千百八(別編) 青春18切符旅行記
平成三十戊戌
三月八日(木)切符購入
今回青春十八きっぷを買った目的は、下の子の車に便乗して三国峠を走り、六日町か小千谷から戻るときに使はう。さう思ったからだった。
過去二回は新横浜駅、JR東海ツアーズ新横浜支店とJR東海系が続き、今回もJR東海ツアーズ新宿支店で購入した。
私の前の客に店員が、払ひ戻しはJR東海ツアーズでしかできないから一時間後にしたほうがよいのではと云ってゐた。出発前は1回無料で指定席特急券の変更が出来て、それはJR東日本でも可能だと思ふ。

車の便乗が浦和で終った。ここからだと切符で都内に戻ったほうがよい。しかし210円ではあっても追加で払ふよりは、既存の青春18切符を活用すべきだ。さう思ったから小山まで行き、古河、栗橋、池袋で下車し定期券区間の新宿に戻った。
運賃は合計2487円。青春18切符1回当りの2370円を超えたが、それは問題ではない。青春18切符は1日4000円以上乗らないといけない。
今回、古河には観光案内所があり、桃まつり、さくらまつりを開催することを知った。古河が観光に力を入れてきたことを知ったのは貴重な体験だった。観光に力を入れる市は街づくりにも力を入れるからだ。栗橋は何もなかった。尤も今日は雨が強く寒い。行ったのが小山は駅前まで、古河と栗橋は改札の外までだ。
池袋は駅を出てニコニコ本社に行った。かつては原宿にあって渋谷中央図書館に行くときよく横を歩いた。中はどんな内容だったのだらうと気になってゐたが、ニコニコ本社を訪問出来てよかった。何か購入したりしたわけではないが、なるほど私には想像もできない新しい事業だと感心した。

三月十日(日)水戸偕楽園
十日は水戸の偕楽園に行った。二十年くらい前に行ったことがありこれで二回目だが、前回は梅を観たあと弘道館に行った。つまり偕楽園全体は観なかった。今回は偕楽園全体を観ることができてよかった。開園思想の陰と陽について、臨時駅から行けば園の裏側にある正門の外に説明がある。つまりほとんどの人は読まない。偕楽園に行ったら、梅ではなく偕楽園を観るべきことを、私も今回知った。
せっかくだから園内の観光協会直営の土産物店で180ml税込み275円(だったと思ふ)の純米酒を買った。歩きながら飲んだが周りに酒を飲みながら歩く人はゐない。係員に何か云はれたら「えい、このレシートが目に入らぬか」と観光協会のレシートを出す訳にも行かない。目立たないやうに飲み何も云はれなかった。
往路は駅横の道を進み、復路は神社の境内を抜けた。臨時駅で下車した人の99%は往路も神社を抜ける。駅横の道は偕楽園の門が閉まってゐるから車椅子用のつづら折りの坂を上がらなくてはいけない。99%の人は既知だから神社の階段を上がった。
復路に神社を歩いて、露店の値段が高いことに驚いた。日本酒180mlで300円または400円だ。それと比べて私が購入したのは純米酒275円だから、実に生産性が高い(かういふ場合、生産性と云ふか?消費性だな)。
県立の偕楽園のおかげで多数の人が集まるのだから、神社からはかなりの寄付金を貰はないといけない。或いは駅横の門を開放し、神社を経由せず入るやうにすべきだ。

三月十日(日)その二土浦
臨時駅は下りホームだけだから、水戸駅では昼食を買っただけで折り返した。つまり水戸は偕楽園だけが目的となった。帰りは土浦で下車し、旧道沿ひの旧家二軒と亀城を観た。土浦は東京通勤圏になってしまった。失はれた風情を保存するその姿勢は貴重だ。土浦は銚子、野田と並ぶ醤油の産地だったさうだ。
亀城では櫓門が入場無料だった。もう一つの博物館が展示替へ準備のためらしい。この日は水戸の帰りに牛久大仏を拝観する予定だった。予定外の土浦が気に入ったので時間を掛け、牛久駅に到着した電車の数分前がバスの発車時刻のため、電車は降りなかった。
この日の正規運賃は水戸まで往復で4536円。それを2370円だからまあまあの生産性(?)だ。この日最大の収穫は、土浦から江戸に醤油を運ぶのに、船で川を上ることだ。
江戸時代の船が帆船の原理を使ったことを知らなかった。てっきり江戸時代は川を下るだけで、上るには人力だとばかり思ってゐた。

