102-1、作家X1(麻生首相、民主党管直人代表代行、共産党三上氏)

平成ニ十一年
四月十五日(水)「東京都特別支援学校第17回総合文化祭」
東京都特別支援学校総合文化祭が一月に行われた。いろいろな部門があり開催日と会場はそれぞれ異なっている。舞台芸術・演劇部門は十二日に池袋の東京芸術劇場中ホールで開かれた。この日は成人の日でもあり、着飾った若者で大ホール前は溢れていた。
対する中ホールは非常に地味ではあったが、出演者の熱演と観客席の暖かい声援は大ホールを圧倒したに相違ない。
南大沢学園特別支援学校の演じる「~銀河鉄道~ 心の宝ものを探しに」を見て、「よし、次は作家Xを特集しよう」と決意した。この演劇は、子供たちが見知らぬおじいさんに会い作家Xの故郷の岩手県を瞬時に旅するという内容であった。
それから三ヶ月、作家Xの著作、作家Xを論評した書籍、作家Xが所属していた国柱会の書籍を計七十冊ほど調べた。

四月十六日(木)「心象スケッチ」
作家Xが生前に出版した「春と修羅」は心象スケッチである。詩集ではない。日本では短歌、俳句、漢詩がずっと作られてきた。明治維新の後に詩と称する分野が現れた。しかし日本人の作った文章をこれは詩、あれは小説と西洋式に区別すること自体がおかしい。例えば私のホームページだって、詩といえば詩だし小説といえば小説といえなくもない。
今から500年後にどれだけの現代詩が残るだろうか。作家Xは心象スケッチを試みた。そして宇宙全体が一つの共同体即ち生命であり、自分の心象はその一部として活動していることもいいたかったのであろう。
作家X自身には、詩を書くという意識があった。それは明治維新以降の西洋文学の猿真似という時代背景を考えれば、避けられないことであった。しかし「春と修羅」を読めば、その当時流行していた詩の形式ではない。

四月十七日(金)「雨ニモマケズ」
作家Xは無名のまま亡くなった。その直後に「雨ニモマケズ」が発見されあっという間に日本有数の文学者に押し上げた。作家Xの最高傑作である。ところがこの作品に文句を付ける人がいる。今回作家Xを調べていて改めて思ったのだが、人間には二種類いる。世の中を良くしようという人と、悪くしようという人である。後者は虚無主義(ニヒリズム)と言ってもよい。
「雨ニモマケズ」を他の作家Xの作品と比べて文学的、学術的に批評するのは問題ない。今問題にしているのは邪悪な下心を持って、作家Xと「雨ニモマケズ」を批判する連中である。

四月十八日(土)「押野氏の悪書を評す1」
北海道大学准教授押野氏は許しがたい。作家Xに関する書籍で 更には坂口安吾まで持ち出し と場違いな主張を繰り返している。この男の作家X嫌いは偏向がひど過ぎる。 差別はするほうが悪い。ところが押野氏によれば、されるほうが悪いらしい。

四月十九日(日)「押野氏の悪書を評す2」
作家Xは労農党を応援していた。労農党の関係者が支部の事務所についてと語っている。 作家Xの童話に「カイロ団長」がある。

「今日は石を運ばせてやらうか。おい。みんな今日は石を一人で九十匁づつ運んで来い。いや、九十匁ぢゃあまり少いかな。」 「うん。九百貫といふ方が口調がいゝね。」
(中略)
あまがへるはみなすきとおってまっ青になってしまひました。それはその筈です。一人九百貫の石なんて、人間でさへ出来るもんぢゃありません。
(中略)
「王さまの新らしいご命令。王さまの新らしいご命令。一個条。ひとに物を云ひつける方法。ひとに物を云ひつける方法。第一、ひとにものを云ひつけるときはそのいひつけられるものの目方で自分のからだの目方を割って答を見つける。第二、云ひつける仕事にその答をかける。第三、その仕事を一ぺん自分で二日間やって見る。以上。その通りやらないものは鳥の国へ引き渡す。」


とのさまがえるはあまがえるの十倍大きい。体重に比例させて二日間試すことは当然である。ところが押野氏は
王の理不尽な命令によって、とのさまがえるが「九千貫目」の石を運ぶ羽目になる
と言い放っている。理不尽なのはとのさまがえるだ。そのため自身も九千貫の石を運ぶ羽目になった。この童話の最後であまがえるととのさまがえるは仲直りする。好い話である。押野氏がなぜ批判するのか分からないし、強いて理由を探すと、大江健三郎や野坂昭如や坂口安吾や押野氏のような人間にとってはこのような労農党的な政策とさいごに仲直りする共同体主義が不快なのだろう。
押野氏は「雨ニモマケズ」についてもくだらぬパロディーを書いた上に、
他者のために東西南北奔走する献身的な人間が「デクノボー」などと呼ばれることがあるだろうか
と見当違いな批評をしている。

