千十三 鈴木一生さん亡くなる
平成二十九丁酉年
七月二十六日(水)
日本に上座部仏教を広めた鈴木一生さんが十九日に亡くなった。一生さんは二十五歳のときにゴルフ場関係の会社を設立。四十歳のときに比叡山で得度した。
竹田倫子さんが東京西新宿に上座部仏教修道会を設立し、そこで布教をされたスリランカ出身のスマナサーラ長老を知り、指導を受けるやうになる。
四十五歳のときに不景気で会社を解散することになり、スマナサーラ長老は上座部仏教修道会の浄心庵(茨城県大洋村)に移ってもらった。
四十七歳のときにミャンマーのマハシ瞑想センターで比丘戒を受け、半年間修行。途中からスマナサーラ長老も合流し、帰国後スマナサーラ長老と共に東京渋谷に日本テーラワーダ協会を設立。一生さんは会長に就任した。日本テーラワーダ協会はその後、スマナサーラ長老がマスコミに登場するなどして大きくなった。
五十三歳のときに日本テーラワーダ協会を離れ、資金に困り比叡山で修行して僧侶資格を取得、派遣僧侶となった。しかし年の半分はミャンマーに行きマハシ瞑想センターやその系列で修業を続けた。
五十九歳のときに浄土真宗の若者2人からミャンマー同行を依頼され、皆でクムダ長老の指導ょ受け初めてパオ系の止観を行ふ。帰国後、只見でクムダ長老の合宿を開催。クムダ長老が僧院長を務めるモービ僧院建設では、本堂や修行者宿泊建物のお布施を募った。

七月二十七日(木)
クムダ長老は、今でも毎年日本に来られる(私が在日ミャンマー人向けの指導会に出席したときのページ)。これは私がよく参拝するミャンマー寺院の経典学習会を主宰されるIさんが招聘されてゐる。
鈴木一生さんの作られたホームページを見ると、ヴィパサーナ瞑想に傾倒してゐたことがよく判る。Wikipediaではパオ瞑想にたどり着いた書き方だ。
私は止観(瞑想)は三学の一つとする立場だから、止観は心を落ち着ければよい、或いは釈尊が四衆に止観を指導されたからそれに従ふ。止観に熱中し過ぎると、自力で成仏を目指すことになり、これは釈尊と同格になってしまふ。

七月二十九日(土)
止観の極意を問はれれば、私は次のやうに答へる。
ナモタッサ、バカワト、アラハト サンマー、サンブッダッサ(日本語訳、南無阿羅漢悟者瑞祥釈尊)
を止観の最初に三唱するか、
ブッダンサラナンガッチャーミ、ダンマンサラナンガッチャーミ、サンガンサラナンガッチャーミ(日本語訳、南無仏南無法南無僧団、二回目はそれぞれの先頭にドゥティヤンピ、三回目はそれぞれの先頭にタティヤンピを付ける)
を三唱する。或いは大乗仏教の伝統に従って南無三宝と唱へてもよいし、般若心経や法華経を読んでもよい。これらのどれかを行ふのと、何もしないで止観を始めるのでは、意味が全然異なってしまふ。前者は釈尊の歩まれた道を遥か後方からではあるが歩くことができる。後者は釈尊と同じが別か判らない道を自分で探しながら歩く。
鈴木一生さんはヴィパサーナだパオだと長年に亘って求められた方だから、私より考へ方が遥かに上位だ。しかし人それぞれ性格が異なる。私に一生さんの真似をしろと云っても無理だ。私が一生さんのお寺に初めて行ったとき、私が何も話さないうちに一生さんは「あなたは修行が目的ですか、それとも興味ですか」と質問された。私は「本当は修行者にならなくてはいけないのですが」としか答へなかった。
本当は上記のことを全部話したかったが、日本の上座部仏教の大先達に失礼だから、何も云はなかった。一生さんのお寺にはミャンマー人の若い女性が寺務兼家事手伝ひとして働いておられた。そのうち更に一人来て三人で話がはずみ、私はミャンマー寺院の様子を説明した。後から来た人は、うつ病の知人のことで一生さんに相談した。この知人は一生さんも前から知ってゐる様子だった。そのあと女性が調理してくださったミャンマーそばを皆で食べて、帰路に就いた。
一生さんの逝去で、私の考へを説明する機会はなくなった。(完)

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