三月十七日(土)空振りに終った波崎海岸砂丘植物公園
三回目は銚子に決めた。前に二回来たことがある。一回目は二十五年くらい前に銚子電鉄で外川まで行った。そこからは海岸線に沿って歩いた。一ヶ所、線路が海に向かひ、漁船を製造修理する工場が船を海に移動させるためだと想像した。
二回目は醤油工場の見学を電話で予約し、二十年くらい前に行った。だから今回は銚子市内には寄らず銚子大橋を渡って波崎海岸砂丘植物公園を目指すことにした。まづ波崎海水浴場を観た。次に住民の共同出資とYahooなど企業による寄付金で建設された風力発電を見た。漁港も見たかったが戻る形になるので諦めた。
先へ進み波崎海岸砂丘植物公園の門を入った。管理棟は朽ちてゐた。案内図は剥げてほとんど役に立たず「茨城県波崎町」のままだ。砂丘に上がり植物を見た。これらは植えたと云ふよりもともと群生してゐたものだらう。植物名や説明がないから単に一周するだけに終った。

帰路は海岸とは直角に進み、県道を左折、そののち右折して国道124号に出た。ドラッグストアなど3店が並ぶ。ここが旧波崎町の中心ではないかと思った。神栖市に合併して十三年。砂丘植物公園の朽ちた姿と合はせて、大きな町(当時は神栖町)と合併しても旧神栖町は工業地帯のことばかりに関心があるのだらうと思った。

三月十七日(土)その二銚子漁港
銚子大橋で戻ったのちは、まづスーパーで昼食を買ひ休憩コーナーで食べた。朝、波崎から銚子に向かふ車はそのほとんどが水戸ナンバー(一部に土浦ナンバー)だったが、その理由は銚子に買ひ物に行くためではないだらうか。これでは旧波崎町は寂れてしまふ。
第一卸売市場は11時半まで見学できるがその時刻を過ぎたので通過し、第二卸売市場の前も通過し、その間に多数の漁船が横付けしてあった。銚子市川口漁協の建物があるので、銚子市漁協との関係が気になったが、帰宅後調べると平成8年に6単協(銚子市、銚子市黒生、銚子市外川、銚子市西、銚子市川口、千葉県小型機船底)が合併して設立されたとある。
途中二ヶ所ほど氷工場があった。トラックを横付けにすると上から氷が落下する。食用の氷ではないからこれでよいのだらう。川口神社の参道で利根川と直角に曲がり駅に向かった。途中、五重の塔があったが疲れて見る気がしなかった。この日の歩行距離は18Kmに達した。

三月十七日(土)その三新生駅(あらおいえき)とヤマサ醤油
高崎藩陣屋跡の公園に寄った。石碑しか見なかったが、帰宅後にインターネットを調べると、高崎藩が銚子を支配したとある。当時の陣屋の図面なども公園内にあるらしい。見逃したが写真が載ってゐて見ることができた。
現在の感覚では一つの藩がその地域全体を支配しないと、良好な治安と効率的な経済政策を維持できない。しかし関東は譜代大名や旗本が複雑に入り込んでゐた。当時は治安がよく政策も簡単だったためか、或いは住民を犠牲にする悪政に繋がったのか。
更に進むと公園の入口に国鉄新生貨物駅跡と云ふ石柱が建ってゐる。新生駅はここにあったのかと思った。隣のヤマサ醤油に沿って歩くと、仲ノ町駅に出た。入場券を買へば車庫を見学できるが、暫く車輛整備のため日曜以外は見学できないと掲示があった。なるほど全般検査か要部検査をやってゐるのだらう。踏切を渡るとヤマサ醤油の見学受付に出た。
予約をしてゐないのと、そもそも土曜は休業なので工場見学はできない。しかし映画と体験コーナーは入場できるので受付を済ませた。
展示に船で利根川を上り江戸川を下るとある。土浦の話が活きた。偶然土浦も醤油の話題だった。

三月十七日(土)その四鹿島神宮駅
往路は総武本線経由だったが、帰路は成田線経由だった。香取駅は10分ほどの待ち合はせで鹿島神宮行きが来る。急遽乗り換へることにした。鹿島神宮から歩けるなら1時間ほど工業地帯を歩いてみたいと思ったが、駅前の地図に工業地帯がない。しかも帰りが遅くなる。20分ほどで折り返す電車に再び乗り、佐原、成田、千葉で乗り換へて帰宅した。家に着いたのは夜8時前だった。
最後の電車に乗り換へるとき、膝が痛くなった。鹿島神宮に急遽行くくらいだからまだ余力はあるはずだ。翌朝、くるぶしが少し痛むのと体が重かった。いくら健脚が取り柄でも六十二歳の限界がある。年寄りの冷や水とならないやう注意したい(とは余り思はなかったが文章にだけは書いてみた)。

