90、すべての国民はニワトリからアヒルを目指せ
平成ニ十年
七月二十一日(月)(ニワトリからアヒルへ)
「昔陸軍、今総評」とまで言われた総評も、最初はGHQの肝いりで生まれた。戦後まもなく産別会議という共産党系の組織が結成された。共産党を用いて日本を弱体化するGHQの思惑とも一致していた。まもなく産別会議から総評が分裂した。米ソ対立が起き、これもGHQの筋書きどおりであった。
しかし総評は第二回大会で「ニワトリからアヒル」に変化した。ひよこを育ててチキン料理にしようと思っていたところ、アヒルになってしまった、という訳である。
大会宣言は冒頭から次のように始まる。
講和を前にして今や日本は民族の完全独立と平和をかち取るべき重大な段階に到達した。
この時に当りわれわれ労働階級の結集体たる日本労働組合総評議会は輝ける第二回全国大会を開き(以下略)
七月二十ニ日(火)(総評)
昭和50年以降に生まれた人たちには想像もできないでせう。春になるとほとんどの産業がストライキをしたことを。JR(当時は国鉄)や私鉄も止まつた。総評というのは本当に戦前の陸軍くらいの力を持つ組織だつた。
しかし総評と社会党は昭和35年には既に解体の萌が見られる。
「想像もできないでしょう」では文章が軽薄なので正かなづかひを用ゐました。正かなづかひと文語体を復活させずして日本語は回復しない。
七月二十四日(木)(森戸稲村論争)
昭和二十四年に森戸稲村論争が起きた。清水慎三氏の名著「日本の社会民主主義」によると次のようになる。私の考えに近いほうを紫色にしてみた。
論点 | 森戸 | 稲村 |
社会党の性格 | 勤労国民大衆の党 | 勤労階級政党ないし労働者政党 |
社会主義革命論 | 経済的社会的文化的変革の全過程 | 政治権力が一つの階級から他の階級に移動すること |
社会民主主義 | マルクス主義と対決する社会民主主義 | 第一次大戦前後の改良主義とは異なる |
七月二十五日(金)(不完全な論争)
この論争は不完全なものだった。西欧現代社会民主主義がよいのかマルクス主義がよいのかという西洋思想猿真似論争だった。
社会党が如何に欧米、とくにこの当時はGHQの影響下にあったかを清水氏の著書から引用しよう。(明日以降も緑色の部分は同氏からの引用である)
- 西尾末広氏が社会党結党の盟友平野力三氏(片山内閣の農相)を追放した一幕はその適例である。総司令部民政局と提携した西尾氏が第八軍(司令官アイケルバーカー中将)と結ぶ平野氏を蹴落としたと一般に言われているが、そのやり方は吉田茂氏が首相時代鳩山一郎氏や石橋湛山氏を追放問題との関係で総司令部を利用して翻弄した手口とまったく同じ性質のものであった。
七月二十六日(土)(社会党の分裂)
昭和26年サンフランシスコ講和条約を巡り社会党は左社と右社に分裂した。日本の独立を取り戻すためには条約締結が必要であった。一方で63年間を経ても米軍が駐留し日本文化は破壊され人心が荒廃した現実を見ると、反対者には先見の明があったとも言える。しかしこのときの主な争点は共産諸国を含めて講和すべきかどうかであった。
七月二十七日(日)(GHQによる洗脳)
この当時はまだGHQの洗脳が完全に国民に浸透していた訳ではなかった。
- 社会民主主義政治勢力が自らの分裂という大犠牲をはらいながらも時流に抗して---世論の大勢はダレスの「戸締り論」を認めて片面講和やむなしというところにあった---平和国民の切なる願いにこたえ、民族独立---民族問題の進歩的解決---の政治的旗手となり拠点となりえたことは世界の社会民主主義運動史のなかでも特筆されるべき光栄の一頁であった。
- 左社綱領については通常論争として取扱われ、労農派理論に基礎をおく社会主義革命論と共産党の五一年綱領に一脈通ずる民族解放民主革命論まがいの民族解放論が火花を散らし、(中略)と言われている。
- 発端となった私の反対提案(清水私案と言われた)が民族解放民主革命論ではなく民族解放社会主義革命論であった(以下略)
GHQによる洗脳を国民に浸透させたのはマスコミであった。
- 当時(1955年)マスコミはこぞってこのイギリス型政治形態を謳歌していた。ことに朝日新聞はもっとも熱心にこれを鼓吹し、その論説で「保守党は憲法改定を断念し、社会党はその外交方針の基礎を自由陣営におけ」と共通基盤を指示するほどの熱の入れようであった。
- 経済同友会もこれに和するが如く「保守党には近代化」「社会党には現実化」を説いていた。
