八百六十(その四) 横山禎徳氏「課題設定の思考力」

平成二十八年丙申
八月十三日(土) はしがき
「課題設定の思考力」は「デザインする思考力」より先に読んだものの、よい印象を持たなかった。その後「デザインする思考力」に予約者が現れて貸し出し延長不可になったため、こちらを先に完成させた。「課題設定の思考力」を改めて読み、やはり好きではないのでその理由を探りたい。はしがきに
東大EMPは二〇〇八年一〇月に社会人を対象に開講した。将来の組織の幹部になる可能性のある四〇代の優秀、かつ多様な分野の人材を主たる受講生としている。常に二五人いないに限定し、(中略)金曜日、土曜日の終日を活用した六ヵ月のプログラムである。

将来の組織の幹部になるかどうかは、将来にならないと判らないし、「四〇代の優秀」とは一体何だ。年功序列を肯定してはいけないし、優秀に教へる横山氏らは超優秀なのか。嫌な感じがするのはまづこの部分だ。
次に
地域の相互連鎖の進行は、一般にグローバリゼーションと呼ばれている。俗な言い方をすれば、「日本が世界に染みだしていく、世界が日本に染みこんでくる」のである。日本もアメリカで起こったリーマン・ブラザーズの破綻の影響をもろに被ることになってしまった。

米ソ冷戦の終結ののちは、西洋文明、特にアメリカ文化が圧倒的に優勢だった。そのような中で世界が融合を続ければ「世界が西洋文明に染まり、非西洋地域は混乱して永久に平安は訪れない」と云ふことになってしまふ。日本がリーマンブラザーズの影響を受けたのは最近だが、戦前にも世界大恐慌があった。決して最近「グローバリゼーション」が進んだ訳ではない。日本国内でグローバリゼーションなる語を叫ぶ連中は、日本を西洋化しようといふ下心を持ってゐるだけだと、私は最初から思ってきた。
それと並行して、「分野の相互連鎖」が実は起こってきている。(中略)もはや伝統的な分野に閉じこもっているわけにはいかない。そのことはインタビューをさせていただいた六人の話の中に常に出てくるテーマでもあった。

六人といふのはこれから第一章から第六章まで取り上げるが全員が東京大学の教授だ。分野だけではなく大学間を相互連鎖したほうがよいとは思はないのか。この本に嫌な印象を持ったのは、大学卒業時だけではなく四十代になっても学閥意識を補強しようといふ意図が見えるからだ。
日本が、課題を解決できる国であることは過去に証明されている。欧米先進国に「追いつけ追い越せ」であれ、「豊かな中流生活」であれ、すでに実績がある。しかし、他に先駆けて課題を設定し、世界に受け入れさせる能力があることはまだ証明されていない。

日本に限らず欧米以外の世界各国がそれぞれ永続可能な国家運営をしてきたといふ事実こそ尊い。大航海時代以降世界は武力で侵略する仕組みになってしまった。米ソ冷戦の終結以降もイラクなどでこのやり方が使はれてゐるが、大勢は経済で支配する仕組みになった。だから経済で世界に受け入れられる能力は日本に無いかも知れないが、日本に限らず欧米以外の世界各国は数千年の永続の歴史がある。このことこそ世界に誇るべきものだ。
世界各国は国内で受け入れられることを行ふべきで、それが世界に受け入れられるかどうかは各国の事情による。そこまで気にする必要はない。

