九百八十一(その二) 小野隆祥さんの二冊を読む
旧、小野隆祥さんの二冊の名著を読む 平成二十九丁酉年
五月二十五日(木)
(その一)の更に前の九百六十九 (その三)佐藤勝治「”冬のスケッチ”研究」(本文) 併せてNHKを批判で佐藤さんが小野さんを徹底的に批判した。佐藤さんの著書だけだとどちらが正しいか判断できないので、小野さんの「宮沢賢治の思索と信仰」「宮澤賢治 冬の青春」を読んでみた。読んだ感想は二冊とも真面目な本でしかも詳細に渡る研究だ。佐藤さんと小野さんはどちらも立派な研究をされたので、いがみ合ふ必要はないと思ふ。
佐藤さんと小野さんはどちらも内容が濃厚で、つひページ読みになってしまふ。これは賞賛としてのページ読みで、中身が薄い場合のページ読みとは逆だ。実は上座部経典を読むときと同じで、上座部経典は読んでも論蔵や後世の解説書はほとんど読まない。同じやうに宮沢賢治が世に出したものを中心に、残した原稿は参考資料、後の解説書は更にその周辺として読むから、内容が濃厚だとつひページ読みになってしまふ。
だからと云って佐藤さんや小野さんの研究を軽視してよい訳ではない。佐藤さんの「冬のスケッチ」の並び替へは大変な作業だし、小野さんの解説も佐藤さんに云はせれば場面が違ふとなるが、後世の一つの想像として貴重だ。丁度、平家物語に史実と異なるところがあっても古典として貴重なのと同じで、後世に貴重な資料となることは間違ひない。

五月二十七日(土)
小野さんの「宮沢賢治の思索と信仰」で注目すべきは
賢治は国柱会入会について、保阪に次のように書いた。(書簡番号177)
(前略)日蓮聖人は妙法蓮華経の法体であらせられ
田中先生は少くとも四十年日蓮聖人と 心の上で御離れになった事はないのです。

彼はまた「末法唯一の大導師我等の主師親 日蓮大聖人に帰依することになりました」とも述べている。
妙法蓮華経の法体もさうだが、主師親は戦後に日蓮宗と日蓮正宗(及びその信徒団体の創価学会)との本仏論争で、日蓮宗が日蓮正宗の主張を認めたくないから、主師の親なりなどと読んだ経緯がある。国柱会は当時、日蓮宗とは別の宗派だった本門宗の北山本門寺と関係が深かった。日蓮正宗は元は本門宗に所属してゐた。それがこんな所に現れた。

五月二十八日(日)
「宮沢賢治の思索と信仰」には「賢治の思索」と題する年表がある。これには
大正10(上京)一月家出し、上京。国柱会の実線活動。創作活動。(以下略)
八月帰花(恩田逸夫説)。童話に熱中す。(恋愛はじまったか?)
一二月、農学校就職。
大正11(教師)人間関係違和に絶望す。(中略)四月「修羅」宣言。恋愛進む。
七月、トシと下根子別荘へ。
十一月トシの死。(以下略)
大正12(教師)一月上京。六月恋愛深まる。
八月挽歌旅行、樺太にいたる。
九月恋愛を清算す。「風景とオルゴール」(恋愛葬送曲) 永遠との遊離感と永遠への憧憬の念とが起こる。
大正13(教師)無量義経の生住異滅説とのたたかい。詩集の「序」を年頭に書く。刹那滅を克服し、自己の永遠化を企てる。四月「春と修羅」自費出版。
既に賢治の恋愛について記されてゐる。

六月二日(金)
佐藤さんによると、小野さんは
賢治のセックスと女性問題になると、ある種の幻覚をいだいていてそれから離れ難いようである。
その前提で「冬の青春」を読んだところ、それほど悪質な記述は無かったので、今回の特集は題を最初「小野隆祥さんの二冊の名著を読む」にした。ところが二回目に別の角度から読んだところ、これは佐藤さんが怒るのも無理はない。根拠がないのに推定だけを書き連ねたからだ。そのため題から「の名著」を除いた。根拠のない推定は全体に亘るが、「冬のスケッチ」の「あまりにも こゝろいたみたれば」については
「こゝろいた」むという言葉の感触からいえば、事柄は恋愛・女性思慕の切なさ、苦しさとは解しにくい。やはり、「罪障感」で人に顔を合わせられないことではないかと受け取られる。それは「からす、正視たへず」と同じ事情で、女性ことに妹には合わせる顔がないということと想像される。
この文章は佐藤さんの解説を予め読まないと、見逃すところだ。事実、一回目に読んだときは見逃がしたから、この文章に目くじらを立てたのではない。根拠のないことを一冊全部に書き連ねたその姿勢に佐藤さんは怒ったのだし、私も佐藤さんの主張を支持する。(完)

前、(その一)宮沢賢治22

メニューへ戻る 前へ 次へ