九百五十二 竹村牧男さん「日本仏教のあゆみ~信と行」第六回
平成二十九丁酉年
三月十九日(日)
本日朝五時からの「日本仏教のあゆみ~信と行」で第六回「慕われる僧たち」を観たのはまったくの偶然だった。何気なくYahooのテレビ欄を見ると一昨年の再放送がある。竹村さんの「日本仏教のあゆみ~信と行」は良質な内容で気に入ってゐたが、既に観たのでもう一回観るか迷った。再放送では感想がどれだけ異なるかを自分でも調べたい。そんな気持ちもあった。
番組が始まり内容をまったく覚えてゐないことに愕然とした。しかし10分ほど見て、まだ観てゐないことに気づいた。まづは空也で次のお話があった。
空也が「南無阿弥陀仏」と唱えると六文字が仏の姿になった。
空也は沙弥のときの名前。四十代で僧になるが沙弥の名前を用ゐた。
宗派に属さず、あのころなので天台といへば天台。本来ならば空也宗。
「どうしたら極楽浄土に行けるか」と質問され「何(いか)にも身を捨ててこそ」と答へた。後に一遍上人がその言葉を賞賛し、極楽に行きたい、仏になりたいと思はずただ念仏すると解説。
「忍辱の衣厚ければ」あるいは「慈悲の室深ければ」はX経法師品の弘教の三軌。大悲と慈悲と空性に住する。
「四儀」は四威儀とも云ひ行・住・坐・臥で日常の生活のこと。阿弥陀様が仏にして下さるので一切任せる。念仏といふと法然や親鸞を連想するがその200年以上前に言ってゐた。
鴨長明「発心集」に空也は我が国の念仏の祖師とある。
法然門下で一念多念の争ひがあったが、その前に空也は一念義を主張。


次に盤珪について次の説明があった。
臨済宗。「不生」は中論の不生不滅不常不断不一不異不来不出を一つにまとめた。
説法語録が残り、語り口に親しみを覚える「仏にならうとせうより、仏で居るが造作がなうて、近道でござるわいの。」
不生とは霊明なる仏心を自覚すること。それはその信・行。


次に慈雲について
江戸時代中期から後期。晩年に密教と梵学サンスクリット。
出家僧は本来の正法律を。
密教に基づいた神道。雲伝神道と名付けた。
サンスクリットの文献を集めた「梵学津梁」は千巻。梵字の学問の伝統は日本にもあり密教の世界では重視。
お釈さんの時代に帰ろうと盛んに言った。江戸時代の寺請制度でお寺のお坊さんの活力が落ちた。そこで釈尊の時代に戻ろうと説き戒律を守れと。 浄土と法華とか仏教界の論争はお釈様の時代にはなかった。だから一味和合して仏教界をもりたてるべきだ。
慈雲の思ひや姿勢がわかる法語「通じて仏法と云ふものは仏になるものと心得、余所の宗旨の仏に成るは六ヶ(むずか)しく、此方の宗旨にて仏に成るのは心安いと云ふ。此の十善にてはそうでない。唯だ此の人を以ては人となる事じゃ。人となるは仏になるでないかと云ふに、諸宗の仏に成ろうと云ふは、貪欲に依て餓鬼や畜生に成ることじゃ。明恵伝の中に、今時の諸宗に云ふ通りが仏法ならば、諸道の中に仏法ほど悪いものはない、諸宗のは仏法ではないと云ふ事じゃ。此等は人となる道を明(あきら)めた人じゃ。只人の人と成るのじゃ。」
仏教は善を行えば楽を得る、仏道成就していく事になる。悪を行えば苦しみの多い世界に生まれる事になる。十の善は初期大乗仏教の中で盛んに用ゐられた。最初の3つは不殺生不偸盗不邪淫。言葉の行為に関して4つ、不妄語、不綺語「綺」とは飾り立てた言葉、不悪口は悪口ではなく粗暴な言葉遣ひをしなし、不両舌は二枚舌ではなく仲たがひさせるな言葉を遣はない。それから不貪欲不瞋恚不邪見。
阿弥陀様が救って下さるといっても仏道にのっとった生活の仕方が必要。
十善は仏教だけではなく地球上どの世界の人でも守るべき事柄。人が人となるところで仏道が成就すると説かれた。


最後に鈴木大拙について
リバティやフリーダムを自由と訳すが、西洋の自由は何々からの自由。政府からの自由だとか。東洋の自由は自らに由る。西洋はどうしても主観と客観に分かれる。神と人。だけどその根底に一なる世界がある。
日本的霊性。霊性は宗教意識と云っても良い。禅は日本的霊性の知的方面の表れ、浄土真宗は日本的霊性の情的方面の表れ。日本的な皆が共有する宗教意識。インドにも中国にもなかったので日本的霊性。この身このまま、仏になろうとする必要もない。
大拙はそこで留まらず、浄土教の言葉で言へば娑婆から浄土へ往くのを往相、浄土から娑婆に戻ってくるのを還相。真宗には往相・還相といふ2つの道があり、大拙は還相を重視。救はれたら戻ってきて人々の苦しみを解決する。
禅ともつながって真空妙用。前提に「真空妙有」、事物は空で現象として存在するから空即是色。そこに単なる色ではない妙有がある。


四人をまとめて
皆に積極的に働きかけた。仏教はインドから中国を経て入ってきて成熟した。日本の仏教がインドや中国の思想的な問題を引き継いでしかもそれを解決していくような位置にあり、高度な哲学思想を十分にそなえた。日本人はほんとに深く思想的に究明したその歴史を持ってゐる。そういふ非常に深い教へから簡潔な救ひ、易しい救ひを、いかに人々の生活、あるいは社会の運営に生かしていくか。それが今後の日本仏教の大きな課題。


以上のお話があった。

三月二十五日(土)
以上のお話のなかで、自由の持つ意味が東洋と西洋で異なる部分は貴重だ。私は今の日本にあって自由を叫ぶ人間は異常だと思ふ。共産主義国などと対抗するため外交で自由を持ち出すのは結構なことだ。しかし国内で叫ぶことは、まづ意味を為さない。叫ぶなら江戸時代か東條内閣のときにするべきだ。自由なのに自由を叫ぶことは社会を破壊する。今回のお話で、もう一つ別の理由で、叫んではいけない事が判った。
竹村さんの「日本仏教のあゆみ~信と行」は高度な内容だった。竹村さんの人間性も現れてほのぼのとした雰囲気で観ることができた。ところが過去の私のホームページを調べると六回のうち、第三回は見ず、第四回はホームページに書かず、第五回は二行だけ、そして第六回は見ないのに見たつもりでゐた。こんなことになった理由は、当時の私はまだ、大乗仏教は禅宗系と僧X系を学べば十分だと考へてゐた。その後、浄土系、密教系の本山などで法話をお聴きし考へが広まった。つまり私の浅識が竹村さんの名講義を取りこぼしてゐた。(完)

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