55、唯物論を考える

平成十八年


ニ月二十一日
唯物論とは恐ろしい思想である。
そして現在の日本において最も有力な唯物論勢力は(1)経団連、(2)欧米かぶれの人たち、(3)新興宗教である。今回はこの問題を取り上げよう。

ニ月二十ニ日
まず新興宗教から始めよう。教祖が空中に浮いた拝めば病気が治る教団に金を払えば金持ちになれる等の類は唯物論である。科学的に証明できるものが科学、できないものが新興宗教、それだけの違いである。
従来の神社仏閣でも祈祷を行う。伝統各派では逆に、祈祷を行わなければ唯物論となる。単なる儀式、過去の遺物となってしまうからである。

ニ月二十五日
海外に製品を輸出する目的は国民が食べてゆくためである。ところが意味もなく輸出を続け、それを起因とする円高で地域の産業を蝕み進入するアメリカ文化で際限なく人心を破壊する。経団連と欧米かぶれの人たちは典型的な唯物論者である。
自由と民主主義を誉める人はいても、資本主義を誉める人はいない。誰もが資本主義の欠点を知っているからである。資本主義に代わる制度がない以上、株主は健全な事業で社会に貢献するという強い意志を持つ必要がある。そういう者しか株を所有できないという法律を作ってもいいくらいである。日本経団連は唯物論と決別する必要がある。

ニ月二十六日
欧米かぶれの人たちは何故唯物論なのだろうか。それは人は食料のみで生きるに非ざるからである。信仰が必要と答える人もいよう。しかしその信仰が科学的に証明できないだけのものだとすると、それは唯物論と同じとなる。人は過去の先人達が築いた文化を後世に伝えるために生きる、これが人類滅亡が目前に迫った現代では正解であろう。
これらとは異質の欧米かぶれは、食料さえあればいいとする典型的な唯物論である。

ニ月二十七日
日本では旧革新勢力が唯物論であるかのように云われてきた。その為、経団連や欧米かぶれの人たちが見逃されてきた。これらを実存主義、プラグマティズム、新実証主義、ニヒリズムと呼ぶこともできよう。しかし実態は唯物論である。

三月一日
旧革新勢力の弁証法的唯物論は実存主義やプラグマティズム、新実証主義とは異なるのだという。確かに昭和55年ころまでの革新勢力には人生観も哲学も備わっていた。選挙では社会党や共産党を応援し労働争議で「ガンバロー」を三唱する。それで多くの労働者が幸せになれたのだから決して間違いではなかった。
共産党について言えば、同党の哲学に疑問を感じた事はこれまでに二回しかない。一回目は昭和六十年頃、野生生物が滅びるのは歴史が発展した結果であってしょうがないというようなことを同党の町長だかが語ったときであった。野生生物が滅びるのは資本主義が原因であり共産党には何の責任もない。しかし哲学の相違を感じたものであった。
二回目は鯵坂真氏の「史的唯物論の現代的課題」を数ヶ月前に読んだときである。同書の第七章で牧野広義氏は加藤尚武氏の「環境倫理学のすすめ」を三つの点から批判している。これは加藤氏がマルクス主義を17ページに渡り批判したためであり牧野氏の批判はもっともである。しかし「環境倫理学のすすめ」はマルクスを批判した17ページを除きそれほど間違ってはいない。

三月ニ日
電流が流れるときには、導体内では電子が一秒間に東日本では50回、西日本では60回の割合で右に動いたり左に動いたりする。これは周囲からエネルギーが伝わるためであり電子の意思ではない。もし電子が50乃至60回の割合で動かなくてはならないという意思を持ったら電圧は200Vになってしまい家庭の電器器具は壊れてしまう。
政治運動も、例えば水俣湾の漁民が工場廃水に反対するといった具合に個々の問題について必要に迫られた人が行うべきである。人類は進歩すべきだという意思を持ってしまうと人類が長年築き上げてきた文化と伝統まで破壊してしまう。そして本当に必要な問題は無視され、運動のための運動となってしまう。労働貴族、政治貴族と呼ばれる人たちが特権を守るためだけの運動である。昭和55年あたりから社会党、総評が崩壊したのはまさにその典型であった。

三月三日
人類は進歩するだろうか。一つの矛盾を解消しても別の矛盾を生じ進歩はしていない。奈良時代は奈良時代なりに、江戸時代は江戸時代なりにそれぞれ精一杯生きてきたのである。その時代の幸福指数を計れば、今も昔も変わってはいない。現代が一番幸福そうに見えるが石油を浪費し子孫と野生生物を破壊する悪魔の世代即ち最も不幸な世代である。
高等生物は進歩し滅亡する循環過程と捉える事もできる。

三月四日
旧革新勢力の人たちは、唯物論を信奉したくて社会党や共産党に参加した訳ではない。別の理由で加わったところ社会党ではそういう雰囲気に引きずられ共産党では組織的に学習した。何となく理解できないが無知だと思われると嫌だから黙っていた。それだけであろう。
ヨーロッパではキリスト教や皇帝と対抗する必要があった。またキェルケゴールやニーチェが大衆運動に反感を感じて実存哲学が生まれた(小松摂郎氏「宗教と哲学・科学」)という事情もあった。キリストやニーチェがいないアジアでは唯物論を護持する必要はまったくない。
全国に革新知事を誕生させた市民パワーが社会党の崩壊とともにアメリカかぶれのニヒリズムに転落したことを目の当たりにするとき、唯物論はアジアには似合わない恐ろしい思想であることが判る。アジアの共産党がアジアから信頼されるためには、唯物論の放棄が重要である。それによって失うものは何もない。得る物は大きい。日本共産党を例にとれば支持率が二倍に増加するであろう。

三月六日
外国のものを取り入れるときはどのような影響があるかを十分に吟味すべきである。そして西洋思想の最も恐ろしい部分である唯物論は、財界も欧米かぶれの人も新興宗教も共産党も皆で破棄すべきである。


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