千百五十三 初めて大使館の敷地に入った(ミャンマー大使館、朗読劇「ビルマの竪琴」鑑賞記)
平成三十戊戌
六月十六日(土)
昨日の夕方、ミャンマー大使館で朗読劇「ビルマの竪琴」があり、鑑賞に行った。大使館だから入口で氏名のチェックを行ひ、中の受付で再度氏名をチェックする。名刺を持ってくるやう指示があったので、私は個人の名刺にミャンマー寺院名信徒と書いて渡した。申し込むとき、団体名を記入する欄があり、個人の人は個人と記入する。私はミャンマー寺院名を記入し、役職のところは「一般」と書いた。念のためパスポートも持参したが使ふ必要はなかった。
今まで、どの国の大使館にも入館したことがない。ビザの手続きで、アメリカ大使館、フィリピン大使館、オーストラリア大使館には行ったことがある。しかし領事部の窓口で誰でも入れる場所だ。それに対し一般人の入れない場所は日本国内だが日本の警察権が及ばない。考へてみると緊張する場所だ。
私は一般席の最前列だったので、すぐ前と通路を隔てた隣は関係者席だ。始まるまでの間、関係者席のあの人はどんな立場だらう、などと考へながら過ごした。夫婦で来られ奥さんも社交的な方は、元大使夫妻だらう。夫婦でパーティーなどに出席するから社交的になる。
私がコンピュータ専門学校に勤務してゐたとき、事務員で入った男性は元外務省臨時職員だった。外国の日本大使館に勤務したらしく、大使は大変な権力を持つし、奥さんもいばってゐたと述懐してゐた。私の父が大東亜省(と云ふ役所が昔はあった)の留学生だったときの仲間二人が上海総領事とグアテマラ大使になった話をすると、総領事になる手があるのかと驚いてゐた。その臨時職員は大使館勤務だったので、大使にならない人は定年までいばる人の下働きだと思ったらしい。
父は、グアテマラ大使になった友人が試験を受けず昇進したと思ったが、本人に訊いたら外務省内で外交官試験に合格したさうだ。試験に合格しないと大使になれないし、省内で合格した場合は小さな国でそれも日本から一番遠い地域の大使にしかなれない。戦前の日本は軍部が硬直した人事のため滅んだが、その他の役所は今でも同じではないか。これは勤務量と報酬の不均衡が原因と考へることができる。勤務量と報酬が均衡なら、どんな人事でも不満はでないから、合格者以外を大使にすることもできる。
そんなことを考へるうちに、開演の時刻となった。

六月十七日(日)
駐日ミャンマー大使は、日本語で話された。心配さうに「わかりますか?」と会場に訊いたりしたが、会場からは暖かい拍手が起きた。私も大きく拍手を続けた。大使の熱意と努力は大いに称賛すべきだ。ミャンマーは仏教の国と云ふお話もあった。
次に進行役から竪琴の説明があった。インド東部から5世紀に伝へられた。13乃至16本の弦。昔は絹だったが今はナイロン。しかし今でも絹を使ふ奏者もゐる。音合はせは、昔は紐で縛って行ったが今は装置が付いてゐる。
以上の説明のあと、歌劇制作者伊藤弦二郎さんの説明があった。原作者の竹山道雄さんに直接話を伺ったさうだ。竹山さんは日本と中国を舞台に考へた。しかし共通の歌がない。古本屋でビルマの写真集を見つけ、美しい竪琴が載ってゐるのでビルマを舞台にした。間違ひとして、僧が楽器を弾くのは戒律違反だし、僧は尊敬されてゐるから裸足では歩かない。
以上の説明があった。会場には竹山さんの娘夫婦も来られてゐた。

六月十八日(月)
僧が楽器で楽しむのは戒律違反だが、子供に教へたり、懐かしさのあまりつられて弾くのはぎりぎり大丈夫ではないだらうか。裸足は問題ないと思ふ。僧は質素な生活で修業を続けるから、信徒から尊敬される。昨日ミャンマー寺院に行ったとき、女性信徒が裸足のまま外に出て行った(数軒先のミャンマー食材店に買ひ物か)から、尚のこと問題は無い。
それより、水島上等兵が僧の衣を盗んでニセ僧侶として旅するところが引っ掛かる。ニセ僧侶だから楽器を弾いても問題ないが、正式な比丘となってから旅してほしかった。