四月二十日(月)「押野氏の悪書を評す3」
押野氏は著書の最後で
こんなタイトルで出版したら、私の真面目な研究者のイメージ(?!)が壊れるのでは、と心配もしたのである。
と述べているが、タイトルばかりではない。内容がひどすぎる。作家Xを扱った数百冊、あるいは一千冊を超える書籍の中で多少はこのようなものも出てくるだろう。本来は捨て置けば済む話である。しかし押野氏は北海道大学准教授の肩書きで書いている。本来は肩書きを書かず実名では准教授と分かってしまうから筆名で書くべきだ。世間の人は大学の准教授の書いたものだから正しいかも知れないと思ってしまう。国立大学は法人化されたとは言え、多額の税金がつぎ込まれている。押野氏のように下品で偏向した説を主張する男に税金で給料を払う必要があるのだろうか。

四月二十一日(火)「全労連議長三上満氏1」
日本の労働組合は連合、全労連、全労協の三つに分かれている。あまり大きな声ではいえないが、もっともまともなのが全労連である。しかし共産党系なので共産党員以外には息苦しいかも知れない。
この全労連の議長であり都教祖委員長、全教委員長でもあった三上満氏の「野の教育者・作家X」は優れた著書である。 100%同感である。
しかしこれらの状況を放置したままで序列化と無関係な教育を行うと、生徒およびその両親に不利となる。全教の組合員が教えた生徒は成績がいい、と世間から評価される一方で三上氏と同じ主張を全力で行う必要がある。

その一方で、同意できない部分もある。

四月二十二日(水)「全労連議長三上満氏2」
三上氏は次のように主張する。 これも100%同感である。ただし三上氏は作家Xが法華信仰を超えてタゴールと成瀬仁蔵の思想を信奉するようになったという山根知子さんの 説を信じてこう述べている。山根説には反対である。それより気になるのは次の部分である。
四月二十三日(木)「全労連議長三上満氏3」
資本主義により精神的な富が大きく歪められたのは事実である。しかしソ連や東欧や中国でも精神的な富は回復できなかった。それどころか政権抗争や粛清、官僚主義など精神的な貧困が問題となった。
精神的な富は文化に依存する。そして文化は歴史に依存する。これらを無視して欧米の猿真似を続けた結果、明治政府は大東亜戦争に突入したし、戦後は精神が不安定な社会になった。戦後はたまたま石油の大量消費により不安定が隠されている。共産党は文化、歴史を重視するよう転換すべきだ。否、石油の消費を止めれば、すべての政党はそうせざるを得ない。

四月二十四日(金)「ノートルダム清心女子大学准教授山根知子女史」
昨夜帰宅すると、「国際ギデオン協会より贈呈」と書かれた新約聖書が3冊置いてあった。中学校の前で配布していて、しかも友人が何冊かもらったため我が家も3冊になったらしい。聖書は一家に一冊あればよい。複数もらった家庭は友人に配布するなど贈呈してくれた人たちの善意を無駄にしてはいけない。私は布教活動をする人は宗派教派を問わず好きである。
しかし日本XX教文学会会員であり作家X学会イーハトーブセンター会員の山根知子さんの著書は好きになれない。山根さんは本当にXX教徒なのか、単なる欧米かぶれと唯物論者ではないのか。特に悪いのが作家Xの
信仰を一つにするたったひとりのみちづれのわたくしが

を妹とし子の信仰を同じくする作家Xが、と解釈し、とし子は日本女子大学在学時からタゴールや成瀬仁蔵を信仰したから、作家Xも実はタゴールを信仰していたというのである。作家Xの作品にはタゴールや成瀬に限らず多数の同時代人の影響が見られるが、それは当然である。毎日のニュースにも影響されよう。読んだ本の影響もあろう。それはどんな作家にも見られ、しかしそれらは信仰ではない。
妹とし子を中心に書いたからみちづれのわたくしという表現になったのであり、もしとし子を通してタゴールや成瀬仁蔵を信仰するのだったらそのような記述が他の作品にも多数あるはずである。信仰には強いときと弱いときがある。とし子の死の直後は極めて信仰が強く、独自に葬儀を行い國柱會に分骨した。そしてこの文章は死の直後に書かれた。
作家Xが所持していた國柱會の本尊には「此経則為閻浮提人病良薬」(此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり)「若人有病得聞是経病即消滅不老不死」(若し人病有らんに是の経を聞くことを得ば病即(すなわ)ち消滅して不老不死ならん)というX経の文言が書かれている。このとおりにならなかったのだから後に信仰が一時弱くなったことは考えられる。しかし作家Xが生涯に亘って國柱會を信仰していたことは事実であり、特に自身も発病の後は極めて強く信仰している。とし子は國柱會の会員ではないが、家族で唯一信仰を理解していた。
國柱會は田中智学の死後、山川智応の本化妙宗連盟、里見岸雄(田中智学の三男)の立正教団、その他正法会などに分裂した。残った國柱會も昭和55年あたりから布教活動をせず墓地葬式業と堕している。これ以後、作家Xの時代を國柱會、残存組織を国柱会(現代)と区別することとする。

