千百五 NHKの放送、ミャンマー僧侶だった日本人(対談者合格、内容失格)
平成三十戊戌
三月三日(土)
ミャンマー僧だった日本人が還俗し、高野山大学や千葉県の病院(医師看護師向け)で瞑想指導。番組を取り敢へず観たが、批判すべき内容だらうと予想はした。NHKとミャンマーの組み合はせでは前回の放送があまりにひど過ぎた。前回はNHKが如何に堕落したかを示す内容だった。
とは云へ対談者(出演者と対談する人)は合格だ。出演した本人は作り笑ひばかりで不愉快だがそれはNHKの責任だ。内容は失格だ。それをこれから明らかにしたい。
三月四日(日)
番組を見始めてまづNHKを評価すべきは、対談者が目立たないことで、これはよいことだ。出演者名にはアナウンサーの肩書が付く。最近のNHKは目立ちたがったり解説委員の猿真似をするアナウンサ失格者が多いなかで、この姿勢はよいことだ。
NHKがビルマと一回言った。これは悪いことだ。本来「ビルマ」と「ミャンマー」は、「にほん」と「にっぽん」程度の違ひしかない。しかしイギリスは、相変はらず元宗主国意識を丸出しでバーマ(Burma)、バーマ(Burma)と呼び続ける。後半は元僧侶がビルマと云ふから対談者はビルマ、今のミャンマーですが、と何回も言った。
NHKのこのバランス感覚がよくない。最初から最後まで「ビルマ、今のミャンマーですが」が一番良い。全部を「ビルマ」だと苦情が出るだらう。だから一回目だけ「ビルマ」、二回目から「ビルマ、今のミャンマーですが」を使ふそのずるいバランス感覚はよくない。
元僧侶が高野山大学の瞑想指導(参加者は2名だけだったが)でギターを弾き歌った。これはよくない。私は伝統を破壊するやり方には反対だ。それが時代に合ひ多数の信者が現れたのならよいことだ。しかし参加者2名では伝統を逸脱した意義がない。
三月四日(日)その二
一番批判すべきは、元僧侶はミャンマーの人たちの善意を踏みにじった。この男は25歳のときに北九州の世界平和パゴタで出家、翌年ミャンマーに渡り4年間修業、帰国後に世界平和パゴタで2年間活動、カナダで4年間瞑想指導の後に還俗、結婚し子供を持った。
私はよく在日ミャンマー人のお寺に参拝するから、周りにはミャンマーで短期出家した日本人がたくさんゐる。ミャンマーでは周辺住民の善意に支へられ、衣食住と医療が無料だ。しかしそれでは自分の徳を消費してしまふから、永久に出家する場合を除いて帰国の後はきちんと寄付をすべきだ。
この男はミャンマーで4年間善意に支へられた。世界平和パゴタも、かつてのミャンマー方面出征兵士とその遺族の喜捨とミャンマー仏教界の協力で維持され、それらの善意をこの男は3年間消費した。
それでゐて歌とギターの瞑想など、伝統を破壊することをやってゐる。一番良くないのは、経典に自分の呼吸を見る、相手の呼吸を見る、自分と相手の呼吸を交互に見る、とあることを見つけ指導僧に質問した。しかし自分の呼吸を見ることしか答へてくれず、この男は納得しなかった。指導僧からミャンマーの仏教を受け入れるか帰国するかどちらか選べと云はれ、後者を選択した。カナダで心理療法、セラピーで教へてほしいと云はれ、これらを学び自分、相手、自分と相手の交互の呼吸の意味が判ったと云ふ。
これでは仏教より西洋の学問のほうが優れると云ふに等しい。西洋の学問は今では世界に広まり日進月歩で更新されるものだから、仏教関係者で特に信者はそれに遅れてはいけない。しかし西洋の学問が優れてミャンマーの指導僧が劣るやうな発言はすべきではない。
三月四日(日)その三
自分の呼吸を見る、相手の呼吸を見る、自分と相手の呼吸を交互に見る、をあなたはどう解釈するのかと問はれれば、私は次のやうに答へる。
上座部仏教も大乗仏教も、僧侶信者ともに仏法僧(僧とは僧団のことで信者にとっては末寺とその僧侶)の三宝に帰依する。三宝に帰依するとは、釈尊と同じことをすることだ。もし瞑想の努力や瞑想の技術が必要とすれば、それは自力修行教であって、しかも釈尊と同格になってしまふ。
