九百九十五 三つのテレビ番組(維摩経、西部邁ゼミナール、相棒)を批評
平成二十九丁酉年
テレビは一方的に情報を観る人に送り付ける。偏向しないやう最新の注意が必要なのにそれを守らない。国民に低俗な文化を伝へないやうにしなくてはいけないのに、これも守らない。出演者はテレビ放送の一方通行故に特権意識を持たないやうにしなくてはいけないのにこれも守らない。そのため今回批判することにしました。
六月十一日(日)
NHKの100分de名著で「維摩経」を特集した。私は見なかったがホームページの紹介文は偏向がひどいので指摘したい。
「維摩経」が成立したのは西暦紀元前後の頃。インドでは部派仏教と呼ばれる教団が栄え、出家者を中心にした厳しい修行や哲学的な思索が中心になっていた時代でした。仏教が庶民の暮らしから少し遠い存在になる中、リベラルな在家仏教者たちが一大仏教変革ムーブメントを巻き起こしました。
こんな駄文は民放では考へられない。まづリベラルやムーブメントと云った奇妙な外国語を用ゐては駄目だ。文章力の劣る人間は外国語でごまかす傾向が強い。感性の弱い人間は日本国内でほとんど使はれない外国語を文章に用ゐても何とも感じない。
次に外国ではリベラルは悪い意味に使ふことが多い。日本でも社会党が左翼性を放棄してリベラルになったら激減して今では絶滅寸前になった。こんなリベラルなる悪魔の単語を使っては駄目だ。
次に本題に入ると、部派仏教にせよどんな団体にせよ、組織は年月の経過とともに劣化する。部派仏教が空論に陥り、大乗仏教が登場したあとは両者併存の状態が長かった。大乗仏教もパゴダを守る在家から発生したのか、出家者はゐなかったのか、ゐなかったとしてどのやうに出家者が現れたのか、よく判らないことが多い。
現代に生きる我々としては、上座部仏教と大乗仏教が現在に至るまで続いたその長い伝統に敬意を表するべきだ。決して、リベラルな在家仏教者たちが一大仏教変革ムーブメントを巻き起こしたと云ふ安直なものではない。
この文章は最後に次の駄文で終る。
排外主義が横行し分断されつつある社会、世界各地で頻発するテロ、拡大し続ける格差……なすすべもない苦悩に直面せざるを得ない現代、「維摩経」を現代的な視点から読み解きながら、「こだわりや執着を手放した真に自由な生き方」「矛盾を矛盾のまま引き受けるしなやかさ」「自分の都合に左右されない他者や社会との関わり方」などを学んでいきます。
これが駄文な理由は「排外主義が横行し」とあるが社会から分断され駄文しか書けない組織こそ排外主義ではないのか。「排外主義が横行し」と書く行間から自分は排外主義ではないと云ふ安直な発想が読み取れる。

六月十一日(日)その二
東京MXテレビの今週の西部邁ゼミナールは、明らかに間違ひだといふ発言があった。それは和魂洋才は佐久間象山が云ったがそれは不可能で、西洋でも古いものと新しいものを繋げることはできないと云ふ。この日は三人が出席したから西部さんの発言ではないと思ふ。
西部さんは、自由と規制、平等と格差、友愛と競争など両端の均衡が必要と話され、これは同感だ。同じやうに和魂洋才は完全にはできないし、完全にできないこともない。その中間でこれも均衡が必要だ。どこを均衡点とするかは多くの意見を集約しなくてはならないのに、この出演者は一言、できない、で済ませてしまふ。その安直な発想には驚く。
西洋でも古いものと新しいものを繋げることは完全にはできないし、完全にできないこともない。日本の古いものと西洋の新しいものとの差と、西洋の古いものと新しいものの差についても、完全に異なってはゐないが、完全に同じでもない。
この三つの平衡を考慮せずただ一言、できない、で済ませた。

六月十一(日)その三
相棒12の第八話「最後の淑女」を先日観た。三年前の再放送だ。相棒が警察庁次長の息子に変った。ここからして変だ。相棒の番組は窓際族の二人の刑事が活躍する。だから観る人は喝采を送る。
内容は、著名な作家の社交クラブのメンバーの裏側を知った事務局の淑女が作家の首を絞めて殺してしまふ。社交メンバーに若き日の警察庁次長もゐたが、唯一堕落してゐなかった。ここも変だ。なぜ作家主催の社交クラブに警察官僚が参加するのか。
額縁の裏のフックが事件後の捜査では発見されず、20年を経過して主人公の杉下右京が発見するのも無理がある。警察庁次長の息子を相棒にする安直さが、作品全体の安直さに繋がったのではないのか。

昨日は相棒12の第一話を観た。警察庁次長が誘拐され、その前から犯人とネット友達だった次長の息子が犯人に電話を掛けて合ふ。絶対にあり得ない筋書きだ。警察庁次長の立派過ぎる邸宅と云ひ、趣味の悪い番組設定だった。(完)

「マスコミの横暴を許すな80」「マスコミの横暴を許すな82」

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