86、チベット問題の本質(2)
平成ニ十年
四月ニ十五日(金)(唯物論と虚無主義)
唯物論に地方文化を守る意義があるとすれば、文化財保護、観光資源の保護ということくらいである。唯物論は虚無主義(ニヒリズム)になりやすい。旧ソ連の硬直化した官僚主義を見たときに、ソ連以外の世界中がそう思った。毛沢東もそう思ったに違いない。そのため大衆動員方式を編み出したが、飢餓や権力争いに陥った。文化大革命の失敗を見たときに、世界は唯物論が必ず虚無主義に陥ることを知った。
一方で唯物論は決して共産主義の専売特許ではない。資本主義こそ世界最大の唯物論である(55、唯物論を考える)。
四月ニ十六日(土)(唯物論は時期尚早)
『精神と肉体と言う二元論』の唯物論的一元論は、精神は肉体から独立して存在せず、精神は第二次的なものであり、脳髄の機能であり、外界の反映であると言う点にある。『精神と肉体と言う二元論』の唯心論的一元論は、精神は肉体の作用ではなく、従って精神は第一次的のものである。(レーニン「史的唯物論」)
唯物論に立つと従来の道徳や伝統は無価値となる。その代わりに脳髄を物質として制御し各個人の精神を望ましい方向に向けさせる必要がある。しかし現代の脳科学はそこまで進歩していない。唯物論は時期尚早である。必ず無道徳に陥る。
唯物論者は唯心論に戻らなくても、物質以外の文化や伝統に価値を見出せばよい。なぜ文化や伝統に価値があるのか。それは人間を超越する何かがあるからである。唯物論は簡単に宗教容認論となる。中国共産党は儒教、道教、仏教を民衆に奨励すべきである。自身も信仰すべきである。それにより党内の対立や腐敗も克服できる。
ここで脳髄を制御するとはずいぶん恐ろしいと思う人も多いことであろう。薬物や電流で刺激するか昔のロボトミー手術みたいなことをするのだろう。しかし現在行われている遺伝子組み換え、化石燃料の消費、原子爆弾はこれに匹敵する。唯物論では精神は脳髄の作用なのだから禁止する理由はない。
西側諸国では精神を望ましい方向に向けさせることはせず、性格は低劣だがより利益を上げるのに適した人間に改造するであろう。共産主義も資本主義も唯物論の恐ろしさに気付く必要がある。
四月ニ十七日(日)(宗教も堕落する)
宗教も無道徳に陥る。戒律に一番厳しいはずの上座部仏教でもその歴史は堕落と立て直しの繰り返しであった。チベット仏教も堕落した期間はかなりあったことであろう。人民解放軍がラサに入城したときに農奴や貧しい民衆など仏教とは正反対の政治が行われていた。
チベットの自治は拡大したほうがいい。しかし僧侶は政治に関わってはならない。仏教精神による政治が行われるよう為政者に説法することは良いことである。
四月ニ十八日(月)(ダライラマの政治)
中国の国際広報ページには次の記事が載っている。
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ダライが統治していた封建農奴制時代の西蔵で、政治がいかに腐敗し、いかに遅れた生活が送られていたかがわかる。
封建農奴制時代の西蔵では、人口の5%に満たない官僚・貴族・上層寺院が、ほぼ全ての土地・草原・山林と大部分の家畜を所有し、人口の95%以上を占める農奴や奴隷に対して非常に残酷な統治を行っていた。重い労役と厳しい税金のほか、目をつぶしたり手や足を切り落としたりする残酷な刑罰もあった。封建農奴制時代の西蔵において「人権」とはすなわち官僚・貴族・上層の僧侶の人権であり、農奴の持ち主は農奴の賃貸・譲渡・担保化・贈呈をする圧倒的な権力を握っていた。
- 農奴制の「人を食う」本質を訴える西蔵(チベット)自治区の日喀則(シガツェ)出身の多扎瓦さん。農奴だった多扎瓦さんは、農奴主の息子に「生きた標的」としてもてあそばれ、左腕を撃ち落とされた。働けなくなった多扎瓦さんは農奴主に追い出され、ちぎれて乾ききった左腕を持ったまま、物乞いをして回ったという。民主改革後、多扎瓦さんは病院で傷口の治療を受け、土地・家屋・家畜・生産用具を配布され、安定した生活を送ることができるようになった。
