九百四十七 二つのNHKテレビドラマのスヰッチを途中で切った
平成二十九丁酉年
三月七日(火)
日曜にインターネットでテレビの番組表を見たところ、「火花」と云ふ芥川賞受賞作をテレビドラマにしたものを放送する。スヰッチを入れたところ、無駄の多すぎる制作に驚いた。漫才コンビが歩きながらの練習だか雑談だかの無駄な会話。これが聞いて不愉快になる。
話には聞いて爽快になるものと不快になるものがある。幼児たちの音程が完全に狂った歌のときは胃の調子が変になりさうなくらい不快な歌ひ方だった。私は今までに幼児の音程の狂った歌で不快に思ったことは一回もない。そればかりか逆に可愛いと思ふくらいだ。テレビの歌はよほどひどかったのだらう。
花火大会の余興で、前の出演者の金色夜叉が商店会長が主演と云ふことで会場スタッフが大拍手をする。ここは話のストーリーが退屈ではなく、何とか見ることができた。その次に主人公の漫才。これが見てゐられない。テレビの流れから会場の人たちが去るのだなと思ってゐると、事実去るのだが演技があるでも視聴者に感心させるでもなく単に去る。
その次に番組紹介では実力漫才師の触れ込みだったが、この漫才がまたひどく観客は全滅する。主人公はこの漫才師に弟子入りするものの、師匠の伝記を書くと云ふ条件を守るため夜中に文具店のシャッターを叩いて文房具を買ふその非常識と、店の人がなぜ怒らないのか。話をはしょったか原作にないのか。
話は無駄だらけで、師匠に妹のことを訊かれ幼児期のころを話すところで、スヰッチを切った。
三月八日(水)
この日は大河ドラマを見た。第一回から連続して見たが桶狭間までは見たいと思ってきたらそのとおりになった。このドラマはまづ子役の演技がわざとらしかったが、これは主人公が成人して活躍する伏線として許容範囲だった。だったと過去形なのは子役へのインタビューで将来はハワイで仕事のできる女優と答へた。これは本人が悪いのではない。まだ小学生だ。載せた大人たちが悪い。
前々回までは退屈せず見ることができたが、前回は尼らしくない話し方に唖然とした。あれは俗人に近い演技ではなく、この女優の演技力の限界なのだらう。出家したのにあの話し方では仏教ばかりかすべての宗教への冒涜だ。出家とは今川との約束で形ばかりだったと云ふ意見があっても、主人公は家に居住せず寺を選んだ。つまり筋書きに無理がある。
前回の跡取りの嫁に子ができない話は退屈だった。歴史上の事実や、作り話でも名作の話なら、退屈な内容でも視聴者は納得する。今回限りの完全な作り話なのに退屈なのは失格だ。今回は桶狭間の名場面なのに、当主が家来を助けるため自害して井伊に戻ると云ふ、あり得ない筋書きだった。だとすると前回、隠し領地が見つかったのにうまく逃れた話も、辻褄が合はないことが再燃する。と云ふことで辻褄の合はない作り話ばかりなのでスヰッチを切った。
三月十一日(土)
辻褄の合はない話でも一回や二回なら許容できる。しかしそれを越えると、前回のあのときもと過去の批判が復活する。丁度執行猶予中に別の犯罪を起こし前の分も刑務所に入れられるやうなものだ。
前々回あたりに今川義元の前で蹴鞠をする話があった。何回も負けたのにもう一回としつこく繰り返し一回だけ勝った。今川義元が許すはずは無い。そればかりか「しつこい」と怒り出すだらう。こんなつまらない話を一年間見るのは時間と電気の無駄だ。
三月十三日(月)
念のため、翌週の放送を最後のつもりで見た。そして予想どおり最後になった。せっかく松平が今川を裏切る名場面なのに1分で済ませた。ここは松平家中の複数の意見、織田との連携、今川の対応と興味深い話が幾らでもある。ここで三週間くらい使ってもよいのに、1分で済ませるとは驚く。
代はりに井伊家中の刃傷沙汰のあとの処分を巡りつまらない話を延々と流した。毎週独立した話を流すのは水戸黄門や暴れん坊将軍と同じだ。水戸黄門や暴れん坊将軍は話が面白いからまだよい。水戸黄門や暴れん坊将軍は出演者の演技力が優れるからまだよい。この大河ドラマは話がつまらない。演技について前回は尼としての演技力不足を指摘したが、今回は気丈な女としての演技力不足が目立った。
三月十八日(土)
今年の大河ドラマが始まる前に、担当者が記者会見で創作が大河ドラマの原点だと云ふやうなことを述べた。それは視聴者が判断することだ。水戸黄門や暴れん坊将軍、遠山の金さんのやうに面白ければ史実と違っても視聴者は満足する。つまらないのに史実と違ふから視聴者に不満が出る。
民放の場合は観なければ済む。NHKは受信料を払はない訳にいかない。日本死ねの民進党による嘘つき消費税増税以来、日放労は撲滅対象になった。NHKは廃局すべきだ。(完)
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