八百八十九(乙) 過去の資料の廃棄(旅の思ひ出)

平成二十八年丙申
十月二十一日(金) 古い荷物の廃棄
いよいよ来週賃貸マンションに引っ越すことになった。先々週から古い荷物の廃棄を始めた。子供の幼稚園以来のものが多かった。椅子、教科書、雑誌等々。昨日は私の書籍もかなり廃棄した。「わしズム」を1回だけ購入した。小林よしのりさんの本はこれ以外は買はなかった。「発言者」の最終号と「表現者」の第一号も買った。これらは取っておきたかったが廃棄した。
宿泊を伴う旅行や都内施設などのパンフレットでこれまで保管してきたものも廃棄した。まづ二年前に山口県を旅行したときのパンフレットが多かった(ここから先は私小説と同等なので、必要のない方は次ページに移ってください。私小説は売れるか売れないか。多くの文学者は売れると思ってしまふ。ここに物書きの傲慢がある。一方で他の文学作品を書くにはかう云ふ背景があると後世のために残すことは世の中の為になると考へた可能性もある。ここで紹介した資料は原則として破棄するから、自分への思ひ出でもある)。

十月二十二日(土) 古い段ボール箱二つ
本日新たに古い段ボール箱が二つ見つかった。これは存在を忘れてゐた。今度の紙の日に廃棄するものを分別してゐると、全国各地の懐かしいパンフレットがたくさん見つかった。
青春18切符は、十数年ほど前から日本海側を旅しようと目的を持つやうになった。それまでは単発的に毎年思ひ立ったところに出掛けた。日本海側の一番最初は糸魚川に行ったことだけ覚えてゐる。ルートインといふホテルに泊まった、鉄道を陸橋で超える道路の下を歩いて行った、手前に酒屋があって買ひに行った。海岸を散歩して高校生とすれ違ったので海では何の養殖をしてゐるのか訊いたが判らなかった。
(11月6日追記、糸魚川市観光協会の駅前周辺案内図が見つかった。桃色のサインペンで、駅前通りを海岸までと、駅前をすぐ左折した道路、二本先の本町通り、白馬通りで四角形、本町通りは図の左右を突っ切り、白馬通りは踏切を超えた地点まで線が引かれる。海望公園、展望台、加賀の井酒造に丸印。富山第一銀行に点。丸印三か所に寄るため市内の道路の概要を説明して頂いたのかも知れない。)
直江津から春日山城の上まで登ったのち、昼食に安いランチタイムで海鮮料理を個人経営の店で食べた記憶もある。その後信越線で東京に戻った。糸魚川のときも大糸線で戻った記憶があるから、長年二つは別の旅行だと思ってきたが、片方が記憶違ひで同じ旅程だったのかも知れない。
或いは米原から金沢、富山、糸魚川と回ったのかも知れない。青春18きっぷを使ふときは原則同じ線は使はず一筆書きになるやうに乗るからだ。その後、行ったことのない場所を南下し二年前の山口県旅行がその終着地となった。北上しないのは坂田鶴岡は寝台特急で行ったことがあり、秋田は新婚時代に妻の実家に行くとき、当時はまだあった一般周遊券で秋田を経由して仙台に行ったことがあった。男鹿線に一往復残った客車列車に乗るためだった。たまたま石原莞爾を調べるため青春18きっぷで再度鶴岡に行ったことはあった。

十月二十六日(水) 一つ目の段ボール箱
一つ目の段ボールで、まづ目に入ったのは蕨市内のパンフレットだった。私の実家は蕨との市境より少し浦和側なので帰省のとき寄ったのだらう。妻と子は実家近くの駅から乗り、私だけ旧中山道を歩いたのだらう。たまには江戸時代の気分になるくのもよいことだ。 資料の一つ目は蕨市立歴史民俗資料館の入館パンフレットだった。同館には織物の町だったといふ資料。明治二十八年の第四回内国勧業博覧会褒状の写真には、受賞者の住所として埼玉縣北足立郡蕨町とある。平成20年作成の「蕨の神社一覧」では、昔はxx社が名称でxx神社では無かったことが判る。「蕨宿町場マップ」もある。町場(町方)とその外側の農村(村方、在方)で構成され、町場は東用水と西用水に囲まれ人口1300人。蕨宿全体では2300人。今の蕨市は蕨宿と塚越村が合併したやうだ。「蕨の寺院一覧」は十七の寺が載り、住職のゐるのは六、所在地不明が四。新義真言宗が十三を占める。
次に静岡県清水を訪問したときのパンフレットがある。かつて東海大学清水キャンパスは毎年数人の就職者がゐたので、私が人事採用だったときに一回訪問したときにもらったのだらう。題は「SHIMIZU ROAD MAP」と書いてある。地図の文字は日本語だから、ここだけ英語にするのは如何にも軽薄だが、当時は船橋洋一の英語公用語愚論の前だから、別に変だとは思はなかった。船橋の愚論が悪いのではない。船橋にさう云はせた某国の圧力が悪い。この地図は問ひ合はせ先が「清水市観光課」「清水市観光協会」「清水市インターネット」「清水市観光案内所(清水駅前)」とある。静岡市に合併前でしかしインターネットは普及し出した時期のものだと判る。

十月二十九日(土) 一つ目の段ボール箱、その二
北区の資料が幾つかある。これは横浜の自宅から浦和の実家に行くとき、毎回同じ経路だと飽きるからいろいろと変へた。その際に、本来の経路より運賃が掛かってはいけないと云ふ内規を定めた。内規と云っても自分で勝手に決めたものだから今は15%くらいは余分に掛かってもよいことにした。当時は厳格に守った。国鉄争議団の和解前だったからJR東日本に儲けさせるのはやめようと云ふ不買運動でもあった。自宅から通勤定期と営団(当時)地下鉄で赤羽まで来る。ここからJRに乗ると、最初からJRに乗るより高くなる。だから王子で降りて赤羽まで歩いた。
まづは「北区鉄道マップ」(H20.11.1発行)で、表紙には今は廃止された北王寺駅の写真が載る。構内入れ替へ用の日本通運の小型ディーゼル機関車とDE10を先頭に連結しコンテナを満載した列車。王子から赤羽まで歩く途中でよく北王寺駅を見た。ページをめくると地図上にビュースポット17箇所と施設スポット4箇所がある。ビュースポットは都電沿線、JR沿線で、上中里さわやか橋(尾久操車場)、東田端鉄道八景、田端操車場などがある。施設スポットには都電おもいで広場、昭和町図書館(鉄道コーナー)などがある。
「北区観光ガイド」(H20.8.1)は、浮間ヶ原と岩淵水門、荒川知水資料館の三っを除く残りの11箇所が田端から王子の少し先までだから、地図の下三分の一に偏る。鉄道関係は一つもない。田端文士村記念館を見て、かつて西日暮里まで歩き台地の端の道を上中里か王子まで歩いたことを思ひ出した。途中に石川書店と云ふ看板を見つけた。店の前まで行くと古本屋だ。店を入り、子供のころ根津にも石川書店と云ふ古本屋がありましたが、と尋ねると何とそこの息子さんだった。私の父、叔母のことを覚えてゐてよく遊んださうだ。
「第8回みんな集まれ! ふれあい 鉄道フェスティバル」といふパンフレットもある。2008年11月22日(土)10:00~15:00とある。EF81転車台回転実演(所要10分)が五回、車体ジャッキアップ実演(30分)が二回、レール切断実演(30分)が二回。会場案内図だと尾久車両センターの検修庫内の一番西側が車両ジャッキアップ、その一線東がなごみ(和)E655系、屋外の一線目が「ゆとり」と少し間隔を空けて「夢空間」、その隣が「EF60」と感覚を空けて「お客様休憩車両」+「EF65」、その隣が「DD51」とかなり間隔が空いて「EF81」、その隣が「宴(うたげ)485系」、その隣が北側に寄って「青太郎(保守用車両)」、その隣が「レールスター(足こぎ式)2台、その隣が「レールスター(エンジン式)2台、その隣が空の線。ここまで枠で囲われ、その外に尾久駅プラットホームがある。枠内の北側で「宴(うたげ)485系」まで終結した分岐から西に行き止まりの転車台でEF81の回転実演。私の小学生時代の記憶では、この転車台は手動で、動力式は一般道路を踏切で超えた田端操駅側ではなかったか。国鉄分割時のJR東とJR貨物の分割で、この転車台も動力駆動にしたのかも知れない。
以上はパンフレットの内容で、私の記憶にあるのは検修庫の中に電車としても使へるお召列車用の客車があったことと、検修庫内の掲示で今でも入れ替へは国鉄時代と同じで駅が担当してゐるので嬉しく思ったことだけだ。従来客車を休憩用に用意したことや転車台の実演はまったく記憶にない。私の関心は、駅と客貨車区の役割分担など国鉄やJRがあまり気にしない分野にある。JRが記録してゐることを我々部外者が調べるのは時間の無駄だからだ。