- 数世紀にわたり、チベットは人を魅了し、多くの幻想的な小説や物語にとってインスピレーションの源泉となってきた。地域的に遠いところ、そしてチベット人が信仰する仏教が、異国情調と摩訶不思議な境地を求める西側の想像力を育んできた。しかし、こうした神話が人びとに現実を忘れさせることがあってはならない。ロマンチックな親チベット派は不快に思うかもしれないが、私たちはやはり指摘しなければならない。1949年前のチベットは彼らが言う楽園にはほど遠かった。そこにはただ純朴と善良、満面に笑みを浮かべた生活があり、心落ち着いた生活を送り、人びとは宗教活動に専心していた。この種の論調を宣伝するのは、チベットの現実の別の側面を覆い隠そうとするものに違いない。チベットはこのような地区なのである。そこでは、権力を失うのを恐れるため、寺院はすべての改革を妨害した。貴族階級はその特権を死守するため、様々な陰謀を画策し、互いに暗躍した。さらには、政教一体の執政者は農奴制度を合法化した。そこでは、農奴は売買され、譲渡され、交換され、「話しをする馬」として働かされ、「人」として扱われなかった。
- 1950年、日本の占領者が国土から駆逐された後、国家の大部分の領土を解放したばかりの中国人民解放軍がラサに進出し、一連の改革の嵐を巻き起こした。そのなかで最も重要なのが農奴制の廃止であり、多数の農奴を再び「人」に変わらせた。
中央政府と地方政権を当時掌握していた執政者が北京で交渉したが、ダライ・ラマも参与し、多くの項目で双方は合意に至り、寺院とその他の権勢者に極めて大きな自治権が与えられた。日を追うごとに権力を失っていく高僧や貴族はまず1956年、続いて1959年に反乱を起こす。ダライも自ら、反乱は米中央情報局が資金と武器を提供したものであることを認めている。反乱失敗後、その指導者はインドのダラムサラに逃亡した
。
- 喜饒尼瑪副校長は「旧西蔵の地方法典では、チベット仏教のみが信仰・普及されるべき宗教であり、他のいかなる種類の宗教も崇拝・信仰されてはならず、宗教信仰の面で著しい強制性を有していた。新中国成立前の西蔵の社会形態は封建農奴制だった。その法制度は人権保障面でもこの世界の普遍的な共通性から抜け出せず、無数の農奴は基本的人権を欠き、従って生存権もなく、ましてやいかなる政治的権利その他の権利も口にすることはできなかった。だが『中華人民共和国憲法』では、宗教信仰の自由は公民の基本的権利の1つとされている」と述べた。
- 「ヒンズー教徒報」編集主幹の那拉希漢・拉姆(音訳)氏は「中国に対するダライ(ダライ・ラマ14世)集団の多くの告発は事実と矛盾する。西蔵地区には寺院を始め1700余りの仏教拠点があり、4万6千人の僧尼がいる。3千人のイスラム教徒のために4つのモスクがあり、700人のXX教徒のために1つのカトリック教会があり、宗教活動を行い、信徒達の必要を十分に満たしている」と指摘した。
これらはダライラマの主張とは正反対である。ダライラマ側に反論すべきことがあれば反論し、その上で中国政府側にも文化大革命など過ちがあったのだから、双方で過ちを許し合う必要がある。
四月ニ十九日(火)(ダライラマの主張1)
一方の主張だけを見るのは公平ではない。ここでダライラマ側の主張ダライラマ法王日本代表部事務所のページも見てみよう。
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現在までにチベット全体で750万人もの中国人が中国本土から送り込まれており、既に600万のチベット人人口を上回っています。中国が「チベット自治区」とよんでいる中央及び西部チベットにおいては、中国側の資料もチベット人が既に少数派になったことを認めています。
これに対し中国側は
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ダライ・ラマグループは今年3月にインドで「移民によって非チベット族人口を急増させ、チベット族の人々は自分の土地で少数民族に成ってしまった」と発言したが、実際には2007年末までに、チベット総人口の中に占めるチベット族と他の少数民族の割合は95パーセント以上に達した
と述べている。どちらが正しいのか明らかにしてほしい。次にダライラマ側は
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チベットはウ・ツァン、カム、アムドの3つの地方で構成され「チベット自治区」はチベットの広大な土地の半分にも満たず、総チベット人人口の三分の一に過ぎない
と主張する。これに対して中国側はチベット研究センター廉湘民氏が次のように反論する。
- 歴史上、いわゆる「大チベット地区」は存在したことがない。
今日、チベット族が集中して暮らしている地域でそれぞれ設置されている自治地方に含まれる自治区1、自治州10、自治県2という行政区画制度は長い歴史発展の過程の中で形成されたものである。
