86、チベット問題の本質(3)
平成ニ十年
五月十日(土)(浦野起央氏「チベット・中国・ダライラマ」)
浦野起央氏の「チベット国際関係史『チベット・中国・ダライラマ』」という1040ページに及ぶ膨大な著作がある。2年前の出版当時浦野氏は日本大学名誉教授、北京大学客座教授であり「中国寄りではないか」と思ってしまう人もいよう。しかし氏は日本国際政治学会理事、アジア政経学会理事、国際法学会理事などを歴任し、中国、ダライ・ラマ双方の主張を扱った公平な書籍である。本書の上梓に当たり、特に日本のチベット学の先達、山口瑞鳳博士の研究、そして14世ダライ・ラマの人格に接しという文章にそのことが現れている。
この膨大な著書を最後まで読むには相当の努力を必要とするが、「まえがき」に氏の結論が書かれている。
- 中国・チベット関係は宗教者(ダライ・ラマ法王)と施主(中国皇帝)のチュワン関係にあった。
- チベット族居住地帯のうちでも、政教合一の法王制にあったチベット本部のほか、地方的封建勢力と仏教教派が結合していたアムド(安多)地区、またディパ(土司)が宗教・政治首領として支配していた康区(ここでは改土帰流の策略が実施された)は、まったく違った政治社会を形成していた。したがって、この後者の2つは中国の直接統治にあってラマ教徒地帯をもって(蒙古もその一部であった)この三者すべてが、自らのチベット支配地域にあってチベット国の完全な範域にあるとするチベット亡命政府の主張(大チベット/チョルカ・スム構想)は当たらない。
- 共産主義国家イデオロギーの拒否、そして神政国家維持の政治社会基盤としての農奴制堅持の立場で、チベットは、共産中国政府と対決し、その社会開放を拒否し、亡命政府の樹立となった。(中略)インドを支配した英国の干渉も、その一つの要因であった。
- 今次の14世ダライ・ラマ法王のインド亡命は、米国のイデオロギー対決という国際戦略のなかに大きく填り込んでしまった。
- 一方、共産中国政府による三大領主の農奴制解体は成功し、農奴を解放されたチベット人には歓迎され、現在、チベットは経済開発・社会改革で大きく進展している。
五月十一日(日)(チベット文化破壊の張本人は張蔭棠に非ず)
以下、浦野起央氏のチベット国際関係史「チベット・中国・ダライラマ」を紹介する。
チベットに漢文化が入り始めたのは、ロシアとイギリスがチベットを互いに狙い始め、清朝では1907年張蔭棠が在蔵大臣に任命されてからである。張蔭棠は次のように主張した。
- 祖国の文字を使うため、多くの漢語学校を設けるべきである。(漢語を教えるほか)数学と兵隊の訓練も行うべきである。
- チベットの徭役と刑罰は中国で一番重いといえる。民衆の困難を軽くするため、それらをいっさい除くべきである。
- チベット人の愛国心を激発し、新しい知識を導入するため、漢語・チベット語新聞(半月刊)を発行し、各地へ配送すべきである。
- チベットを整理しなければこの地を保持できないと、1907年12月10日付で、張蔭棠は報告した。これにより進駐した中国当局は、ダライ・ラマが北京滞在の不在中に、中国語教育を普及させ、チベット通貨を安定させ、駐チベット公館の体制を整えるなど、中国化に着手した。
1911年辛亥革命があり、チベットではチベット軍が清朝官吏と清朝軍を追い出した。
- 24年1月英軍のチベット進駐で、9世パンチェン・ラマは13世ダライ・ラマの親英政策と英国の関与に脅威を直感して、青海を経て3月18日沙邸に入った。
チベット文化の破壊は張蔭棠に始まるが、行った理由はイギリスにチベットを狙われたためであった。諸悪の根源はイギリスである。
五月十ニ日(月)(パンチェンラマの手紙)
次にパンチェンラマが蒋介石に宛てた手紙を紹介しよう。
- ダライ・ラマがチベットに滞在していた漢人を皆殺しにしたことは、本当に残忍非道なことだと思う。そして、西康に軍隊を派遣し、その各地に駐屯させた。そこには、漢に属していた僧と民衆がいる。彼らは、かつて漢と蔵の両方にも親しいので、ダライ・ラマの軍隊から仇のように恨まれている。彼らの寺宇も叩き潰され、財産もすべて奪われた。
- この少数者は帝国主義勢力に対して、すぐに方針を変えて、ひそかに要人を派遣し、媚を売り、牛馬のように甘んじて耐え忍んでいる。パンチェンは、この状態をみて、本当に悲しい。
ダライラマの政治が仏教に基づいていたというのは、まったくの神話である。西康とは今の四川省西部のチベット人居住地域、帝国主義とはイギリスのことである。