十月三十日(日) 一つ目の段ボール箱、その三
サンフランシスコの中央通りはPCCカ-といふ路面電車が走る。この車両は世界中で廃止されたものを譲渡してもらったもので路面電車愛好者の団体が運営してゐる。パンフレットやインターネットで印刷した資料があった。これとは別にサンフランシスコからサンノゼまでcal trainと云ふ非電化で機関車が引っ張る鉄道がありcal train connectionといふ小新聞があり、これらも廃棄した。サンノゼとサンマテオには小さな日本人もある。サンノゼのヤオハンは日本人駐在員家族で賑はったが今はどうなっただらうか。
神田錦町を歩いてゐると天理ギャラリーといふ建物があり第134回展「中国の絵入本 -明・清時代の版本を中心に-」をたまたま開催してゐたので入館した。2008年5/18~6/15とある。神田錦町は、科学教材社があり小学生のとき行ったことがある。店の位置を特定するために寄った。あと、XX会本部があった。これも位置を確定するために寄った。おそらく両方を一度に行って更に秋葉原の電気街に行ったのではないかと思ふ。

十一月三日(木) 引っ越し前最終記憶、その一
引っ越しのとき大きな段ボール箱に移し替へたから、年代ごとにまとまった分類が無効になった。その前の記憶では熊野三宮のうちの一つのパンフレットがあった。
「マッジマ パティパダー通信」と云ふパンフレットもある。東京西新宿の上座仏教修道会の機関紙で、私がかつて所属した労働組合の分裂前の事務所の近くだからお伺ひして面接を受け、法要に参加したことが一度だけあった。竹田倫子さんと云ふ女性が主宰し、真面目な団体だ。真面目過ぎる団体と云ったほうがよい(真面目過ぎると云ふのは賞賛であって批判ではない。かつて貴の花と宮沢りえの婚約解消で藤島部屋は真面目過ぎると報道されたことがあったが、あれは真面目過ぎるのではない。融通が利かな過ぎる、表現を変へればわがまますぎる上に頭が悪すぎる。だから藤島親方は息子二人の兄弟げんかと自身の離婚騒動と云ふ大変な騒ぎを巻き起こした。あの騒ぎとは異なる)。
ミャンマー僧のニャーヌッタラ長老を指導者に活動するが、私自身は日本の大乗仏教への刺激、地球温暖化防止のための西洋文明の相対化、従来の精神構造と西洋化した社会との矛盾で混乱する人たちの救済と云ふ目的があるから、真面目過ぎる団体には敬意を表しながらも私自身は別の方法のほうがよいと云ふ結論になった。

十一月四日(金) 引っ越し前最終記憶、その二
「平成十五年神宮歴」が同じ箱に入ってゐた。和紙のやうな紙を紐で纏めてある。伝統を感じる有難い暦だ。次の内容で構成される。
一月一日から十二月三十一日までの干支、日赤経、日赤緯、日出、日南中、日入、月齢、月出、月南中、月入、満潮、干潮。月別に例へば一月は、一日水星留 四日日最近 十一日金星西方最大隔離 十二日水星内合、その下の欄に一日カシオペア、ペルセウス、牡羊 十六日ペルセウス、牡羊、エリダヌス。
全国五十六地点の北緯、東経の度分とともに一月一日から十二月二十七日までの日出、日入時刻。
水星日面経過に、外触の始めの時刻と方向、内触の始めの時刻と方向、水星の入りの時刻と方向。
夜明、日暮、出入方向、南中高度、視半径、距離。
節気及び雑節の黄径及び月日時刻。
朔、上弦、望、下弦の月日時刻。
各地潮時の平均補正時間。
全国主な神社の例祭日及び所在地。
各地の気候。標高、月別の平均気圧(海面補正後)・平均気温及び最高最低の極値・平均湿度及び最小の極値・日照時間・降水総量及び最大の極値、初雪・初霜の平均と最早、終雪・終霜の平均と最遅。
私が十歳(今から五十年前)くらいまでは、日本の農業国だった。そしてテレビやインターネットは無く、楽しみは昼には鳥獣虫魚と共に生活し、夜に星を眺めることだった。そんな時代の香りのする懐かしい暦だ。しかし気象庁のデータ集の感がしなくもない。最初に感じたのは各地の標高だ。しかしよく見ると新しい発見もある。長野が四一八メートルで松本が六一〇メートル。両市は同じ標高だと思ったが5割も松本が高い。二位は高山の五六〇メートルだ。月別の平均気圧は役に立たない。海面補正前ならまだ役に立った。海面補正後だとやはりデータ集の色彩が濃厚だ。
伊勢神宮参拝の記念としては、江戸時代の暦を現代文にしたものがよい。気象データをそのまま残すなら、水星のデータを削除し(望遠鏡が無いと見えないため)、気圧も削除するか海面補正前に戻すかどちらかをすればよい。

十一月五日(土) 時刻表
ここからは引っ越し後の話になる。引っ越し前最後の紙ごみの日に間に合はなかったものはそのまま持ってきた。新居で捨てるためだ。と云っても紙ごみの日は先だから居間の隅に積んだままだ。まづ時刻表四冊をここに出した。しかし出したあとで年月は記録したほうがよいと思ひ直し回収した。
「国鉄監修 時刻表 日本交通公社」と書かれた1976年8月、85年1月のものと、「JR時刻表 弘済出版社」と書かれた93年11月、99年8月のものだ。やはり貴重なので捨てるのは止そうと考へ直した。93年のものを開くと、男鹿線は気動車に交じり客車列車が二往復。そのあと盛岡から仙台に南下するとき、一関までも客車だった。
私は鉄道全般が好きと云ふ訳ではない。消滅に向かふ客車を記録しよう。さう思っただけだった。男鹿線について記すと、男鹿駅で機関車を付け替へて秋田に戻った。男鹿で貨車の入れ替へをする訳ではなく、なぜ二往復残ったか理由が不明のままだ。客車の便所に入ると洗浄水が青色できれいだった。貯留槽から引き抜いた直後とも考へられるが、乗客が少なく短距離なので使用者がほとんどゐないためだと当時想像した。