仏像に礼拝し、経典を読み、止観(瞑想)をすることは、釈尊と同じことをする儀式であって、悟りを得ようだとか阿羅漢にならうなどと考へてはいけない。曹洞宗は只管打坐とよいことを言った。曹洞宗の表現を借りれば、只管礼拝、只管読経、只管止観こそ僧侶信者ともにすべきことだ。これは三宝に当てはめたもので、三学に当てはめれば只管持戒、只管止観、只管学習となる。
私とこの元僧侶との違ひは、私は釈尊の時代の複雑化する前の原始仏教を正当としながらもこれまでの上座部仏教の伝統を尊重し僧の指導には100%従ふ(だから論蔵は後世の作としながらも僧が修行のため、或いは信徒を教導のためこれらを用ゐることには賛成だ)。
私を悪く解釈すれば、私には論蔵に何が書いてあるのかよく判らない。単に私の頭が悪いとして処理することが可能だ。信者としてはこれでよい。
三月四日(日)その三
番組で放送された他の内容も紹介したい。メモ書きによると
ミャンマーで瞑想のときは、一日の終はりにインタビューがあった。インタビューは大きな支へ。見張られるのではなく、見守られる。これは能の離見の見(能の名人は前と左右だけではなく自分の背中が見える)
右手で食べて、左手で便所。うんちが手に付いてこするとつぶがあったりする。閉鎖病棟みたいに、うんこで遊ぶ
弟がカナダにゐるのでカナダへ。心理療法、セラピーで神父との出会ひ。修道院でマリア像の声。シスターからマリアとキリストの絵をもらった。弟に赤ちゃん生まれ、抱くとこの子を守らうと云ふ気になった。
ここで話はいったん終了する。私は、元僧侶が還俗して結婚したのではと思ったが、その話はなかった。かなり後になって元僧侶の子が二十歳になった話が出た。つまり弟の子を抱き守らうと思ったことは伏線で、しかし本当のことは云はず後になって結果だけ言った。つまりNHKは本来、この元僧侶を番組に出演させてはいけなかった。いけないのに出演させるから、こんな構成になった。
あと気になったのは、番組の中で字幕が何回も「高野山大学教授xxxx」と表示されたことだ。番組にチャンネルを合はせた人は、曹洞宗で修行した、ミャンマーで修行した、日本で瞑想指導してゐる。これらに関心があるのであって、高野山大学の教授か助手かに興味はない。
元上座部仏教僧と云ふことで瞑想指導者の肩書を得る。それを踏み台に助教授となり教授になる。それを踏み台にテレビに出演する。芋蔓式に肩書や経歴が増へる。さっそくWikipediaにはテレビ出演のことが加筆されてゐた。
しかし実態は元ミャンマー仏教僧だけだ。仏教から見ても比丘(男の僧)、比丘尼(女の僧)、優婆塞(男の信者)、優婆夷(女の信者)の中の優婆塞なのに、比丘のやうな活動をしてよいはずがない。
この元僧侶がミャンマーで何語を使ったかも気になる。帰国二年でカナダに行ったことを考へれば、英語でミャンマー人と意思疎通したのではないか。その国の言葉で学ばないと留学したことにはならない。
欧米に行くと、誰もが西洋かぶれになる。多くの人は西洋かぶれの誤りに気付くが、一生気付かない人もゐる。この元僧侶が還俗したのは一時的のときか、それとも一生気付かないときかは判らない。しかしブッダとミャンマーへの敬意が欠如するところを見るとおそらく後者であらう。
番組では元僧侶の瞑想指導を受けた一人の女性看護師だけが感想を述べたが、他の参加者はどうなのか。批判もあるはずだ。批判も聞きたかった。(完)
追記三月六日(火)
ここで元僧侶のどこが悪いか追記すると、ミャンマーでは還俗は批判されない。それは還俗後も信者として仏教を支へ続けるからだ。しかしこの男は還俗後に仏教を支へないばかりか、ミャンマー仏教より西洋のセラピーが優れるみたいな言ひ方をする。しかも音楽や変な瞑想のやり方で伝統を破壊する。それで信者が増えるならよいが増えない。
最後に、原始仏教を正当としながらもこれまでの伝統を尊重し僧の指導には100%従ふことは、すべての上座部仏教の僧侶、信者ばかりか、大乗仏教の僧侶信者も同じだと思ふ。そこに大乗非仏説と批判されながら今日まで大乗仏教が続いた理由でもある。
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