九百八十一 佐藤勝治さんの「作家X入門」を読む
平成二十九丁酉年
五月十七日(水)
佐藤勝治さんが昭和四十九年に「作家X入門」と云ふ書籍を出版した。中は二つに分かれ、第一部は昭和二十三年の「作家Xの肖像」、第二部は昭和二十七年の「作家X批判」でこれは書店が強引に付けたタイトルだ。昭和二十年代の米ソ対立における日本国内の思想を知る上でも貴重な書籍である。
前回が本日終了したにも関はらずそれとは独立させたのは、前回は偏向した作家Xに対する批判、今回は作家Xの米ソ冷戦下における批評といふことで、まったく性質が異なる。佐藤さんの貴重な名著を、下品な批評といっしょに論じたくはないと云ふ思ひもある。

五月二十日(土)
佐藤さんのまづ優れた説は、
じつは『法華文学』を薦めている人が、高知尾氏の以前にいるのです。(中略)姉崎正治といって(中略)明治の文人高山樗牛の友人です。
(前略)高知尾の兄弟子にあたる山川知応という人が『和訳妙法蓮華経』を出した時に、その長い序文の中で、しきりに法華文学、仏教文学の出現を望んでおります。
ところがこの姉崎嘲風にも師匠がいるのです。
それは国柱会の大先生田中地学です。
として「本化妙宗式目講義」の開講での講演を紹介する。
(前略)大文人大詩人が出ても、その作物が世間救済と相関せず、本化の法と没交渉であったならば、何の役にも立たぬ(以下略)
作家Xは「本化妙宗式目講義」を七回読んださうだ。

二番目に佐藤さんの優れた説は
童話の数々は、衣食のための筆耕と国柱会奉仕と、図書館通いとの激しいつとめの中に書かれたものといわれます。(中略)東京滞在八ヵ月で帰郷しましたが、一旦家を出たという決心は、終生変らなかったようであります。後に家に下宿代を出していたというのは、ただ彼の変ったきちょうめんさを語るのではなくて、資産家の長男である自分の権利を放棄して(以下略)
家に下宿代を出してゐたと云ふのは貴重な情報だ。だとすると東京時代の八ヵ月は作家として自立しようと努力した時期と考へることができる。文章にX経色が薄いのも理解できる。

五月二十一日(日)
このあと佐藤さんは作家Xの作品とX経を対比させなかせら濃厚な解説をされてゐる。その熱意に心から敬意を表するが、内容が濃厚過ぎて昭和三十年代後半以降の世の中では、なかなか受け入れが困難かも知れない。まづXX会が急速に伸長したので佐藤さんのやうな主張はXX会と同じと多くの人が感じるやうになった。二番目に、昭和三十九年の東京オリンピックを目前に控へ高度経済成長が始まり日本国内の各地の特長が消失する時代だった。
私自身は別の理由で、佐藤さんの主張をつい斜め読み、ページ読みになってしまった。それは作家Xの作品に見られる宗教色の薄い理由と、それにも関はらず森荘已池への手紙には「歴史や宗教の一を全く変換しようと企画し」とある理由は何なのかを探りたいからだった。

五月二十一日(日)その二
第二部で佐藤さんは次のやうに語る。
高村光太郎氏とたまに作家Xを語り合うことがありました。僕が作家Xの本質は宗教にあると云うのに対して、氏は、彼は詩人だと云われました。彼から一切のものを剥ぎ取った最後に残るものは詩精神だと云うのです。(中略)僕は強いて分ければ、--分けがたいものだけれども、--彼にとって詩は第二義的なもので、宗教人としての彼がその本質をなしていると主張しました。
その佐藤さんも後に高村光太郎に賛成し、その但し書きとして
天性的詩人であったとまったく同じに天性的宗教人だったのです。
と述べる。佐藤さんは、神仏があるかの問ひに
無いと思います。前に『作家Xの肖像』という本を書いた頃は、宗教が正しい世界観だと思い、その世界の中の作家Xを位置づけたのでしたが、(神仏があるとすれば、あの作家X感は正しいものです。無いとしても作家Xの考えていたその世界の中の彼としては、ああいう姿なわけです。批判はともかくとして)今では宗教的世界観は虚構であると考えています。
と第一部と第二部の出版時期の違ひを説明する。このあとマルクスに言及した質問と回答が続くので、米ソ対立に影響した発言と見ることができる。次に
谷川氏は繰り返して、

高知尾氏ノススメニ依リ
法華文学ノ創作
名ヲアラワサズ
報ヲウケズ
貢高ノ心ヲ離レ

という作家Xの手記を文字通り受け取ってはならないといい、

筆ヲトルヤマズ道場観奉請ヲ行ヒ
(中略)
タダ諸仏菩薩ノ冥助ニヨレ

わ重視すべきだといっています。
と云ふ発言に佐藤さんも同意する。

最後に私の意見を述べると、作家Xは天性の文学者だが、上京する前に熱心な信者になり、上京ののちは高知尾氏により文学者と結びつけられた。作家として自活するには一般の人向けに宗教とは独立に書くべきで、作家Xはこの法則に従ひ童話を書いた。トシの病状悪化で花巻へ戻り、教員となり大畠ヤス子との恋愛もあったがトシの病状悪化で、恋愛に未練を残すもこれを絶ち、この間の事情は「春と修羅」に記録した。教師を辞職し放浪し、一部の詩人に賞賛されたことから金持ち息子の道楽と他から称されるになった。(完)

作家X20(その三)次、(その二)

メニューへ戻る 前へ 次へ