- マスコミに伝統的弱さをもつ社会党の議員層も、口に出すか出さないかは別にして、その多くはこの思想==幻想に急速に傾斜しつつあった。
- 多数を数える社会党議員の選挙における浮動票依存を決定的にし、マスコミ攻勢の前には常に「風にそよぐ葦」の如くゆれ動く状態を反映させ(以下略)
七月二十八日(月)(社会党が政権を取る唯一の方法)
「日本の社会民主主義」が名著たる所以は、当時の社会党を多数派と成し政権を取る方法が書かれていることにある。この本を著した昭和36年、社会党は既に解党の坂を転がり始めていた。
- 民族問題に対する社会民主主義者の伝統的弱さについてである。その弱さは西欧社民勢力のようにブルジョア民族主義への屈服となることもあればアジア諸国の多くの社会党のように民族的課題への能力不足となることもある。
- ひとりわが国左派社会党のみはかつてサンフランシスコ体制に反対し平和四原則を掲げて民族的課題に進歩的に対応し党勢を拡大するという社民類型をのりこえた実績に輝いているのであるが、最近は社民体質のなせるわざか、それとも日本共産党へのセクト的対抗意識の結果なのか(中略)とみに精彩をかいてきた。
七月三十日(水)(変化した資本主義)
資本主義は変化し、それは社会民主主義をも変化させた。
- 現代資本主義---資本主義の形態変化---が社会主義運動に投げかけたもっとも大きな波紋は、第二次世界大戦後の社会民主主義勢力の主力を「階級闘争と社会主義革命」から思想的に離脱させ、倫理綱領に立脚する民主社会主義===現代西欧型社会民主主義に移行させたことである。
- これまでの社会民主主義者はその最右翼を含めて、資本主義経済では階級による階級の搾取を避けることができない、生産の無政府性-->生産と消費の矛盾-->経済恐慌-->大量失業を防ぐことができないという二点を少なくとも承認し、資本主義制度の変革は社会主義者の使命であると考えていた。
- そしてその移行形態論(議会制民主主義を鉄則とするかどうか、さらにはプロレタリアート独裁を承認するかどうか、それも一党独裁を承認するかどうか)で、共産主義者と対立し、社会民主主義内部でも左右の対立があったのである。
- だが民主社会主義は資本主義の変貌を主張し、これまであげていた資本主義の宿命的欠陥は二つとも資本主義の下で解決できるようになったと説くのである。
その結果
- 民主社会主義者は階級闘争の足を洗い、宗教の聖典に依拠する道徳的人道的価値の実現に邁進することを主張する。
しかしアジアと欧州は文化が異なる。長いカトリックの歴史とその後のプロテスタントや宗教戦争を経ていない。そのため宗教の聖典に依拠といっても
- 日本の民主社会党は何度も言うように泥くさい。看板はともかく戦前型社民右翼の持味ととされた組合ボス的政治家がその首脳部を固めている。
八月五日(火)(内訌の原因)
血で血を洗う内訌も、終わって20年経つと何のために多くの犠牲者を出したのか判らなくなる。幕末に南紀派と一橋派が争った次期将軍問題も、家茂の死後に慶喜が継ぐと、判らなくなった。攘夷を掲げた薩長は維新後に開国派となった。
海外に目を向けても、ベトナム、ラオス、カンボジアの内戦は何のためだったのか今となってはまったく判らない。
内訌の原因は2つある。
- 欧米の影響
- 私利私欲
左社と右社の分裂もその典型であった。右社がGHQの民政局や第八軍と組み、左社も日本の独立を心配する人は少数派で、その多くはソ連と組みたいだけであった。
私利私欲も当てはまる。国会議員は一種の貴族である。三日やったら辞められない。左社は右社との統合に備え、有利な左社綱領を考えていた。清水氏の私案は採用されなかった。左社も右社も自分の議席の安泰だけを目論んでいた。
八月六日(水)(欧米思想の終焉)
黒船が現れたため、日本は安政の大獄、井伊大老暗殺、物価狂乱、内戦と混乱した。明治維新後も西南の役、小作農の困窮、秩父事件、足尾銅山など環境破壊、4つの戦争(日清、日露、第一次、第二次大戦)と混乱の連続であった。
欧米の真似をしていいことは何もない。列強の真似をした日本と、共産主義の真似をしたベトナム、ラオス、カンボジアは、大きな被害を受けた。
地球温暖化の今こそ、欧米思想は資本主義もマルクス主義もすべて化石燃料消費による生産力向上を前提としていることに気付くべきである。
アジアは石油燃料の消費を停止するよう欧米に主張すると共に、アジア各国の歴史を断絶させない政治を目指す必要がある。
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