十一月六日(日) 熊野本宮
記憶にあった熊野のパンフレットが出てきた。熊野本宮大社の「宝物殿の栞」で表紙の裏には「当社年間行事」と「本社月例祭事」が載る。後者で注目すべきは十五日戦歿者命月祭(功霊社)と二十三日一遍上人月例祭(旧社地)だ。次のページは「熊野への畿内交通要図」で大阪・天王寺から田辺駅下車。駅前からJRバスで毎日3便1時間30分とある。私は新宮駅からバスに乗った。地図だとJRバス、熊野交通バス、奈良交通バスとあるが、私の乗ったのは明光バスだった。乗客は往復とも私だけだった。最終ページは「旅のメモ」「スタンプ」とあり、私の手書きでw-fujihotel.co.jpと書かれてゐる。和歌山市内のホテルで、この旅行が伊勢、熊野を回り高野山にも行ったことを思ひ出した。

十一月七日(月) 富山
「富山散策物語」と云ふ民間会社の制作したパンフレットがある。ホテル、レストラン、土産物の広告ではあるがページの隅に小さくまとまり、地図、観光案内がページの中央に描かれた優れた印刷物だ。2005年1月発行とある。
「ありがとう富山港線」と云ふJR西日本のパンフレットもある。「記念オレンジカード発売中」はなつかしい文章だ。次の記述もある。
大正13年(1924) 富岩鉄道として 富山口-岩瀬港間 開通
昭和 2年(以下西暦略) (貨物)富山-富山口間 開通
昭和11年 (貨物)西宮(大広田)-岩瀬埠頭(富山港)間 開通
昭和13年 (貨物)富山-日曹工場前(奥田)間 開通
昭和16年 富岩鉄道が富山電気鉄道に譲渡する
昭和18年 県下交通統合により鉄道他社と合併し富山地方鉄道となる
昭和18年 鉄道省に移管 岩瀬港駅移設により富山-岩瀬浜となる
昭和33年 (貨物)富山操車場-蓮町間 開通(北陸本線の支線)
昭和59年 (貨物)富山-奥田間 廃止
昭和61年 (貨物)富山操車場-蓮町間 (貨物)大広田-富山港間 廃止 全線で貨物扱い廃止
平成18年 富山ライトレールへ
私の旅行は、最初一般周遊券を使ひ、これは廃止時まで続いた。それと同時に指定席往復割引切符と云ふ特急普通車に乗車できる切符だが区間によってはB寝台に乗れる切符をよく使った。B寝台で行けない区間はグリーン切符と云ふグリーン車かB寝台に乗車できる切符を僅かに使ったこともある。これが廃止ののちは青春18切符を長距離に使ふやうになった。
まづ金沢に往復指定切符を使ひ寝台特急「北陸」でおそらく三回旅行した。一回目の帰路に金沢から乗車し途中の富山駅で窓の外を見ると、ホームの北側に線路がたくさんあり、その向かうに富山線の乗り場があるのが見えた。次は金沢から富山まで普通列車で移動し、富山駅で暫く待ったあと後ろから来る「北陸」に乗ったことがある。このときたくさんの線路が無くなり、富山港線の線路がすぐ隣に移動した。駅員に、前は線路がたくさんあったがと質問すると何回か移動したさうだ。
富山港線は富山第一機関区城川原派出所に配置だから、富山駅のたくさんの線路の更に北側に機関区が二つあるのだらうと思ってきた。貨物列車も富山駅で入換へるのだらうと思ってゐた。今回パンフレットをホームページに転記するにあたり富山操車場から蓮町に短絡させることを知り、更に調べると富山第二機関区は富山操車場にあることが判った。パンフレットでは岩瀬埠頭(富山港)とあるが、検索すると富山港駅は大広田から西に分岐した先にあったらしい。

十一月八日(火) 北陸全般のパンフレット
「北陸夏物語」は2005/6で企画・発行が富山県、石川県、福井県の観光(推進、振興)課、JR西日本金沢支社。表紙の左端にはJR西のマーク、右端にはJR東のマークが入り、最終ページには東京都区内発と大宮~川口・戸田公園発の、北陸フリーきっぷ、北陸回数券の広告とJR東が旅行企画実施する山中温泉への「JR+宿泊」の広告、下端5cmには「北陸の観光にかんする問い合わせ先」として富山県、石川県、福井県の観光連盟と、糸魚川エリアとして糸魚川市観光協会連絡協議会(糸魚川市商工観光課内)とある。JR西なのかJR東なのか不明のパンフレットだが、よく考へると北陸三県とJR西の作ったパンフレットに最終ページ(下端5cmを除く)にJR東が自社の宣伝を載せて首都圏管内で配布したことが判る。
それにしても糸魚川エリアだけ釣り合ひが取れない。他が県単位なのにここだけ小さな市が単位だ。直江津駅がJR東と西の境界だから載ったのだらうが、まるで北陸三県の属国だ。属国と云へば信濃からの侵略もあるらしい。今から十年くらい前だらうか、このままでは新潟県西部は長野県の属国になると云ふインターネットのページを読んだことがある。このページはまだ続き、しかし長野資本は長野と松本の仲が悪いみたいだと県内事情を見抜かれてゐた。今なら笑ひ話だが戦国時代なら国家機密だ。上杉側に知られたら分断工作を掛けられてしまふ。と云ふか双方が信濃へ分断工作を掛けた結果、川中島で激突した。

十一月九日(水) 福井
福井市の北の庄城址公園、柴田公園を訪れたとき、ここは前に一度来たことを思ひ出した。私の旅行は、客車か路面電車を目的にすることが多い。客車は寝台特急が多いから一般周遊券が廃止ののちは、往復指定切符を使って九州が多く、北陸も何回か来た。富山は駅前のホテルが安かったので泊まり、窓から路面電車を見たあと就寝し、窓から路面電車を見て起床した。
福井も路面電車を見に来たのだらう。一回来たことを完全に忘れてゐた。「北の庄城址公園、柴田公園のご案内」は福井市役所建設部公園課の発行。北の庄城址、福井城址の発掘調査について二ページに書いてある。最終ページには柴田勝家公の偉業として舟橋の鎖、九十九橋の話が載ってゐる。
「ふくい歴史マップ」は歴史のみえるまちづくり協会といふ市役所の外郭団体と思はれる財団法人が発行し、六十八万石を歩く、春嶽と幕末福井藩、足羽山(継体天皇)の三つに分けて、ゆかりの地を解説してゐる。橋本左内の遺跡を訪ねてまた福井を訪問したいものだ。

十一月十一日(金) 松本
平成13年8月1日の松本電気鉄道「バス・電車時刻表」と云ふ小冊子がある。思へば青春18切符日本海旅行の前触れが松本だった。朝一番の電車で立川駅に行き中央線普通列車で松本まで乗った。市内を見たあと夕方の普通電車で帰った。松本で数時間の余裕があったからその時間を使へば長野まで往復できる。と云ふことでその翌週あたりに長野まで往復した。次に上越線を使へば新潟まで日帰りで往復できると計画を立てたところ、妻が一泊したらと云ふので一泊して帰った。
それから宿泊を伴ふ日本海旅行が始まった。糸魚川の次は、敦賀、舞鶴、鳥取、島根と何年か掛けて回り、前回の山口県で完結した。富山、金沢、福井を抜いたのは寝台特急で何回も来たからだった。鶴岡、酒田、秋田は同じく寝台特急で行ったことがあるので抜いた。だから石原莞爾を調べるため青春18切符で鶴岡に行ったとき、前に来たことがあると思ひ出した。寝台特急のときは夜明け前に酒田に着いた。まだ暗い道を歩いて酒田港など市内を見終ったから日の出とともに鶴岡かどこか別の場所に行ったことを思ひ出す。

