千百十一 大念住経(昨年に続いて)
平成三十戊戌
三月十二日(月)
ミャンマーの僧侶が昨年十二月に帰国され、このたび日本に戻ってきた。昨日は四ヶ月ぶりに経典学習会が開かれた。何となく昨年と同じ書き出しになった。始まる前に、今回は参加者が多いので座布団をもっと出さうと云ふ話が出た。
マハーカルナ師の瞑想会が数ヶ月前に大きく変動し(これも昨年と類似するが)、今まで参加した人たちがこちらに流れて来るらしい。結局は新しい方が数名増えた分、常連が来なかったからいつもと同じ人数だった。さう云ふ私も一年ぶりだから人のことは云へないが。私のメモ書きによると、次のお話があった。
髪を一本手に黒、白など観察。髪は頭にあるときは立派だが食事に入ると嫌だし不浄。三十二部位について同じやうに観察する。果物のジアリに似る。外観は美味しさうだが、中は臭く虫も湧く。汚いものの横の野菜は誰も嫌だと感じる。
方法は1つ1つの部位について5つを声に出し、速すぎず遅すぎず。汚い者が食事(汚い物)を取るから不浄。取相から似相(ニミッタ)が現れ第一禅定になる。32全部について第一禅定まで観察する。以上まとめて一つ一つをアパナと云ふ。昔の僧は1日1つづつ32部位について第一禅定まで。できる人は午前、午後で17日。
第2禅定以降は別の瞑想法。第2禅定で神通力を得られる。
大きな困難も我慢できるやうになる。暑さ寒さ。空腹(食べないではなく、食べられるまで待てる)。虫刺され。痛み。
32の部位は一般の人から見るとすてきな物と見るが、不浄と見ると第一禅定まで。

休憩の時に、私は長年(6年か?)の習慣で走って近くの公園のトイレに行く。一階と二階のトイレが混むといけないので公園が嫌で必要な人に譲るためと、30分自主瞑想(今まで1時間だったが短縮された)と1時間半受講で足の疲れを取る目的もある。質問の時間は
(質問)32相が33ある。

日本語は汗と脂が分かれる。パーリ語は31。
(質問)アナパナで注意散漫になるがどうすればよいか
32をやってもよい。1つの修行を続けたほうがよい。ウパサナが目標。第2禅定や第4禅定などに行っても落ちることがある。ウィパサナが必要。サマタからサマディできるやうになってウィパサナ行くのは簡単。ウィパサナは第一禅定の手前で止める。パリアティは勉強にはなるが、実践には役立たない。
(質問)取相、似相について
取相は、例へば髪なら、髪のすべてを理解。
似相は、不浄だと判る。ここで「理解」や「判る」とは瞑想の知識として判る意味。
アナパナの取相、似相は名称は同じでも、見える色で取相、似相など異なる


三月十四日(水)
終了後、いつもと同じやうに一階でお茶を飲みながら歓談した。ミャンマーの仏教は多数のツダンマ派、少数のシュエディン派などに分かれ、マハシーとパオの瞑想専門僧はシュエディン派に所属し、マハシーとパオは自分たちの瞑想法が良いとそれぞれ主張するから、法要のときに両方の僧が顔を合はせないやう信徒が気を使ふと云ふ話を読んだことがある。(2019追記、マハシーはツダンマ派なので、パオではない別の瞑想法の話か)
日本に戻ってきた僧はシュエディン派だが瞑想専門僧ではない。だから32部位の瞑想を発言したのだが、皆の歓談がパオと異なることへの疑問に向かった。私は32部位の瞑想は伝統的な方法ではと意見を述べた。
それに対し、40の瞑想法があると清浄道論に書かれてゐるとの発言があった。私がここのお寺に参加するのは、在日ミャンマー人の寄進したお寺でミャンマーの伝統に従ふからだが、ほとんどの参加者はミャンマーのパオ瞑想センターで一時出家した人たちだ。
だから私と他の参加者で、多少意見が相違した。しかし和やかな雰囲気で歓談した。あと、僧侶がパリアティは実践に役立たないと発言したことに、疑問の声があった。私は僧侶の意見に賛成だが。

三月十四日(水)その二
通訳さんから、ミャンマーの瞑想センターが有料になったと聞いたと云ふ話があった。連休に殺到するからださうだ。出家する前にお金を徴収するのはよいことかも知れない、特に外国人からは。NHKテレビでミャンマーの人たちの善意を裏切る行為を観たばかり(全宗教百五十へ)なのでさう思った。
「今を時めくYさん」と云ふ話も出た。仏文科を出たのでパオ・セヤドーが来日したとき通訳を勤めたさうだ。尤も原稿を予め貰ったさうだが。私はYさんを知らなかったので帰宅後にインターネットで調べると、私が過去に批判した人だ。ミャンマーの人たちが仏教に純粋なことに対して「笑っちゃいますよ」と講演する録画を見たときだった。純粋なことを称賛すべきで、馬鹿にしてはいけない。この人は先進国(地球を滅ぼす行為が先に進む国)から非先進国を馬鹿にしたが、その原因は仏文卒にあるのかと納得した。
お茶の葉を油で炒めた料理を食べた。これは美味しい。小どんぶりにスプーンが2つだったので、私はスプーンで手に取って食べた。日本人だと判らないくらいミャンマー語の得意な人がスプーンを直接口に付けて食べ、しかも全部食べたので、食事マナーがよくないと思った。二皿あるので、私の前の皿を移動させてあげたところ、通訳の若い女性もスプーンで直接全部食べたので、これがミャンマーの流儀だと納得した。ミャンマー寺院ではミャンマーのやり方に従ふのがよいことだ。

三月十七日(土)
Yさんをインターネットで調べると、大乗仏教を仏教1.0、上座部仏教を仏教2.0、Yさんの主張が仏教3.0なのださうだ。こんな出鱈目を言ってはいけない。この男は、大乗仏教や上座部仏教が長く続いたと云ふ史実を無視した。これまでは上座部仏教僧なので批判は遠慮がちだったが、還俗したらしいので、今後の仏教のため(地球が滅びなければ、の話だが)批判することにしたい。
現代に生きる我々が仏教を学ぶとすれば、大乗仏教か上座部仏教を経由するしかなく、釈尊直結を考へるとそれは余計に釈尊から離れてしまふ。現代ではパーリ語や漢訳の経典が研究されてゐるから、それらを読むことができる。しかし読んで自分の頭で考へたのでは原理主義となる。
また、釈尊の時代に帰ることは、何も今に始まったことではなく二千五百年間多くの長老が考へてきたことだ。だからミャンマーではツダンマ派から戒律を厳しくしたシュエディン派が分裂し、シュエディン派の内部にマハシーやパオの瞑想法が生まれた。マハシーやパオは近年に発明されたのではなく、ブッダゴーサの文献にある四十の瞑想法を現代に伝へるものだ。
二千五百年間の膨大な数の長老たちより、Yさんは自分一人が優れてゐると思ってゐるのだらうか。(完)

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