八月十四日(日) 第一章
第一章は浅島誠氏(東京大学名誉教授、産業技術総合研究所フェロー・幹細胞工学研究センター長)で発生生物学が専門。
議論をできない人が増えているのは本当に気になりますね。いろいろな人と議論することがなぜそれほど重要なのかといえば、議論のなかから自分を超える人を見つけられるからなんですね。この人はこんな素晴らしいことを考えているとか、この人はこんなことができるんだと感じて、素直に素晴らしいと思える感覚が大事です。そういう人に出会うことで、自分の世界を広げていける。
浅島氏はよいことを云ふ。
お年寄りが持っている長い人生で積み上げてきた考え方やものの見方は、じつに有り難いものです。一緒に過ごせば、絶対にいいですよ。一見古くさいように見えるけども、その人の人生の本質を語っていますから、深く学ぶことができます。
これも貴重な発言だ。
生物でいうと、多くは卵を産みますね。産み終わると大海原に出ていったり、山の中に入っていったり、成体になるとかなり遠くまで行くのですが、いずれまた卵を産んだ場所に戻ってくるんですよ。たいがいの動物にはそのような帰巣本能があります。このことは裏返せば、動物はみな帰っていく場所や迎えてくれる場所が必要だということです。
ここでもよいことを云はれてゐる。昭和三十年辺り以降、もっと広く取れば明治維新以降の日本は生まれた場所と帰る場所の異なる人が多い。これは異常事態だ。浅島氏はインタビューの最後のほうで
私自身は発生生物学の研究者として、第一に、自然の摂理から著しく離れることはやってはいけないと思っています。生殖細胞については、次世代に影響を残すような操作はしないというのが、基本的な考え方です。(中略)いまの時代、どこの国でも、またどの分野も、激しい競争にさらされていますから、悠長なことを言っていたら競争に負けてしまうというのが、おおかたの意見かもしれません。(中略)自然の摂理とナチュラル・ヒストリーに基づいた生命観が必要です。
これもよい話だった。

八月十四日(日)その二 第二章、第三章
第二章は秋山弘子さん(東京大学高齢社会総合研究機構特任教授)でジェロントロジー(老年学)が専門。アメリカに留学の後に向かうで教授を歴任ののちに帰国。
いわば日本に愛想尽かして、アメリカに行ったわけですが、外から見ていると、日本は思ったほど悪い国ではないことに気づきます。日本にないアメリカの悪いところもたくさん見えてきます。
これはかつては海外に生活した多くの日本人に共通だった。ところが最近は、英語、英語と叫ぶだけの連中や、英米の主張をうのみにして例へば極東軍事裁判を正当化するなど低質なものが多い。プラザ合意以降の円高で留学生が低質になったためだが、秋山さんはその前の留学生だった。
私が長く暮らしたアメリカでは、多くの人がアーリー・リタイアメント(早期退職)を望んでいます。XX教の影響でしょうか、基本的に労働は苦役と考えています。(中略)一方、日本の多くの高齢者は働けるだけ働きたいと願っています。その動機は経済的な理由がゼロではないにしても、「人の役に立ちたい」という思いからであり、それが生きがいにもつながっていく。日米のこうした価値観の違いは、高齢社会のありようにも大きく影響します。
これは同感だ。外国の真似をしてはいけない。特にアメリカは平衡状態に達してゐないから、絶対にアメリカの真似をしてはいけない。

第三章は岡村定矩氏(東京大学名誉教授)で銀河天文学が専門。
昔は紙テープに穴を開けて情報を書いていた。そんなテープを読める機械はもうありません。紙テープはいまも私の手元に残っていますが(中略)読み出すことはできないのです。(中略)新しい記憶媒体でも、おそらく事態は変わらない。(中略)三〇〇年くらい先の歴史家が、「二一世紀の初めって、人類はいたらしいけれど記録が全くない。(以下略)」なんて言い合っているかもしれない。残っていくのはロゼッタストーンだけかもしれませんね。
DVDやテープが見つかれば、その読み取り装置も作られるはずだが、技術が継承されないと解読はできないかも知れない。デジタルのデータを変換して伝へていけば大丈夫なはずだが、情報量が多すぎて駄目だと岡村氏は危惧するのだらう。それより自然破壊でそこまで人類が生き残れるか。生き残るのはジャングルの山奥だけでデータを読めないかも知れない。

