千百七十三 西和彦さんと東京大学を批判
平成三十戊戌
八月一日(水)
かつて株式会社アスキーと云ふ企業があり、西和彦さんがその中心者だった。事業破綻したときに西さんへの評判は極めて悪く「高校生が成長せずそのまま社長になってしまった」と云ふものさへあった。
私は次の三つから、西和彦さんへの批判は当然と受け止めた。
(1)マイクロソフトの権威を利用したMSXパソコンを世間は押し付けと感じ、しかも失敗した
(2)マイクロソフト社と決別したときに、マイクロソフト日本法人社長に引き抜かれたアスキーの取締役を兼職のまま出向と発表したその世間体を気にする体質
(3)アスキーの共同経営者だった郡司明郎さんと塚本慶一郎さんの退社

それなのにその西さんが、Diamond Onlineでかつての仲間たちを批判し
私の反省もそこにある。何よりも温かく、甘かった。(中略)お人好しの“馬鹿殿様”だったのだ。

馬鹿は当たってゐるかも知れないし謙遜かも知れない。しかし共同経営者2名を追ひ出したことを考へれば、温かく甘かった訳ではない。そして今は、東京大学工学系研究科IoTメディアラボラトリーディレクターを名乗る。ほとんどの読者はアスキー時代の話に期待するのであって、どこかの大学のコネクターだかディレクターだかの肩書に興味はない。とはいへ国民の税金を使ふ以上は、成果を出すことを期待したい。

八月三日(金)
西さんはBASICと云ふパソコン用小型言語を日本で販売し、アスキーとマイクロソフトは蜜月時代になった。ところが
別れは突然やってきた。私はマイクロソフトを“クビ”になったのだ。
理由は、「ソフトだけでなく、ハードでも手を打っておかなければならない」と、マイクロソフト自身による半導体開発を主張する私と、インテルやモトローラなど半導体メーカーとの関係を重視して「ソフト屋はソフト屋、餅屋は餅屋でいるべき」とするビルらとの路線対立だった。

これはビルが正しいと思ふ。インテルのCPUは電卓用の4ビットチップを8ビット、16ビットに拡大したもので、アドレッシングモードが貧弱だ。セグメントと云ふ制約もある。それに対しモトローラのMPU(モトローラはCPUをMPUと称した)は、大型コンピュータのCPUをチップ化したもので、アドレッシングモードが豊富だ。セグメントもない。それなのにインテルが圧勝した。
勝因はインテルが旧来からの互換を重視したためだった。バイナリのプログラムがそのまま動いたり、アセンブリ言語が上位互換なのは便利だ。モトローラだと6809のアセンブリを熟知した人でも、新たに68000ではアセンブリを勉強し直さなくてはならなかった。
二大メーカのうちの一方でさへ淘汰される。マイクロソフトが半導体に進出しても淘汰されるのは目に見えてゐた。マイクロソフトが対抗してOSを自社のCPUでしか動かない仕様にすれば、OSまで敗北しただらう。
あと当時はRISCが有望視された。オフコンではRISCのCPUを搭載した機種が出現した。しかしマイクロソフトがサーバ用のWindowsNTを開発すると、オフコン自体が消滅した。あのとき半導体に進出しなかったのは正解だった。

八月四日(土)
私は、ビルから何度も「半導体は止めてマイクロソフトの仕事をしてくれ」と懇願された。あるときには、「もっと(マイクロソフトの)株をやるから」とも言われたが、私は「イエス」とは言わなかった。あのとき、株をもらっていたら時価で7000億円ぐらいにはなっていただろう。
7000億円の資産を持つ人が、皆さんのやうな多数のよい友人に支へられて事業が成功しました、と語るなら好感を持つ。しかし西さんの7000億円は砂上の楼閣だ。
それは西さんが半導体にばかり注力するから、ビルが「もっと(マイクロソフトの)株をやるから」とまで言った。普通は「そこまでビルが云ふのなら、株は要らないから半導体は止めるよ」と答へる。もし株を貰ったら、いづれビルと不仲になっただらう。
マイクロソフト時代には、(中略)一方で、仕事ができる人をやっかみ、足を引っ張り、邪魔な人間を排斥するためにはどんな手も使う“政治に満ちた米国の経営”にはうんざりだった。日系人グループの日本人に対する差別などは、あまりにひどすぎる悲しいまでの思い出だ。

