は蔑称だ。だから昭和二十五(1950)年に第一回世界仏教徒会議がコロンボで開催され、小乗仏教は使用しないことになった。それから六十八年を経過するのに、いまだにこの蔑称を用ゐる人間がゐる。例へばひろさちやだ。
ひろさちやは佼成出版から出版された本で、X経が優れて小乗仏教が劣ると云ふ俗悪な説を延々と繰り返した。読む価値がまったくないから書籍は少し読んだだけで返却した。しかしひろさちやは悪質だ。そこでひろさちやと、場合によっては佼成出版まで批判することにした。場合によっては、と書いたのは、ひろさちやが佼成出版だから小乗仏教と呼んだのか、それともこの男はあちこちで同じことを繰り返すのか。それを見極める必要がある。
なほひろさちやを批判するのは本人のためだ。このままだとひろさちやは大変な業を背に負ふことになる。批判することで生前にその罪滅ぼしをさせれば、本人のためになる。

八月十三日(月)
小乗仏教の語は、説一切有部のことを指したとする説があり、これは一理ある。説一切有部は大宗派だから、サンガの財産も多いだらうし、堕落もあったことだらう。
しかし現在ではどこを指したのか、或いは部派仏教全体を指したのかそれは判らない。大乗仏教にも真面目な宗派もあれば、さうではない宗派もある。ひとまとめにして堕落仏教なんて呼んだら、ほとんどの宗派は不愉快だらう。同種のことをひろさちやは言ってゐる。

八月十四日(火)
日本国内に、小乗戒と云ふ語を使ふ人はある程度ゐる。伝教大師が新たに始めた受戒に対し、それまでの戒律のことだから、伝統戒や従来戒と呼べばいいではないか。或いは鑑真によって伝へられたから鑑真戒でもよい。
小乗戒の語より悪質なのが、小乗仏教だ。小乗戒だって蔑称だが、学術用語みたいだから(実際は学術用語でも何でもないのだが)、まだ許容できる。小乗仏教は蔑視そのものだ。
仏教の語より、仏法のほうがよい。仏教だとXX教、イスラム教などと同列になる。仏法だと、XX教徒、イスラム教徒が同時に信仰することも可能だ。
小乗仏法と云ふ語があるだらうか。小乗仏教の語はあっても、小乗仏法はない。蔑称を使はせないためにも、今後、仏法を使はうではないか。仏道と云ふ言ひ方もある。

八月十八日(土)
かつて佼成図書館によく通ったことを思ひ出した。だから佼成出版を批判することは取りやめることにした。大乗仏教の非仏説をごまかすため、部派仏教や上座部仏教を筋違ひに貶める二冊の本を見て、私も一時は不満を募らせたが、貪瞋痴の三毒に侵されてはいけないと気付いた。(終)

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