- 唐代(西暦618-907)において、トバン(吐蕃)王朝はトバン部族が青海・チベット高原地帯及びその周辺地域に暮らしていた各民族、部落と連合して共同でうち立てた多民族の政権であった。
- 元王朝の時期(1206-1368)に、チベット地方は正式に中央政府行政の管轄下に組み入れられ、元王朝はチベット地方でウスザンナリスグルソン(烏思蔵納里速古魯孫)三路都元帥府を設置し、つまりウスザン宣慰司がチベット地方を管轄し、その他のチベット地区でそれぞれトバン等路宣慰使司都元帥府とトバン等処宣慰使司都元帥府を設置し、それぞれドガンス(朶甘思)とスマ(思麻)地区を管轄した。
- 清の雍正4年(1726年)、清王朝の朝廷はチベット地方における政治的混乱に対応して、チベットと周辺の四川、雲南、青海などの省・地区の行政区画を調整し、バタン(巴塘)などを四川省に組み入れ、ツォンディェン(中甸)に近く、もとはバタンの管轄下にあったベンドラ(奔朶拉)〔ベンズラン(奔子欄)〕、チゾン(祁宗)、ラプ(喇普)、ウィシ(維西)、アドゥンズ(阿墩子)などを雲南省の管轄下に組み入れ、アドゥンズとリタン(里塘)、ダジェンル(打箭炉)〔今の四川省のカンティン(康定)〕に互いに牽制させ、カンティン(康定)・チベットの情勢をコントロールした。この調整によって清王朝のチベットとその他チベット地区を管轄する行政区画の基本的な枠組みが形成された。
四月三十日(水)(ダライラマの主張2)
ダライラマ側が2000年に発表した「新社会主義文化によるチベット文化の破壊」には次のようなことが書かれている。
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1988年、北京で開かれた中国チベット学研究センター第一回会議で、故パンチェン・ラマはこう語った。「チベットでチベット語を使うには、チベット語を学ばなければならないと言わざるを得ないのは恥ずかしいことだ。1300年以上も、母国語であるチベット語と上手につきあってきた国が、共産党による解放後、たった20年で完全に自分の国の言葉を失ってしまった。これが、チベットでのチベット語使用を促進する訴えをしなければならない理由である」
- 現代チベット一流の文化人・識者であり、中国にも「国宝」として認められていた故ドゥンカー・ロプサン・ティンレー(Dungkar Lobsang Trinley)は、チベット語発展の強力な活動家だった。1992年に亡くなるまで、ドゥンカーはチベット語の苦境に対して多大な懸念を表明してきた。以下はその一部である。「私たちは危険地点に到達してしまった。今日チベットでは、過去40年に及ぶ民族グループ政策の明確な目的にもかかわらず、チベット語に堪能な人々が減少しつつある。政府の全役所、会議、公用文で使われる第一公用語がチベット語であると宣言されているにもかかわらず、あらゆる場所で中国語が仕事で使われている」
- 1980年5月、全国少数民族省の国家委員会を率いるヤン・ジンゲン(Yang Jingren)は、「曖昧な一般化や専横的な均一性ではなく、民族性と地域の現状に則して物事を進めていかなかればならない」と語った。しかし、実際には、チベット文化よりも、中国文化の知識を伝えるための教育カリキュラムがあつらえられている。その後1994年、中国はチベットに義務教育政策を適用した。しかし、チベットの人々には有益ではなかった。政府が1984年以前の経済政策を変更しなかったためである。この政策は、地方の住民に各自で小学校教育に資金を出すことを要求し、県レベルの行政から資金算出と教師の給料のための最小限の助成金が出るにすぎない。チベット人の大多数が地方に住んでいるため、これらの経済政策は不利に働き、チベット人は義務教育政策の恩恵に浴することができなかった。ほとんどのチベット人は子供を学校にやるだけの余裕がなかった。1994年6月4日、チベット自治区当局議長ギャルツェン・ノルブ(Gyaltsen Norbu)は「TARの子供の3分の1が学校に通うゆとりがない」と認めた。1984年以前の経済政策は、地方と都市部に極端な教育格差を生じさせた。より多額の政府資金を受ける学校は、中国人が圧倒的多数を占める都市部にある。
