九百五十三 嘘つき蓮舫の稲田さんへの「潔く身を引くときではないか」発言を批判
平成二十九丁酉年
三月二十三日(木)
嘘つき蓮舫が20日、北海道苫小牧市で講演し稲田さんについて「潔く身を引くときではないか」と発言した。今回はこれを批判したい。
その前になぜ嘘つき蓮舫なのかと云ふと、国籍問題で発言が二転三転したこと、バリバリの保守を自称しながら原発廃止を前倒ししようとして党内で迷走したこと、初鹿明博のラブホテル入口事件について「二度とかう云ふことのないように厳重注意した」と述べたが一度目なら週刊誌の記者が現場にゐる筈がない。六度目なのか十一度目なのか知らないが訂正すべきなのに「二度と」を未だに訂正しない。
このうち三番目の初鹿明博問題は、どんどん使ったほうがよい。蓮舫への批判となるだけではなく初鹿明博への批判にもなる。一回で二倍の効果がある。

三月二十四日(金)
私が安倍内閣を支持する側に戻るのか、或いは倒閣側に回るかは、私にも判らない。今回の稲田さん応援は安倍内閣とは無関係に、稲田さんを批判することがどれだけ間違ってゐるかを指摘したい。
まづ稲田さんは話を二転させることがあった。これは昔のことを予告なしに訊かれたのだから仕方がない。弁護士がたくさん出廷すれば個々の内容は忘れる。そこへ行くと蓮舫は三転させた。二転目は思ひ違ひの訂正として大目に見るが、三転目は嘘の訂正だ。
次に、国有地払い下げ問題や、安倍夫人と学園理事長とのやりとりは大いに追求すべきだ。しかし稲田さんが保守派だからといって批判する勢力がある。蓮舫はその一員だ。バリバリの保守を自称するのに保守派を批判するとは、矛盾が甚だしい。蓮舫が稲田さんの思想を批判するなら、保守派は九条だの前文だのを授業に持ち出す教員をどんどん批判したほうがよい。国民はかう云ふ議論を期待してゐる。双方のやり取りが始まれば、国民は次にどんな発言が出るのか楽しみにするだらう。

三月二十五日(土)
稲田さんと私では、教育勅語に対する考へが大きく異なる。稲田さんは神道または儒教の立場だし、私は仏教または宗教全体の立場だ。稲田さんの立場だと教育勅語は全面賛成だし、私の立場だと教育勅語に書かれたことは最低限守ってもらはないと困る。明治時代と今だと世の中が異なるから、教育勅語には今では合はない部分も多少はある。多少の部分を問題にするのがリベラルと称する連中、大部分を重視するのが保守派だ。
過去に書かれた文書は、経典も聖書も古典文学も、現在に合はない部分がある。だからと云ってすべてを読まないのではなく、すべてを読んだ上で大部分を採り入れる。一部分も殊更それを批判したりはしない。これが大昔から現在に至るまで人類の取った行動だ。それなのにリベラルと称する連中は百年前のものでさへ批判する。とんでもない連中だ。

三月二十六日(日)
先進国(地球を滅亡させる行為が先に進む国)で最も共同意識に乏しいのが日本ださうだ。それを治すために私はときどき「自民党は自主憲法、旧革新勢力(旧社会党、共産党、旧民社党)は社会主義、公明党は戒壇建立を目指せ」と発言することがある。その真意は破壊された共同体意識を取り戻すことだ。(公明党もかつて新社会主義(戸田城聖)或いは人間性社会主義を唱へたから、社会主義陣営に加へても良いのだが、今は与党なので三番目として独立させた。戸田城聖は岸信介を高く評価してゐたから自主憲法勢力に加へてもよい)
ところが「日本死ねの民進党」は逆のことをやってきた。労働側から支持される政党はどこの国でも景気回復や減税を第一に考へるが「日本死ねの民進党」は消費税嘘付き増税を行なった。共同体意識を取り戻すには「民主主義」「自由」だけでは駄目で、もう一つ必要なのだが「日本死ねの民進党」にはそれが無い。苦しまぎれにフランス革命の猿真似で「友愛」と答へたりする。
今、自主憲法、社会主義、戒壇建立の中で最も達成に近いのは自主憲法だ。そして「日本死ねの民進党」は共同体意識に最も反対するから、稲田さんを攻撃する。

三月二十七日(月)
本日の参院予算委員会で、日本死ねの民進党が加計学園を取り上げた。これはよいことだ。私はシロアリ化する前の民主党のときは支持してきた。菅直人と野田と云ふ悪質な政治屋と、野田を幹事長に起用した蓮舫を徹底的に批判してきたが、ここで加計学園の濡れ手に粟商法を阻止するのであれば、再び民進党支持に戻れる。(完)

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