四月二十五日(土)その一「国内のXX教徒への希望」
世界にはXX教のほかにイスラム教やヒンドゥー教、儒教、道教などいろいろある。これは日本のXX教徒の責任ではないが、なぜ日本はXX教だけが目立つのか。そこには明治維新後と終戦直後の混乱期における欧米かぶれという日本の暗部がある。
しかしその後現在まで信仰を続けられる社会に感謝し、どうすれば日本および東洋に調和した信仰となるかを模索してほしい。まちがっても西洋かぶれの手引きとなってはならない。

四月二十五日(土)その二「立正大学文学部長、学監、久保田正文氏1」
久保田正文氏は社会宗教学者でありX宗の僧侶でもある。大正15年から昭和4年までイギリスに留学し、X宗教務部長、立正大学文学部長、立正大学学監、X宗現代宗教研究所の初代所長を務め昭和61年に亡くなった。X宗現代宗教研究所は昭和37年に当時会員数を急増させていたXX会対策で作られた。要するに久保田氏はX宗の最高知恵袋である。その久保田氏が「作家XとX経」で南伝仏教の悪口を言っている。 釈尊が入滅の後に弟子たちはその教えを受け継いでいった。時代がかなり経つにつれ堕落と教義の教条化が起きた。しかしそれはかなり後の話である。入滅直後の弟子たちを批判するようでは仏教徒とはいえない。戒律は釈尊の時代に作られた。その戒を批判するようでは久保田氏は僧侶とはいえない。
作家Xを論じる人の中に久保田氏以外にも「小乗仏教」「小乗仏教」と南伝仏教を批判する人が多い。釈尊入滅後かなり時代が経ち、堕落と教義の教条化を起こした部派仏教を当時の人が小乗仏教と呼んだことは当然である。しかしその後に部派仏教も幾度の変革を遂げ、今ではタイ、ミャンマー、カンボジア、スリランカなどで民衆の支えとなっている。そのことは現地に行ってみて信徒と親しく語る僧侶を見れば、あるいは日本でも千葉県の成田(タイ仏教)や香取(スリランカ仏教)や東京の三河島(タイ仏教)、その他日本国内に幾つかある上座部仏教寺院に参詣すればすぐわかる。
日本の仏教は寺請け制度と僧侶妻帯と世襲で堕落した。これらこそ小乗仏教である。

四月二十六日(日)「立正大学文学部長、学監、久保田正文氏2」
戒律は釈尊が定めたものであり、久保田氏の一般人にはできないことを行ったり、説いたりして、一種の権威を作ろうとしたは不当な言いがかりである。そしてこの言いがかりはプロテスタントがカトリックを批判するときのものとそっくりである。欧米に留学するとこのような猿真似人間になってしまう人が多い、という悪い例が久保田氏である。
部派仏教の時代に多くの学説がそれぞれの部派に発生したのは事実である。わざわざH・G・ウエルズなる西洋人を持ち出す話ではない。

四月二十七日(月)「作家Xと國柱會は国家主義ではない」
作家Xが東京に出てきて國柱會の活動を行いながら勤務先の印刷所について
社会の富の平均よりも下のほうに居る人はこゝでは大抵過激派で上は大抵国家主義者やなにかです
と手紙に書いている。つまり作家Xと國柱會は決して国家主義ではなかった。
北原白秋の奥さんは國柱會の会員でしかも田中智学の秘書であった。北原白秋自身も國柱會を親しく訪問している。また、昭和50年代に日本医師会の会長であった武見太郎氏は戦後國柱會に入会し、武見氏のご子息は自民党の国会議員で一昨年の選挙で落選した。そもそも武見氏は麻生首相の親戚である。
民主党の菅直人代表代行の秘書と品川区議を経て前回の参議院選挙に民主党から立候補した山村氏はXX宗の元宗務総監故大東院日明の孫だか、山村氏が所属している寺は明治時代に日本で最初の国旗掲揚台が作られ住職が亡くなったときは国旗掲揚台の住職がなくなったと一般紙にも載ったという記事が昭和20年代の聖教新聞に載ったことがある。
つまり、國柱會に限らずどの団体も明治政府に便乗して布教活動を行っていたし、そのことは戦後の昭和50年あたりまでは変でも何でもなかった。明治政府が偏向していたのは事実だが、マッカーサーの占領政策が功を奏し昭和45年あたりから日本が偏向していったのも事実である。


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