私は八ヶ月アメリカで仕事をしたが、日系人はいい人が多い。今までに悪い日系人に会ったことがない。尤もアメリカに留学した人で、日本人をだます悪い日本人がゐる話は聞いたことがある。
中国系アメリカ人やタイ系アメリカ人もいい人たちばかりだった。世の中は、鏡と同じで、その人次第で極楽にもなれば、地獄にもなる。尤もこちらが友好的に接しても敵対的な態度の人はゐる。さういふ人には近づかないのがよい。

八月四日(土)その二
このあとアスキーは、共同経営者二名の退社、ゲーム事業部門の役員と社員60人の造反が続く。ゲーム事業部門はアクセラと云ふ会社を作り独立するが
成功がおぼつかないのがIT世界の怖さ。(中略)アクセラは結局、70億円の赤字を出して破産し、社長の小島氏もストレスとアルコールでがんになって亡くなった。

西さんを批判しなければと思ったのは、この一文だ。造反と亡くなったことは無関係だ。
アクセラ事件を契機に、日本興業銀行から「社長専任体制から、集団指導体制に切り替えるように」という指導があった。それに従って、アスキーはカンパニー制を導入する。(中略)偶然、ソニーの大賀典雄会長(当時)とお会いする機会があった。「西君、カンパニー制は難しいぞ。下手をすると会社が潰れるよ。君が好きにやればいいのに…。もっと自分の判断に自信をもちなさい」と言われた。そのときはあまり気にしなかったのだが、次第に大賀さんの言葉の重みをかみしめさせられることになる。

これは少し嫌な文章だ。まづソニーの大賀さんは有名人だから、言及すると自身の大物化を図ってしまふ。「君が好きにやればいいのに」の引用は我田引水だ。「カンパニー制は難しいぞ」は時と場合による。今でもカンパニー制の会社は多いし、持ち株会社の解禁でカンパニー制を更に発展させて別会社にしたところが多い。
この文章を読むと、興銀が一番悪い。しかし興銀は集団指導体制を指導しただけでカンパニー制にしろとは言ってゐない。西さんは社長兼システム部門の最高責任者なのだから、すべての責任がある。それなのに
大賀さんの予言通り、カンパニー制の導入によって、社長である私は各カンパニーのことがまったく把握できなくなっていった。そして銀行からも、「銀行自身にも体力がなく、もうオタクにはお金は貸せません。第三者割当で増資してください」と通告され、“ガバナンスの不在”を突きつけられた。


八月八日(水)
人間には、社会に役立つ人と、社会の資産を浪費する人がゐる。西さんはマイクロソフトで半導体にのめり込み、ビル・ゲイツと別れたあとも同じことを繰り返した。
事業の拡大や投資は、郡司さんや塚本さんとの溝をどんどん深めていくことになり、(中略)米国の半導体企業ネクスジェンマイクロシステムへの投資が、訣別のトリガーになる。(中略)私は毎月1億円くらいを送金するまでにのめり込んでいた。アスキーの利益すべてを送金しているようなものだった。

銀行から融資を打ち切られたときは
助けを求めたのがCSKの大川さんだった。大川さんには、アスキーの上場間もない頃に国際線の機内で声を掛けられて以来、可愛がっていただいていた。事情を説明すると大川さんは、「しゃないな、出したるわ」と、セガとともに100億円出資することを決めてくれた。(中略)アスキーの社長を辞任した私は、取締役とはいえ無役で、大川さんのカバン持ちのような仕事をこなす日々だった。人生で初めての秘書的な仕事で、特命事項の処理に奔走する日々は、それはそれで楽しかった。

大川さんのカバン持ちで功績を残せなかった。100億円出資してもらひ、更にカバン持ちとして給料をもらふ。西さんは、周囲のカネを浪費するだけだった。どこかの大学のトラクターだかディレクターに就いても、浪費するだけかも知れない。さうではないことを期待したい。(終)

西さんからは、その後回答がありました。

(東京大学批判その二十二)(東京大学批判その二十四)

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