松本電鉄「バス・電車時刻表」には同社のすべての路線が載る。一番の主要路線は浅間線で、松本から信州大学経由浅間温泉まで平日と土曜は10分おき、日曜祝日は15分置きに発車する。二番目は新浅間線で松本から横田経由で浅間温泉まで走る。昔あった路面電車の路線だ。この線は平日と土日とも日中は一時間に三本運転される。
ところが「H20年7月16日からの浅間線・新浅間線ダイヤ」といふ一枚で両面の紙がある。これによると
浅間温泉までの運行は減便され、1時間に約1本の運行になります。
ダイヤは浅間線・新浅間線共に大幅な減便となりますが、新たに『信大横田循環線』『横田信大循環線』(松本バスターミナル~浅間橋折返しの循環線)が新設、それぞれ20分間隔の運行になります。
新浅間線は浅間温泉行が15:35、松本行きが8:00と16:05でどちらも平日のみ。新浅間線はかつての路面電車だから、その行く末がこれかとそのときは驚いた。
草津温泉に行った後の今となっては別の感想を持つ。草津町は温泉だけで町が成り立つ。浅間温泉は松本の寄生虫みたいな位置づけだから温泉が寂れる。この際、バスの減便だけではなく一般道路に関所を作って貨物と観光客と信大病院に通院する老人以外は通さない。市内に用事のある人は不便でサービスの悪いバスに乗る。それくらいやらないと浅間温泉は寂れるばかりだ。

十一月十三日(日) 高岡大仏、金沢城下町見て歩き地図
「日本三大仏 高岡大仏 高岡市」といふパンフレットがある。H14.8とある。木造の大仏が何回か焼失し、最後の焼失は明治三十三年。昭和七年の不燃の鋳造の大仏が完成した。だから三大仏と呼ぶのは大げさの感がある。しかし三つ折り最終ページには奈良大仏、高岡大仏、鎌倉大仏の順に創建されたことが載り、木造とは云へ歴史の長さでは三大仏に値する。最終ページには地図も載り、万葉線が走る。なるほど万葉線のことは完全に忘れてゐたが、乗ったことを思ひ出す。
「金沢城下町見て歩き地図」は2005年2月に金沢市経済部観光課が発行した。金沢中心部、野田山周辺、大野・金石、金沢広域図と四つの地図が載る。このうち金沢広域図の金沢駅と大乗寺に桃色で丸印がある。駅構内の観光協会で問ひ合はせたらしい。鉛筆で薄く、10時34 58、11時22 58と書いてある。バスの時刻表だと思ふ。大乗寺のホームページを見ると、交通案内に道路しか載ってゐない。バスは廃止されたのかも知れない。或いはと北陸本線の時刻表を見ると福井方面は各駅停車が10時、11時代に日本づつ。ただし10時は0 28、11時は3 29。富山方面は新幹線開通とともに第三セクター化され1時間に1本しかない。今となってはどちらだったか調べることはできない。
このときの旅行では大乗寺と羽咋の永光寺に参拝した。これより十年ほど前には福井の永平寺と能登門前町の総持寺祖院に参拝した。四つとも曹洞宗の大寺院だ。このときは永平寺までの鉄道と、能登半島の鉄道が走ってゐたが、その後、両方とも短縮されてしまった。

十一月十五日(火) 玉川上水
ここで一連の日本海旅行は一旦終了し、次は「玉川上水2 ~江戸市中の巻」と云ふ東京都水道歴史館が平成22年に作った小冊子がある。水道歴史館は二回行った記憶があり、二回目は数年前の感覚だったが、六年も経過したらしい。玉川上水は四谷大木戸より上流に目が行くが、この小冊子は市中のことが書かれる。今まで内容を把握してゐなかった。散策の地図も載り歩いてみようと一旦は思ふが、都内の四車線や六車線の道路を歩くのかとためらふ気持ちも湧いてくる。
二月十一日(土)追記 「玉川上水2 ~江戸市中の巻」平成16年も見つかった。前回と変はってはゐないだらうが、四谷大木戸水番屋跡から余水吐き(渋谷川)に目が行った。高速道路工事の前に実物を一回見たことがあるが、このときは水門があり下水管に余水が流れると記憶するからだ。東京都水道歴史館と云ふパンフレットはH17.10。私には都庁が出来る前まで西新宿にあった東京都水道記念館が懐かしい。玉川上水と云ふH16.3もある。最終ページに東京都水道歴史館の案内が載るのでこのページを上にすると歴史館のパンフレットに見える。中を開けて驚いた。このパンフレットは保管することにした。 貨幣博物館
「日本銀行券の肖像(平成16年11月作成)」と書かれたパンフレットがある。日本銀行金融研究所貨幣博物館が発行したものだ。十年ほど前に、休日は定期券のある新橋から丸の内、秋葉原、上野あたりまで散策することがよくあったからそのときのものだ。お札に使はれた肖像人物の紹介で、明治年間からは武内宿禰、藤原鎌足、和気清麻呂、菅原道真。聖徳太子は意外と新しく昭和5年、日本武尊は更に新しく昭和20年、二宮尊徳が昭和21年。岩倉具視、高橋是清が昭和26年、これ以降、板垣退助、伊藤博文が登場する。
かうやって見ると、昭和26年以降悪くなる。明治政府関係者になるからだ。お札は幕末までの人物がよい。それなら一層のこと現在のやうに夏目漱石や樋口一葉のほうがよい。だが福沢諭吉はよくない。党派性を帯びるからだ。賛成の人と反対の人が出てくる。福沢諭吉が嫌ひだからと1万円札を使はない訳にはいかない。野口英世も出世欲が強かったなど批判意見もある。だから幕末までが一番よい。
「日本銀行本店見学」のパンフレットもある。これは平日なので行かなかった。現在は情報過多だから役に立たない情報は見ないほうがよい。時間の無駄だ。
貨幣博物館とは別に、財務省印刷局の博物館が新宿区市ヶ谷にあった。環境計量士の講習が数軒先の「にっしょう会館」であった。私が二十代後半のときだっだ。だから懐かしい気持ちで入館した。二十年近い間隔を空けて二回行った。その後、王子に移転し、王子も一回行った記憶がある。
一月二十九日(日)追記
「日本銀行金融研究所貨幣博物館」のパンフレットを発見した。「物々交換から物品貨幣へ」から「金本位制度から管理通貨制度」まで10のコーナーに分かれる。

十一月十七日(木) 明治生命館
「【重要文化財】明治生命館 ご案内」といふパンフレットがある。それによると明治生命館は昭和9年に竣工され、戦後はGHQが接収、変換の後は明治生命の都内に分散してゐた各部署が移転した。そして平成9年に重要文化財、平成16年に30階建てのビルと融合し活用しながら保存された。土曜と日曜に一般公開され、私が見学に訪れたのは平成16年か17年だと思ふ。
社会責任を果たす明治安田生命は立派だ。