五月十六日(金)(帝国主義と共産主義)
帝国主義と共産主義の争いにチベットも無縁ではなかった。
- 1925年、ボルシュビキの拠点が四川に生まれていた。共産主義のビラがダルツェンド、リタン、パタンに撒かれた。
- 1934年5月10日西康省越西県で共産蜂起が起き、翌35年チベット族のボバ族人民政府が成立した。そして、1943年1月甘粛南部で漢族、回族、チベット族など10万人が国民党政府の暗黒政治に反対して大規模な武装蜂起を起こした。
一方でイギリスも欧米かぶれを育成していた。
- 密かに、英国勢力を築き上げる。チベット人学生、特に軍官学生に対し英国とかインドに留学するよう誘いをかけている。
五月十七日(土)(帝国主義から資本主義へ)
昨日、日本の北海道ウタリ協会が北海道アイヌ協会と名称変更することを決めた。日本でチベットを叫ぶ人はまず北海道で日本語とアイヌ語を公用語とするよう運動する必要がある。そしてアメリカと豪州では先住民の言語を公用語とするよう運動すべきである。更に英語が世界各地の文化を破壊しないよう、英語の使用を少なくする運動を進めるべきである。チベットを叫ぶ人が実は単なる欧米かぶれや偽善者なのかどうかがこれではっきりする。
さてチベット人居住地域への漢族流入は、国民党と共産党の内戦が原因であった。
- 1938年10月共産党が勝利を収め、国民党軍は支配下の重慶に逃れた。そこで、四川、西康、ダルツェンドのチベット人地域に大量の漢民族が流れ込み、西康省との境界が画定されるところとなり、その省都ダルツェンドは中国名のカンディン(康定)と改名された。もっとも、この青海は軍閥馬歩芳の支配にあった。
第2次世界大戦は終わり、中国の内戦も終了した。英米仏など帝国主義諸国は植民地を解放せざるを得なくなり、少しずつ資本主義諸国へと変化していった。中国は毛沢東の独自の共産主義で西洋の思想対立を一時は克服した。ソ連(現、ロシア)は西洋唯物論を克服できなかった。
- 7月8日チベット地方当局者による漢族人民と国民党駐蔵人員の駆除は、イギリス、アメリカ帝国主義およびその追従者であるインド・ネルー政府の計画の下で行われた。
- 中国共産党は、少数民族の自治を主張し、各民族の宗教・信仰・文化・習慣を尊重している。内蒙古解放区と既に開放された甘粛回族区の事情を知っていれば、もう疑いはなかろう。(以上2つは1949年新華社社説)
- 共産党中央は7月10日、西南軍政委員会委員西康省イ人民政府副主席活仏ゲダをガンゼのペリ寺からラサへ送り、解決を図るべく進めたが(中略)、8月22日英特務機関員ロバート・フォードの策謀で暗殺されてしまった。
- スターリンは、チベットを含む、すべての国境地帯に漢民族を大量に入植させる政策を助言した。
五月十八日(日)(チベット貴族たちの狙い)
イギリス人ジャーナリストの観察が紹介されている。
- チベットは、多年、西方からの外国の侵略にまかせられ、ほとんど1世紀にわたって、帝国主義勢力は、北京とラサとの間の古来の結合を切断する努力を続けていた。
- チベットでは変化がおこった。貴族たちは新しい嗜好をもつようになり、高価な外国物質をほしがった。だが、それらを入手しようとしても、すでにぎりぎりの生存すらむつかしいまでに搾取しつくされた100万の奴隷と、(中略)原始的生産状態と価値は、これ以上しぼり出すことは不可能に近かった
- 反乱が数日にして鎮圧されたという事実が、(中略)「国民的」蜂起ではなく、ただあの貴族が抱いた疑問---農奴所有者はその農奴を持ちつづけるべきかという問題により巻きおこされたものだということでる。
- 目をえぐったり、生身の皮をはいだり、健を切ったり、鞭打ったり、また、貴族は平民の女にはいつでも手をつける権利があったり、法に拘束されることなく強制労働を課したり、奴隷制よりもおそるべき高利を取立てたり、(中略)これらすべての旧態を保存し、そのためには人民を外国に売りわたす貴族たちを、20世紀の「自由戦士」呼ばわりすることは、どういうものだろうか
これに対し、浦野起央氏も次のように書いている。
- この観察と指摘は的確で、変革の真実を指摘していた。反面、1955年以来、強まり、1958年のラサ反乱となった貴族のすさまじい抵抗、そして14世ダライ・ラマの亡命に至る背景がここに伺える。
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