三月三十一日(土)湯殿山、相模湖、新小平
本日は用事があり八王子に行くので四回目を使った。午後1時30分に終了し、1時47分の電車で大月に行った。湯殿山中腹の展望台まで往復ののち、高尾方面に乗って相模湖で降りた。この駅で降りるのは初めてだ。湖岸の貸しボート屋、食堂、土産物店の前を抜けて、ダムを見た。発電所を外から観た。観たと言っても送電線があるので発電所だと判るだけだった。
新宿方面に乗り西国分寺で下車した。駅の中がまったく変はった。かつては改札の中はコンクリートの壁しかない空間だった。今はその空間にたくさんの店が並ぶ。ここまでは前回来た時見た。今回はホームに面した部分とそこへ直結するエスカレータの前にも店ができた。少し改札を出たが、自転車置き場はおそらく昔のまま、反対側の大きな商業施設は出来て20年は経つのだらうか。
武蔵野線に乗り、新小平で降りた。多摩の利き酒のためだ。駅前広場を右折し酒屋を探したがない。先日紹介した大衆食堂も無くなってゐた。西武線の踏切を超えたセブンイレブンで「澤乃井 奥多摩湧水」のカップ酒(税込み216円)を買った。この道路が青梅街道だと初めて知った。奥多摩街道か何かかと思ってゐた。
折り返して道路の反対側を歩くうちに、道路拡張予告の看板があった。それによると玉川上水まで近い。今まで百回近く歩いたからそのことは知ってはゐたが。直進すればよいのに途中で隣の小道に移ったところ左折して鷹野街道に入ってしまった。方角が90度それたことに気付かず小平警察から多摩湖線の踏切で間違ひに気付いた。空はほとんど暗くなったので新小平駅に戻った。普通にICカードで乗車すれば2773円の旅程だった。

四月七日(土)長野原草津口駅にて
青春18切符五回目は長野原草津口だ。今から四十八年前に長野原線の長野原から太子(おおし)までが廃止された。同時に行はれた長野原から大前まで延長され吾妻線と改名されたことは完全に忘れたが、太子の廃止を覚えてゐた理由は、昭和四十年代は路面電車は別として鉄道を新設しても廃止はしなかった。全国に鉄道が新設されたし、国鉄とは別に鉄道建設公団が設立された。
その太子駅が観光用として復元された。早速、旧太子駅に行くことにした。しかし町営バスが一日三本(平日は四本)しかない。朝六時に家を出て長野原草津口駅に10時19分着。駅員に太子に行くバスを訊いたが判らないと云ふ。観光協会の食堂兼売店に訊いたところ、あそこに止まってゐるバスの反対側だと云ふ。反対側は道路だがそこなのか訊くとさうだと云ふ。行ってみるとやはり道路だ。念のため道路を渡り、ダム工事のため道路を川の反対側に付け替へたかも知れないので長い橋を渡り対岸の道路にもバス停がない。レンタカー営業所に訊いたところ、駅前に停車中のバスを指さして、あれではないかと云ふ。
発車は10時42分だから十分に余裕はあるのだが走って橋を渡り、運転手が戻るのを待ってやっと乗ることができた。運転手が釣銭が無いと云ふ。私は偶然あった。帰りは現地で食事をするから、その釣銭を使はうと思った。私以外のもう一人の乗客は温泉まで行くが、向かうのホテルで両替してもらふと云ってゐた。すると運転手が少しならあると云ふ。つまりすこしは釣銭があるのだ。しかしたくさんは無いから不足しがちだ。だから最初に乗客に釣銭を用意させるやうだ。
ここで(1)運転手は悪くない。もともとJRバスだったが撤退し六合(くに)村が村営バスを走らせた。中之条町と合併し町営バスになった。民間委託し、会社名がバス停にも書いてある。乗客が少ないから釣銭が十分にないのもやむを得ない。
(2)観光協会は、ほとんど悪くない。本来はバスの手前と表現すべきで、反対側と云ふからバス停のある島の反対側、更には川の対岸まで行ってしまった。
(3)駅員は極めて悪い。駅の改札口の内側に吾妻線の何十周年記念だかの年表が貼ってある。そこには太子駅が何回も出て来る。しかも太子を経由して花敷温泉(冬期)またはその先の野反湖までのバスは、駅前広場から発車する。しかも元はJRバスだ。更に四月一日に太子駅跡が復元された。それなのに駅員が知らないのはひど過ぎる。駅員が知らないなら駅前広場ではないだらうと川の対岸まで行ってしまった。