十一月十八日(金) 北京旅行
「xxx(株)悠久の北京3日間」といふ小冊子がある。私を含む東京の三名が一年間大阪事業所に所属したことがある。組織上のことで実際の勤務場所は東京のままだった。そのとき大阪事業所創立二十五周年行事があり、北京に二泊三日の旅行をした。その年の親睦会費は東京の二倍になり(或いは大阪は元々二倍でその代はり毎年旅行に行くのかも知れない。東京は忘年会、新人歓迎会をするだけだ)、事業所からも補助があった。しかし安い旅行だからみやげ物店にやたらと連れて行かされた。
平成十九年(2007)三月九日(金)八時関西空港集合。私はその前日に和歌山市内の安いホテルに宿泊した。関西空港で周りの会話はすべて関西弁だ。街中は全国から来た人がゐるが、関西空港はわざわざ東京から来て利用する人はゐないからだ(今は安い路線でゐるかも知れないが)。だから私は外国人のふりをしてずっと黙ったままだった。中国国際航空で北京着12:20。
専用バスにて北京市内の「北京富士通」視察(お客様の手配)
(途中、総合民芸品店にてショッピング)
ご夕食は、名物北京ダックと北京料理でお楽しみください。
[OP:中国雑技鑑賞 3800円]
とある。私はOPは申し込まなかった。宿泊は北京市大興区南小街吉暢路2号。Googleマップに入力したところ斯博瑞飯店がきちんと出てきた。市の中心部からは15Kmほど離れ、地下鉄もここまでは来ない。翌朝ホテルの周辺を散策した。バス専用高架や軍隊(或いは武装警察)の小さな駐屯地があった。次の日は
【世界遺産】◎万里の長城<八達嶺>、◎明の十三陵、◎頤和園 など。
(途中、総合民芸品店のショッピングと茶芸館にご案内)
ご夕食は、第2班と合同。レストランにて四川料理をどうぞ。
とある。次の日は
紫禁城こと【世界遺産】◎故宮博物館、世界最大の広場○天安門広場など。
(途中、総合民芸品店にてショッピング)
レストランにて昼食後、空港へご案内
とある。このあと、16:20の航空機で関西空港16:20。私は岸和田市内で一泊した。廊下から他の部屋の煙草の煙が入るので嫌な感じだったが、建物が木造で古いことは気にならなかった。

十一月十九日(土) 家族で香港旅行
「出発のご案内」と書かれた1枚の紙が出てきた。株式会社エイチ・アイ・エスの六本木支店が発行したものだ。3月30日18:35成田発22:40現地着のノースウェスト、帰路は4月3日13:30成田着。家族四人で香港を四泊五日で旅行した。パンダホテルと云ふ安価なホテルで大陸からの旅行者が多かった。地下鉄の駅まで歩けることも判り便利だった。Geocitiesの地図にホテル名と香港と入れると、ホテルの位置と写真が表示される。漢字では悦来酒店と書くことも思ひ出した。
六本木支店で旅行を申し込んだ理由は、通勤定期券の経由を当時はときどき変へて、高くなった分は自分で払った。当時は定期券が一カ月清算だったため、六ヶ月定期を購入して差額分であちこち経由を変へて気分転換と休日の散策に利用した。今は6ヶ月清算になったためできなくなった。

十一月二十日(日) 横浜線開通100周年
「菊名周辺の今昔」と云ふ三枚綴りの紙がある。平成20年9月23日13:00~13:30、於菊名地区センターとある。
はじめに
トークショーを楽しむための基礎知識を得ましょう
このとき横浜線の蒸気機関車の機関士だった老人の講演があったことを思ひ出す。横浜線が水没し電車は運転できなくても蒸気機関車は運転できたと云ふお話があった。この方の話は有意義で楽しくお伺ひした。
あと郷土史家が横浜線百年の本を出され、その講演もあった。この人は話が下手で、例へば日露戦争の話に脱線すると延々と日露戦争の話をする。聴衆は横浜線について聞きたいのであって、日露戦争のときロシアがどうだっただとか内閣がどうだったと云ふ話はどうでもよい。この人は話の全体の流れを把握できないらしいが、その性格がこつこつ資料を集めるのには役立つのだらう。横浜線百年の著書を読んでみたが、立派な内容だった。
「菊名周辺の今昔」を話されたのは、旧中堅財閥系研究所の研究員だが、私は悪い印象を持った。それは菊名駅のJR、東急連絡通路に自動改札を設けたのはキセル乗車の防止のためだと言ったが、さうではなくSuicaで自動支払ひのとき経由をはっきりさせるためだ。私は鉄道会社に訊いた訳ではないが、設置した時期からそれしか考へられない。あと、当時のWikipediaの菊名駅に書かれてゐた安直なエピソードを話した。
資料の2ページ目は菊名駅を中心に周辺の情報や当時の戸数人口を含む年表、3ページ目は昭和二十年の地図が載ってゐる。駅前に警防団詰所、駅の裏に酒醸所、現青少年図書館には杉山神社があり菊名神社に合祀、菊名神社向かひの路地を入った毘沙門堂は昭和二十七年蓮勝寺境内に遷座、蓮勝寺の前の道路はまだない。産婆が二軒、馬を飼ふ厩、つくだに店、鍛冶屋、桶屋、乾物店、肥料、瓦店が一軒づつある。私の手書きで貨物ホーム 日通の倉庫とあるので、地元の古老も講演されたのを思ひ出した。これは私が質問した。
youTVと云ふ横浜、川崎のケーブルテレビが横浜線の番組を制作し、鉄道アイドルの女性がレポーター、前述の郷土史家などが出演、菊名地区センターも制作協力といふちらしも当日配布された。

十一月二十一日(月) 鴻沼資料館
「鴻沼資料館」は浦和くらしの博物館民家園分館と書かれる。高沼用水について調べたとき、排水を土地改良区から市下水道課に移管するとき資料館を作る、或いは資料館も移管すると云ふ条件があった。だから見に行きたいものだと思ってゐたが、実家に行くのは年末年始だから休館する。なかなか機会のないまま数年後に行った。
現在では「高沼」と書かれたものが多いのですが、もとは鴻(おおとり)の飛来する沼ということから「鴻沼」と書きました。(中略)南北に細長い沼で、沼の周辺17か村の農業用の溜井(ためい/灌漑用の貯水)として利用されていました。
その後、江戸時代中頃(中略)見沼代用水西縁から水を引き、(中略)沼の中央に鴻沼排水路を掘り悪水(稲刈り前の不要となった水)を出す水路をつくることで、鴻沼を新田に変えました。
高沼川(旧鴻沼排水路)と鴻沼代用水西縁(西堀付近)と高台橋の写真が載る。手書きの略図には見沼代用水西縁から高台橋で中山道をくぐり、鴻沼川(旧切敷川)と合流ののち西縁と東縁に分かれ、中央を旧鴻沼排水路が下流に向けて発生し荒川に注ぎ、はるか西側を旧鴨川が流れる。
裏面は鴻沼資料館の成り立ちとして
鴻沼一帯は湿地帯であったため、上流から流れこむ水や、台風などの出水等で、たびたび稲作に大きな被害を与えてきました。そこで、昭和31年(1956)近隣の人々が集まって鴻沼排水関係二ヶ土地改良区連合を結成し、排水路の整備・改修に努めました。平成4年、鴻沼の歴史と下流部の田島地内の暮らしぶりを後世に残すため、地域のみなさんから寄贈された民俗資料をもとに、この資料館を設置しました。
平成4年に組合は事業完遂により解散しましたが、資料館はその後を受けた清算法人鴻沼排水関係二ヶ土地改良区連合から浦和市に寄贈され、平成7年7月からは浦和市立郷土博物館(現さいたま市立浦和博物館)の分館として公開されてきました。
とある。
一月二十九日(日)追記
「鴻沼のお話」と書かれたパンフレットが出てきた。下には浦和くらしの博物館民家園とある。
昭和39~40年の大改修で、切敷川と鴻沼排水路は一筋につながり、川幅も広く整えられ、霧敷川とも呼ばれました。平成2年、鴻沼排水路はその役割を終え一級河川「鴻沼川」となりました。
この話は初耳だ。
「こうぬま」には2つの書き方があります。江戸時代にも「鴻沼」「高沼」の両方の表記が見られます。読み書きに差のあった時代、「鴻」の字が難しいので(中略)「高」という字を使うことがありました。
「鴻」の字は「おおとり」を意味し、コウノトリやサギの飛来する沼で、江戸時代国、領を示す絵図や紀州鷹場絵図などには「鴻沼」と書かれ、農民の文書などには「高沼」と書かれることがあります。
この二つが先のパンフレットと異なる。或いは別の年代に二回訪問したのかも知れない。