六月二十一日(木)
第二次世界大戦は
(1)ヨーロッパ戦線
(2)中国
(3)東南アジア
で性質が異なる。(3)の東南アジアでは、英米仏蘭日の帝国主義国どうしが植民地を巻き込んで醜い植民地争奪戦を行なった。
東南アジアの人たちは宗主国への独立運動で、投獄や処刑される者も出てゐた。そこに日本軍が進出したから
(イ)インドネシアのやうに日本とともに宗主国に反抗し、戦後も親日
(ロ)ミャンマーのやうに日本の協力で宗主国と戦ったが、日本の敗戦が濃くなると宗主国側に寝返った
(ハ)マレーシアのやうに住民は中立
(ニ)シンガポールは華僑が多く、国民党や中国共産党の影響で反日
の四つに分類できる。
ここで(ロ)のミャンマーがイギリスに寝返ったことは、日本も理解しなくてはいけない。あのまま日本側に付いてイギリスと戦闘を続けたら、終戦後にイギリス軍が戻ってきて、全員死刑だらう。
ミャンマーは戦後独立したものの、ウーヌーの仏教政権が国内に混乱をもたらし、ネウィンが軍事クーデターを起こした。ネウィンは日本軍が訓練し高杉晋と云ふ日本名まで持つ。そのため欧米がミャンマーに経済制裁を始めても、日本はミャンマーに経済援助を続けた。
26年間の長期政権の後にネウィンは引退を与儀なくされ、その後軍事クーデターが起きた。日本でも戦後に成人した人が多くなった。そのため日本とミャンマーは疎遠になった。
因みに昭和天皇は、東南アジアの各国と、特に中国には、戦争に巻き込んで済まなかったと云ふ気持ちを持たれたが、欧米にはそのやうな気持ちは持たれなかったさうだ。それは当然のことで、英米仏蘭日はすべて帝国主義だ。例へばギャングどうしで、誰かが残りの全員に陳謝したら変だ。
その後、アウンサンスーチーさんが国家顧問兼外相となり、しかし欧米は自分たちの過去の植民地支配を棚に上げてミャンマーの民主主義が不十分だと非難し、例へばイギリスはミャンマーを相変はらずバーマ(Burma)と呼び続ける。そしてロヒンギャ問題では、そもそもの原因はイギリスがミャンマー平野部はイギリス領インド帝国に併合し、南部はイギリス直轄領にしたことが原因なのに、そのことを棚に上げてミャンマーを批判する。
日本はこれらの延長でミャンマーとの友好を深めるとよい。現状の日韓みたいな関係になってはいけない。将来は、日本とミャンマーの関係をモデルに、日韓を修復するくらいの気持ちを持つのがよい。

六月二十三日(土)
竹山道雄さんは、終戦直後の子供たちに希望を与へようとして原作を描き、市川崑さんは芸術性を追求して映画を作成した。ベネツェア国際映画祭サン・ジョルジョ賞を受賞したのは、イギリス美化が少し入ってゐたからかも知れない。竹山さんはミャンマー人を土人みたいに描いたが、これはイギリスがミャンマーを植民地にしたことが最大の原因、日本人が西洋の仲間入りをしたと考へたことが二番目の原因で、竹山さんの責任ではない。
映画では、水島上等兵が僧として現地に残るのは、多数の放置された日本兵の死体に遭遇したからで、イギリス人が亡くなった日本兵のミサを行ったことが原因ではない。ミサは全体を盛り上げるための隠し味みたいなものだ。市川崑さんの映画に瑕疵は一つもない。
しかし伊藤弦二郎さんの歌劇は、イギリス人のミサが原因で水島上等兵が出家したみたいだ。ここで日本は大いに反省すべきことがある。江戸時代までは敵味方を差別せずに葬式を行ひ墓を造る風習があった。ところが明治維新後の神道は、仏教と組むことで機能したのに仏教から切り離したから、敵味方のデジタル思考になってしまった。もし日本が戦勝国或いは停戦したとして、終戦後の平時に敵兵の葬式をきちんとできたか。

さて昨日、現状の日韓みたいな関係になってはいけないと述べたのは、駐日ミャンマー大使が述べられたやうに、戦時中はよい人も悪い人もゐたし、従軍慰安婦みたいな問題もあった。しかしそれらを乗り越えて交流を深めようと云ふことで、戦前の腐れ縁ではあっても戦後日本とネウィン政権の親密感があり、今となっては軍事政権を援助しただけだったが将来のことは判らないし、あのときは日本として最大にミャンマーと友好を築いた。
それらの歴史を引き継いだ上で、今後は民主国どほしの交流を深めてほしい。間違っても、イギリスが正しくて日本は間違っていたしミャンマーも遅れてゐる、みたいな関係になってはいけない。イギリスがミャンマーを段階的に植民地化する過程では、残虐や謀略の連続だった。しかし植民地化した後は、統治する必要上、反乱や独立を企てない限り、残虐や謀略は無くなる。しかし植民地は遅れた状態に留まる。(完)

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