四月七日(土)その二冬住みの里資料館
バスの運転手さんが、あの赤い屋根の建物ですと教へてくれたので、冬住みの里資料館の場所が判った。丁度老夫婦が帰宅したときで開けてくださった。町営かと思ったら民営で、しかもあとで判ったのだが、高齢なので看板を外し、昔のことを知ってゐて来館者があったときだけ開けるさうだ。
かつて草津温泉は冬は閉鎖し、旅館経営者は草津と麓と、二か所に家を持ったさうだ。だから館長の何代か前は初代の草津町長を務めた。明治の中ほどに冬でも草津に滞在できるやうになりその後、草津の二つの大字は草津町、その他の六つは六合(くに)村となった。東西南北と上下で国造りの故事に因んだ。
展示してある別の資料によると、明治四十年辺りから草津温泉は建物、洋服などの西洋化が起きた。裕福になったためか或いは上流階級が泊まりに来たためか。その影響で麓の農村とは分化が起きたことも説明して頂いた。
食糧を化工する道具も多い。冬はふもとで食材の準備をしたのだった。階段の急こう配に懐かしさを感じた。
第二棟は蔵だ。扉を開ける大きな金具にも懐かしさを感じた。第三棟も蔵だ。ここは味噌だったかを造る樽があった。二十年前まで二十年間民宿を経営したが、そのときはカラオケ室にしたさうだ。第一展示館にカラオケセットが置いてある理由が判った。第三棟は近年に訪問した人たちの写真があり、小渕優子さんの写真もある。
母屋はその太く四角い柱にまづ驚く。こたつ間の右は来客室で棚にかつては神仏を並べてあった。高齢でご飯を揚げるのが大変なため、今は奥の部屋に移動させた。奥の部屋とその左は天井が高い。電線は二本を10cmくらい離した碍子式で、しかも天井の下にある。
二階は立派な部屋を展示室として使ってゐる。太く四角い柱は二階にも続き、しかも油を挿す切れ目がある。
夫婦の住居はこたつ間の右で、つまり家のほとんどは来客用だ。かつてはこれが名主などの通常家屋だったのだらう。館長の先祖は甲斐から役人として草津に来て、山本館の経営にも携はった。
我が家のヘビはジャパンスネークセンター草津熱帯圏などで展示ののち我が家に来た。草津熱帯圏は草津町長も務めた方のホテルグループに入ったが、後にホテルが倒産した話を読んだので、もしやと調べたがこれは中沢ヴィレッジで九年前に倒産したが既に会社再生されたやうでよかった。

四月七日(土)その三旧太子駅、赤岩集落
旧太子駅は、町民は無料、一般は二百円だ。四月一日に開館し、四月中は一般も無料だ。さっそくここを訪問した。当時の駅舎と同じ形の建物を新築し、線路とプラットホームも新設し、ホッパーは昔のままで存在する。復元した中之条町と寄付をされた地元の皆さんに敬意を表したいが、このままだとその努力が必ずしも生きない。それは別の特集で明らかにしたい。
次に赤岩集落を訪問した。入場料が無料なので、集落でその四倍を消費しようと思ったが、店が一軒もない。集落はよい雰囲気なのだが、このままだと物足りない。それも別の特集で明らかにしたい。
バス停に着くと時刻まで25分ある。駅に向かふ途中で乗車し、その間に商店で昼食を買はうと思ったが店がない。そのまま駅まであるいてしまった。駅の手前のガードでバスに抜かれたから到着時刻がバスより3分ほど遅れただけだった。
中之条観光協会のホームページを見ると、六合(くに)地区は「日本で最も美しい村」連合に加盟する。丁度4月始めだったので、あちこちに桜の花が咲き綺麗だった。私は都会の花見になぜか感動度が少ない。その理由が判った。都会の桜はソメイヨシノだけだ。ここではソメイヨシノのほかにたくさんの山桜やその他の木花が花開く。周囲の土や緑とも調和する。
そんな美しい村で少額とは云へお金を消費しようと思って来たのに、往路のバス代と資料館の入館料だけになってしまった。吾妻線の往復では、ダム建設のために移設する前の線路が少し残ってゐた。あと沿線の山桜などが綺麗だった。今季も無事青春18切符を乗り終へた。(完)

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