十一月二十三日(水) 小さな幾つかのパンフレット
「タイ文化フェスティバル2010」は2010年6月12日(土)~13(日)上野公園噴水広場とある。主催は国際タイ舞踊・文化交流実行委員会とインターナショナルタイダンスアカデミー。前者の活動内容に
・年に一度の発表会
・タイの文化紹介
・講演会
・文化的資料の保存
とあるから、催し物のため臨時に作った団体ではなく、永続性を持つやうだ。念のためホームページを検索し「過去の実績」を見ると2000年から2006年までの「タイ・ロイカトン祭り」「日タイ・タイ舞踊交流フェスティバル」ほかが幾つも表示される。次に「公演情報」のボタンをクリックすると、何と「タイ文化フェスティバル2010」が表示される。この団体の最後の催し物を見に行ったやうだ。せっかく7年間活動したのにその後どうなったか心配だ。
この日のプログラムは
タイ音楽
[タイボクシング]ムエタイ
[舞踊]タイ舞踊(ITDAタイ王国舞踊団、インターナショナルタイダンスアカデミー学生)
など立派なものだ。代々木公園の混雑した中でタイ料理ばかりの催し物と比べてゆったりしてよい雰囲気だった。

次のパンフレットは「湊川神社宝物館」だ。湊川神社に行ったことは覚えてゐるが宝物館は完全に忘れた。神戸の中華街「南京町」や「関帝廟」も観たことは覚えてゐる。パンフレットによると、昭和10年の横山大観筆「大楠公像」、大楠公御真筆「法華経奥書」(重要文化財)などがある。

「史跡名勝偕楽園(本園内案内図)」は「第110回記念水戸の梅まつり 2006年(以下略)」とある。青春18切符が余ったため水戸まで往復したことを思ひ出す。裏面には「弘道館」の案内図が載り、ここも行った。途中で水戸黄門、格さん、助さんに扮した一団と出会った。実行委員会或いは地元のマスコミか何かの演出だと思ふ.

十一月二十四日(木)
「聖徳記念絵画館」は明治神宮外苑にある。05-9とあるから11年前或いは23年前。前半の四十枚は日本画、後半の四十枚は洋画だ。日本画のうち5が大政奉還、6が王政復古、7が伏見鳥羽戦だから、ほとんどが明治維新以降だ。
絵画館を鑑賞して、日本には日本画が合ふと確信した。絵画館の着工が大正八年。かなり西洋化が進んだ。絵画の世界でも洋画家が半分を占めたのだらう。八十枚の絵にはそれぞれ奉納者がゐる。日本画ふぬの岩倉大使欧米派遣は場所が横浜港で奉納者は横浜市、洋画50の枢密院憲法会議は奉納者が公爵伊藤博邦とある。維新の多数の犠牲者を差し置いて爵位に付いたのではさぞ居心地が悪いだらう。ここは辞退すべきだった。
国の施設だった明治神宮が宗教法人になったのは昭和27年のこと。
戦後も七年間は宗教法人ではなかった。最終ページには、明治神宮外苑之記、憲法記念館(現明治記念館)、御鷹の松、名木「ひとつばたご」などの説明がある。最後の二つは江戸時代のものだ。

「国指定史跡荘内藩校致道館」は鶴岡市に在る。寝台特急「出羽」で行ったか、石原莞爾を調べに行ったときのものか、おそらく後者だと思ふ。御入間(おいりのま)は天井と床下に賊が入らないやうになってゐることに記憶があるためだ。

「維新の道」は京都霊山護国神社内の明治維新史跡事務所の発行だ。坂本龍馬を先頭に、小五郎と幾松、禁門の変、草莽の志士たち、池田屋騒動、天誅組と生野の変について解説がある。旧霊山官修墳墓図も載る。

国宝姫路城はパンフレットだけがある。おそらく駅前で貰ったものの実際には行かなかった。鳥取、島根を回った時に立ち寄ったものだらう。

十一月二十五日(金)
江戸開府400年記念事業都立図書館「江戸・東京」資料展目録』は2003.11とある。
1 長禄江戸図 文化7写 1舗 66.2×77.3cm 東京誌料 A10-6
(中略)
84 御本丸表舞台蟇股 [甲良控] 写図3枚(彩色2枚) 各27.9×39.7cm 縮尺:1/5 [万延元(1860)]東京誌料 6169-24★

とある。確かに見に行った記憶がある。この当時はときどき都立中央図書館に行ったが、このときは展示があるのでわざわざ見に行った。

「東京都立日比谷図書館利用案内」は2004年3月作成とある。図書は2階で人文科学室、社会・自然科学室とホールにすべて開架、雑誌・新聞は3階、視聴覚資料は1階。閲覧室は1階と3階。視聴覚資料を借りた記憶がある。

「大磯 歴史と味の散歩道 コースガイド」は青春18切符が一枚余ったため、湘南地域を散策した。私の記憶にあるのは遊行寺だけだが、大磯には吉田茂を始め伊達、西園寺、伊藤、池田、大隈、徳川、山県、岩崎、安田などの邸宅があった。これらには行かなかった。岩崎邸の近くに島崎藤村の墓があり、ここは行ったやうな気がする。しかし600m離れた位置に島崎藤村旧宅があり、鉛筆で丸印がつく。行ったのは旧宅だった。

「真宗子ども手帳」は下に東本願寺とある。パーリ語の三帰依文、正信偈の解説にはインドの竜樹、天親、中国の曇鸞、道綽、善導、日本の源信(恵心)、源空(法然)も載る。これは貴重な資料なので保存することにした。

十一月二十六日(土) 理化学研究所
平成十九年に理化学研究所脳科学綜合研究センターの講演会を聴きに行きその資料、パンフレットがある。私が労働組合に加入した同じころ理化学研究所の事務職員が加入した。同じ時期に執行委員になり、我々2人は労組で一番真面目な2人と評されたこともある。その関係で理化学研究所の公開日に見学に行き、そこで講演会を知り参加した。

十一月二十七日(日) 静岡県富士市立元吉原小学校
「元吉原小SL博物館」は2006.10.19/10000部作成。4ページのパンフレットで、1ページから3ページまではSLの写真と解説が載る。4ページ目も上半分はSLの記事だが、下半分に
昭和45年、当時PTA会長であった高木一三氏のご努力によって、第1次駅舎が完成した。
 しかし35年の年月で老朽化した建物を再度、高木産業(株)会長の高木一三氏により建物はもちろん、外壁の実物大のレリーフをはじめ、屋内の展示スペースも充実したSL博物館となった。