- 中国白書は、中国政府の過去数十年に亘るチベットでの教育実績に関する感動的な統計を誇りにしている。ただし、「チベット自治地区」他、青海省(アムド)とカムのチベット地域がいまだに中国の教育指標の最下位に属し、中国で最も遅れている貴州省より更に遅れているということには言及していない(中国人間開発報告書1997年版より)。つまるところ、1959年以来中国政府がいかに多くの施設をチベットに開発しようとも、チベット人教育の最優先目標は常に、中国への政治的忠誠を奨励することだったである。このことは、1994年の「チベット自治区」教育会議での「チベット自治区」党書記長陳奎元(Chen Kuiyan)の演説に明確に反映されている。「教育の成功は、大学や高校の卒業生に出された卒業証書の数にあるのではない。最終的には、我々の卒業生がダライ・ラマ派に反発するか、共鳴するかにあるのであり、我らの偉大なる母国ならびに偉大なる社会主義的目的に忠実か無関心かにある」
- チベットには世界最古かつ最も高度に発達した独自の伝統的な書き言葉があるにもかかわらず、チベット当局は、中国語がチベットのマスメディアでは優勢だとして中国語を頼りにしている。チベット人民放送局とラサ・テレビジョンは放送時間のほとんどを中国語で放送する。また中国白書が公言するように、チベットで発行されている合計「52の新聞と雑誌」のうちチベット語で出ているのはたったの「14誌と10紙」にすぎない。あまり知られていないが、おかしなことに、チベットの最大紙チベット・デイリーのチベット語版リポートと記事の大半は、前日に出た中国語版の翻訳にすぎない。
- 「6600もの書籍」を発行したとする主張についてだが、共産党の公的路線から逸脱した本は一冊も出ていないというのが周知の事実である。国家のプロパガンダにあえて意義を唱えようものなら、その作家は失職し、「反革命的」プロパガンダを支持したとして刑務所行きになるだろう。チベットから出ている刊行物のほとんどが、チベットの歴史と文化に対するチベット人の見解を嘲り、一部はあからさまにチベットの歴史、文化、伝統的な智慧を馬鹿にしている。ニュースメディア同様、チベットの出版事業はチベット文化発展に貢献しない。チベット人を無知なままにして、共産主義支配者の服従下に押さえ続けているだけである。
五月ニ日(金)(実際のチベット)
ダライラマ自身が著書「ダライ・ラマ自伝」で次のことを認めている。
- 華国鋒がティベット人の風習の全面的復活を呼びかけ、この二十年来初めて年長者がジョカン寺院の巡回礼拝を許可され、民族衣裳の着用も許された。
- パンチェン・ラマが、ダライ・ラマ並びにその同調者に帰国を呼びかける声明を発表した。「もしダライ・ラマがティベット民衆の幸福と繁栄を真に願うなら、この呼びかけを疑う必要はない」といい、また「ティベット国民の現生活水準は古い社会のときより数倍も良くなっていることを保証する」ともいった。
ダライラマ側の宣伝が実際とはかなり異なっていることがダライ・ラマ自身の言葉から明らかになったが、一方で華国鋒が風習の全面的復活を呼びかけたのは、その前は復活していなかったということだから、中国側の対応にも問題があった。
五月三日(土)(問題発生の理由)
問題が発生した理由は以下の3つである。
- 西洋の石油消費文明による生活様式の激変。これは日本や中国、インドなどアジア各地で起きている。
- イギリスがインドに進出し更にチベットを狙った。これでチベットと中国の関係が破壊された。
- 共産主義に入り込んだ残虐性と唯物論。しかし残虐性は資本主義と植民地主義に原因がある。
つまりチベット問題は西洋文明が諸悪の根源である。
五月八日(木)(欧米かぶれ一族)
気になるのはダライラマ一族の欧米かぶれである。ダライラマの長兄は1951年に米国籍を取得し、1956年にダライラマが仏暦2500年記念祭でインドを訪問したときに米中央情報局(CIA)と連絡を取りインドに残留させた。
次兄も1951年に米国籍を取り、米政府とCIAに勤務した。その後ダライラマ駐米国ニューヨーク事務所の初代代表に就任した。
三兄もダライラマ駐ニューヨーク事務所の代表を務め、米国籍を取得した。
ダライラマ自身も、やたらと英語を使う。先日の成田空港の記者会見(本人は英語。日本語通訳付き)では、手を上げた質問希望者の中からダライラマ自身が指名した。出席は日本人記者が圧倒的に多いのに指名されたのは欧米人が多かった。
ダライラマが欧米かぶれを改めれば、チベット問題は瞬時に解決する。
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