千百八 親離れを感じる二題(1.自動車購入、2.アフリカ旅行)
平成三十戊戌
三月四日(日)自動車の購入
2か月ほど前に、下の子が中古の軽自動車を購入した。私の父と私はこれまで車を購入したことは無かったから、先祖代々現在に至るまで我が家で一台目の記念すべき車となった。
先輩が卒業するので使ってゐた車を数万円で買ふ案が最初あった。しかし軽ではないので維持費が掛かり他にも購入希望者がゐたため、中古車センターで購入した。値段は数万円だが冬用タイヤを揃へたり保険加入などで20万円ほど支出したさうだ。
私も今から35年ほど前に、叔父から車を無料でくれると云ふ話があった。5ナンバーの大きい車か或いは3ナンバーだったか。当時3ナンバーはぜいたく品だったし、しかも外車だった。
付近の駐車場代が高くそのときは辞退したが、私自身は2回免許を取った。一回目は一番最初の会社で運転の機会が多く10万キロは走行した。
当時は高速道路と云へば、東名、首都高、京葉道路くらいで、あと東関道と関越は一部区間開通なので車が少なかった。だからほとんど一般道を10万キロ運転するのは相当な時間で、職業は会社員ではなく運転手と書かうかと冗談に思ったくらいだった。転職してからは免許を書き換へしなかった。
二回目は今の会社でアメリカに8か月出張したときで、カリフォルニア州で免許を取り5万キロくらいは運転したと思ふ。帰国後に日本の免許に書き換へたが、一回浦和から鶴見まで両親を含めた一家揃って乗っただけで更新はしなかった。
私の頭には自然保護が第一で、だから仕事以外で車を運転することは考へられない。今は車の燃費がよいし、ほとんどの家庭が車を持つから、下の子が車を買っても問題ない。
三月十日(土)浦和まで便乗
下の子がさっそく車で帰省した。数日泊まったのち帰りは別のルートで三国街道を使ふと云ふので、私が便乗した。まづ浦和の実家に寄り、しかしその先はのんびり行くと云ふので、ここで下車した。
私は帰路用に青春18きっぷを既に購入してあったので、ここから帰ったのでは無駄になる。東北線で小山まで行き、古河、栗橋、池袋と下車して帰宅した(別編として独立)。
三月十一日(日)三国街道にこだはった理由
今から三十数年前に、団体で佐渡に行ったことがある。往路は貸し切りバスと船、復路は船と上越新幹線で、私はそれから三十数年間上越新幹線には乗ったことがない。
往路は夜行だったので、関越自動車道に入った辺りで寝入った。目が覚めると、5つくらいが横に並んだ黄色のランプが1つおきの交互に点滅する。そこは上り坂の急な折り返しだった。
そのやうな道がずっと続くうちに再び寝入ってしまった。気付くと関越道を快適に走行してゐた。あの当時は関越トンネルが開通前で、17号で三国峠を越えたのだった。あの急な折り返しをもう一度、見たいものだ。それがこだはる理由だった。
三月十一日(日)その二急な折り返しが無い
インターネットは便利だ。前橋から石打まで十七号を走った動画を載せた人がゐる。暇と云ふか酔狂と云ふか。早速見たところ、倍速なので目が回るがあの折り返しがない。
三国トンネルは当時から存在するから、あの折り返しは三国トンネルではなくその前後の峠だった。しかし前後にもない。別の人の動画でも同じだ。あれからバイパスが少しづつ作られたのだらう。
今回の調査で新たなことが判った。上杉謙信が関東に出陣するとき、最初は清水峠を通ったが、すぐに三国峠経由に変更した。清水峠は上り下りが一回なので楽だった。
今でも清水峠は国道291号に指定されてゐる。ところが群馬県側から行くと土合駅の先で車の通行が不能になる。その先は登山道として何とか清水峠まで通じてゐるが、その先はトンネルが埋没したり橋が消滅したり登山道が草に覆はれて通行不可能ださうだ。(完)
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