とあり、昭和十五年に機関助士だった高木さんと機関士の方がSLの前で並ぶ写真が掲載される。高木さんの制服は胸の下から真っ黒だ。これは石炭の粉が付着したのだらう。その下には「都電7024」の写真も載る。あのとき訪問したのは都電7024が目的だった。この資料は貴重なので廃棄せず保存することにした。このときは昭和四十年代の都電愛好者仲間数人で訪問したのだが、富士駅のコンテナ積み降ろし所と、富士駅から北側周りの身延線廃線跡を一人で歩いた。皆と分かれてから歩いたのか現地集合の前に歩いたのかまったく想ひ出せない。
もう一つ「富士市と富士山周辺の観光マップ」は2008.7.15。新富士駅内ステーションプラザFujiにある富士山観光交流ビューローの発行だ。A2版くらいの大きな地図には北は河口湖、南は駿河湾、東は芦ノ湖、西は思親山までが載る。裏面のA4程度の富士市内詳細図には左富士が載り、旧東海道を歩きここにも寄ったことを思ひ出した。

十一月二十八日(月) 新宿歴史博物館
新宿歴史博物館の常設展示シート3「道と宿」、4「町の文書資料(人別書上控)」、7「夏目漱石とその弟子たち」、新宿駅前のチンチン電車、9「昭和初期 新宿うまいもの食べある記」がある。このうち3の裏面は内藤新宿、4の表面は人別書上控(人別帳)が載る。
人別帳は寺が作ると思ってゐたが、これは町別、家主別に書かれる。資料には町の支配は家主通じて行はれるとある。寺が戸籍なら町のものは住民票といったところだらう。二家族が載るが、最初の家族の夫は越後蒲原郡茅場村、妻は麹町平河町の出身、もう一家族は夫が武州多摩郡分梅村、妻は四谷伝馬町の出身。二家族とも夫が田舎から江戸に来たのは偶然かそれとも当時から今と同じで首都圏に人が集まるのか。裏面は私の手書きで
・火吹電車
自働遮断器が「ガチャッ」と音がして火を吹くことがありますが決して危険なものではありませぬ「アワテ」ない様に願ひます。
とある。展示に書かれたものを書き写したのだらう。私もこれは体験したことがある。都電の12番(短縮後の新宿-岩本町)に乗ったところ、九段坂の手前でガチャッと大きな音がして埃に火が点いたのだらう、火がフワフワっと空中を飛んだ。そのすごい音と火に乗客全員が驚いたことだらう。遮断器にはこれ以外に空気式、間接式がありこれらはこのやうな現象は起きない。しかし空気式は反応が遅いさうだ。その下に更に手書きで
S2年 電車案内図
国鉄踏切南に品川、踏切渡り高輪南町、品川駅前
市電は品川まで、京急は品川駅前まで
上野公園が上野だった。旅篭町から松住町、須田町、神田駅前、今川橋
大塚仲町が大塚町、語告示前が終点。駒込橋の南北で分かれている。
7の裏も手書きで
芝橋、南浜町、車庫
角筈の1つ南が新宿、追分、新宿、大木戸
----------------------
5000はトロリーキャッチャーが付いていた?ドア開閉が付いていない
路線番号が行先の右
9の裏面は
S34 交通局の文書(東京都公文書館)
路面交通の混乱は個人交通機関(自動車)の発達によるものであり、混雑緩和を大衆交通(路面電車)の犠牲に行うのは、公益優先の主旨からも適当ではない、と主張している
手書きは新宿歴史博物館の展示と思ってゐたが、別の場所で読んだものもあるやうだ。
トラムとメトロ
8000 D25に取り替えたのが10両ある
1000 40両(A、1段ステップ)、45両(B、2段ステップ)、45両(C、ベッシュビュールの上半に傾斜付き)3段
A 1001~32
B 1033~50
C 1101~1123

「都電60年の生涯」
空気バネ付のD-22 D-24
浜町森下町
月島新佃島


十二月十一日(日) 逓信総合博物館
逓信総合博物館が閉館になる前に訪問した時に頂いた資料がある。まづ「電報送達紙のうつりかわり」で発行は平成五年に日本電信電話株式会社宣伝部、編集は(財)逓信協会博物館部とある。先頭のページには
この冊子は、わが国の電信業務に使用された電報送達紙で、当館の所蔵のものを年代別に配列したものである。
明治3年の傳信機掛方、明治5年3月の傳信局から4月の電信局、明治44年に郵便局の消印と同じものを使ひ始め昭和53年の電電公社最後の用紙に至る。最後に1枚NTTのものがある。
「自用法通信用 線路・ケーブルのあゆみ」は1枚4つ折り表裏で、逓信総合博物館の下に監修NTT東日本、最終ページに(2001.9)とある。
同じ形態、色の用紙の「コンピュータとネットワーク技術開発の歴史」はバイポーラ・集積回路の写真に始まり、1945年にノイマンの電子計算機理論発表に始まり、翌年にENIAC、1948年マイクロ波無線通信の研究開始、1953年長距離市外通話の手動即時開始、1954年シリコントランジスタ開発など、コンピュータ、半導体集積回路、ネットワークの壮大な年表だ。逓信総合博物館の下に監修NTT、最終ページに(1998.3.31)とある。これは貴重な資料なので保存することにした。
「テレコミュニケーション 歴史と科学」は中学高校生向けに電信と電話の仕組みをB5版で18ページに亙る。2011とある。
11の山と谷のじゃばら折りの表に「電話機のうつりかわり」、逓信総合博物館の下に監修NTT、(2011.11)とある。明治9年のベル電話機から11台目の昭和25年4号電話機。これは私が幼稚園のときから家にあった。その2台後の600型電話機。これは小学校5年の時に友達の家が電話に加入したときに見た。裏面は「公衆電話機のうつりかわり」で明治33年の磁石式公衆電話機から4台目の昭和22年4号自動式ボックス公衆電話。これは私が子供のころから高校1年あたりまであった。最終ページには電話ボックスが載り、最後から二番目の昭和29年の鋼製ボックスは中学生ころまであり、その後は最終ページのガラス壁のものに取って替はった。

十二月十七日(土) 続、小さな幾つかのパンフレット
「まちかど博物館」と題の書かれた一枚のわら半紙がある。浦和の中山道とそこから少し入った玉蔵院周辺の老舗に伝はる道具や写真の一覧表だ。これは貴重な資料なので保存することにした。
小学校の運動会のプログラム。平成20年9月27日(土)とある。うちの子の参加する種目には鉛筆で〇が書かれてゐる。昼食時間の11:40にも〇がある。
鍋屋横丁の宿91駒沢陸橋行きのバス時刻表。地下鉄を使はずバスで通勤した時期があった。17時51分が駒沢陸橋行き。これを逃すと18:03、15、27、38は新代田駅前行きで18時50分まで無い。朝は6時台の2本、7時台の4本がいづれも駒沢陸橋行きだ。8時は30分までの3本のうち2本も同じだ。ここまでは新発見だ。しかしこれ以降、1時間あたり4本から5本あるうちの1本だけが駒沢陸橋まで行く。駒沢陸橋から新宿に向かふバスは、7時55分頃と8時5分頃の2本あり、前者は私立小学生の女子児童が何人か乗車した。高円寺陸橋で降りるから光塩女子学院初等科と云ふカトリックの学校だらう。ところが2本を統合して後者の1本になった。これから小学生の姿が消えた。まもなく私も乗らなくなった。そして3年前の3月31日で駒沢陸橋行きが廃止になった。
「2009年横濱中華街 春節」といふ二つ折りのパンフレットがある。下には神戸南京町の春節の案内も載る。春節を観に行ったのは8年も前になったのか。

十二月二十三日(金) 二ヶ月弱でやっと部屋が片付いた
引っ越しの日は段ボールから中を出して部屋に置くことで精一杯だった。その後、パンフレットなどを今回の特集に書き込んでは破棄することを続けたが、なかなかはかどらない。一週間ほど前から空いた段ボールに紙類を詰めて徐々に破棄することにした。先週と今週で整理が完了した。今までベッドの上でノートパソコンを使ってきたが、本日から洋室の床に座布団で座卓に向かふ。これで落ち着いてパソコンを使へるやうになった。

一月七日(土) 続、逓信総合博物館
「電話交換方式のうつりかわり」は1枚4つ折り表裏で、逓信総合博物館の下に監修NTT東日本、裏面「主要都市 電話交換方式のうつりかわり」に(2009.11)とある。
表面では明治36年の共電式加入者交換機で、従来の磁石式交換機は加入者電話機に送話用の電池、信号用発電機を備へてゐるため保守に人手を要したのを改良した。私は磁石式の通話は電話局の電源を用ゐるのかと思った。大正15年にA型自動交換機。これ以下の昭和30年クロスバ市内自動交換機、34年クロスバ市外自動交換機、47年電子交換機は予想外に開発時期が早い。裏面は主要都市の磁石、共電、A型、クロスバ、電子、ディジタルの色別年別グラフが載る。

一月七日(土)その二 興亜観音
右側に「興亜観音」と題字が書かれたパンフレットがある。左側には「"怨親平等"の慰霊 日中両軍戦没者を祀る」と書かれてゐる。(以下興亜観音として独立)


一月八日(日) 三、小さな幾つかのパンフレット
「川崎市立日本民家園」によると昭和42年に開園した。二十三軒が軒を並べる。宿場、信越の村、関東の村、神奈川の村、東北の村に大別される。宿場には奈良市と名古屋市の民家が1軒づつあるため、展示対象は日本全国かと思ったが東日本だった。昔はこのやうな民家は至るところにあった。昭和四十二年はまだまだあちこちにあったことだらう。裏面は民家のできるまでと、切妻造、入母屋造、寄棟造の屋根の種類、民家の構造、ニ間取り、三間取り、四間取り、大型間取りの図面がある。
注目すべきは日本民家園の住所、電話、FAXのうちFAXをマジックインキで消してある。電話FAX兼用機の出現する前の電話番号が別々だった時代にFAXを使はなくなったのだらう。
「伊勢の神宮」は神宮司廳の発行でH15.5.50。治橋、神路山と島路山、御手洗場、皇大神宮(内宮)、豊受大神宮(外宮)について解説し、その後は題字を一回り小さくして社殿の様式と配置、神宮のお祭、皇大神宮別宮、豊受大神宮別宮などについて解説がある。十四の別宮、百九所の摂社・末社・所管社とある。

一月十四日(土) 三渓園
横浜本牧の三渓園は入場した記憶はあるものの、「文化財の古建築 臨春閣・白雲亭・鶴翔閣 内部特別公開」の三枚A4版のカラー紙はまったく思ひ出せない。
臨春閣は慶安2年(1649)紀州徳川家の多くの別荘の一つで、明治時代に原三渓が購入し、大正6年園内に再建した。国指定重要文化財。三渓園は金持ちの邸宅だが誰だか記憶にない。原三渓と云ふ名前も完全に忘れてゐた。と云ふより記憶する価値がない。紀州徳川家に多くの別荘があったことと云ひ、嫌な印象を持つ。
白雲邸は
家族と住む鶴翔閣から住まいを移して(中略)亡くなるまでの約二十年間を過ごし
とある。二十数畳の大きな談話室を除いて、六畳の少応接、八畳の一の間、十畳の二の間、細長い六畳の衣装の間、三畳の書院、四畳の裏書院とそれほど贅沢ではない。現代人が贅沢になり過ぎたためだ。尤も玄関から談話室の先までの長い廊下と使用人部屋の思はれる八畳の部屋、廊下が談話室の先で扉を経て屋内の縁側になるなど普通の家屋ではない。このパンフレットは表面のみ。
もう一枚は臨春閣の「難波十詠和歌色紙」だが読まなかった。農民の年貢による贅沢な別荘の色紙なぞみたくもない。このときの内部特別公開は十年ほど前だと思ふ。七年ほど前に台東区池之端にある旧岩崎邸庭園(現、都立公園)が無料公開されたことがあり、観に行った。あの様なところお金を出してまで入園する価値は無いからだ。ところがまったく記憶に無い。金持ちが質素に暮らすなら社会に役立つ。金持ちが贅沢に暮らした建物を見ても社会の役に立たない。
話を三渓園に戻すと、鶴翔閣はパンフレットが無いのでインターネットで調べると、現在は楽室棟、茶の間棟、客間棟に分かれ接遇、結婚披露宴、演奏会、展示会に貸し出される。かつて横山大観、下村観山らが創作のために滞在した。楽室棟は画家たちを招き、自ら集めた古美術の名品コレクションを鑑賞し、論評しあった。茶の間棟はかつて居間として使用され八畳間など今から見れば質素な造りだ。客間棟は床の間のある八畳の和室で立派な造りだ。三溪に招かれた画家たちは、この部屋で多くの名作を生み出したとある。
当時の家は私的な場ではなく、公共の役割もあった。紀州徳川の別荘を除き、残りの二つは贅沢過ぎると批判するほどのものではない。洋館の岩崎邸と比べて和風の伝統建築であり、横浜の重要な観光地と云へる。

一月二十九日(日)
三棟屋博物館は香港茎灣古屋2號とある。三棟屋は香港の客家の村で十八世紀に造られた。入場料は無料だったと記憶する。
和歌山城は昭和二十年に戦災で焼失、昭和三十三年に鉄筋コンクリートで建設。入場したのかパンフレットを貰っただけなのかまったく記憶にない。
神奈川県立図書館の「利用のごあんない」は2007.4とある。地下にはまだ食堂がある。本館は一階と二階のみ、新館は地下一階から四階まで。このことは今回初めて知った。
向島百花園の入場券。都バス一日乗車券であちこち回った時に入園したことははっきり記憶がある。十五年くらい前だらうか。
「横山大観記念館」は「平成24年度 展示のご案内」とある。四年前だからはっきり記憶にある。

二月十一日(土)
「Microsoftエンカルタ総合2007」と書かれた厚紙のCDケースがある。「進研ゼミ特別版」「中学理科・社会編」とある。未開封なのでVista機にインストールしてみた。あと二ヶ月でVistaは終了だが。中学生向けなので簡単過ぎるが、5分ほど見た。
「文京ふるさと歴史館」は2004.6とある。樋口一葉旧居・井戸、一葉かりの旧伊勢屋質店、作家X旧居跡などが歴史館の近くにあり地図に載る。
「樋口一葉」と行書で書かれたパンフレットは西片の印刷会社の制作だ。旧丸山福山町に立つ一葉碑について書かれてゐる。
道元の普勧坐禅儀。上が漢文、下が書き下し文。どこで頂いたかまったく思ひ出せない。
箱根関所・資料館特別割引共通観覧券。半券が切られ大人250円とある。
故宮博物館の参観券。中国の略字体だから北京のものだと判る。Nestleと宣伝が入る。(完)

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