八月二十日(土) 第四章
第四章は中島隆博氏(東京大学総合文化研究科准教授)で中国哲学が専門。
日本の近現代中国に関する研究のあり方が、中国思想をつまらないものにしてしまったのだと思います。明治以降、とりわけ日清、日露戦争の後、(中略)たとえば清朝の後期以降の中国は全然だめ、中華民国もだめ、さらにはある時期の中国共産党もだめと、かなり低く見積もってきた経緯があります。
その一方で、古典中国には西洋文明に匹敵するほどの高い評価を与えています。(中略)しかも、戦前のある時期は、その立派な古典中国を、もっともよく継承しているのは日本であると言って、古典中国への賞賛を自国の賞賛に利用するといった作業まで行われました。
日清戦争の後に中国を軽蔑するやうになり、日露戦争の後は日本に慢心が多くなったから、この部分は賛成だ。しかしこれに続き
戦後になってさすがに、そういうためにする言説はなくなりましたが、古典中国に対する賛美は変わらず続いていきます。
昭和末期或いは平成初期辺りまでは、この通りだ。しかしそれ以降、日本の西洋化が進み中国古典への賛美は、論語、孫子、三国志などわずかな例外を除いて無くなった。プラザ合意による円高で欧米に旅行する人が増えたためだ。あと余裕の無くなった日本企業が欧米の都合のよいところだけを日本に持ち込まうとしたからだ。
中国では、四世紀から五世紀にかけて仏教が本格的に入る前と後、ここで決定的に変わりました。仏教が入ってきたときにもっとも人々の心をつかんだのは、「救済」という概念です。人は誰であっても救われる、こんなことはそれまでの中国思想では想像もつかないことでした。(以下略)。
そして、こうした仏教からの影響を受けたうえで、もう一度中国の古い思想を刷新しようという転換が起こります。(中略)これをやったのが一二世紀の朱熹です。
ここで疑問なのは、仏教が入ってから朱熹が現れるまで7百年。こんなに離れて影響があったと云へるか。疑問はまだ続く。
ただ、仏教が入る以前、「救済」という概念そのものはなかったとはいえ、中国の思想が一般庶民にまったく関心を持っていなかったわけではありません。たとえば、現世利益的な言説については道教が担って(中略)人々の生き方を支えていました。一方では、儒教が儀礼をつくっていきます。
だとすれば仏教が入る前から救済はあったと云ふことだ。中島氏は中国哲学が専門なのだから仏教の救済思想と道教の救済思想の違ひを説明すべきだ。このあとも、中国は儒教に帰らうとしてゐる、荘子、節制の徳と話は続くが、本質的な話のないまま終了した。

八月二十一日(日) 第五章
第五章は家泰弘氏(東京大学物性研究所長・教授)。横山氏が家氏に
私は、東大EMPの受講生には、どんな分野であれ「それが何の役に立つのですか」という質問はしないでほしいと言っています。(以下略)

と話すが、私は、横山氏の意見に反対だ。役に立たないことは研究すべきではない、しかし真実が判るといふことは役に立つことだ。つまり仮説の上に立つ仮説は役に立たないが、それ以外は役に立つ。例へば西洋文明だけが優れてゐるだとかの仮説の上に立った仮説は役に立たない。
横山氏は次の質問で
コンピュータと人工知能の発達により人類をしのぐ知能が現れて、近い将来人類がそれらに支配されるようになるという考え方で(中略)技術的特異点と呼ぶわけです。これは一種の終末論なんですね。こういう見方について、どうお考えでしょうか。

に対して家氏は
研究が進むほど、むしろ人間の知性の奥深さが認識されるようになったと思います。技術の発達について言えば、たとえば「ムーアの法則」という有名なものがあるのですが、(中略)どこかで集積度が頭打ちになるのは当然でしょう。
前半は賛成だ。私が思ふに、人間の知性の奥深さとは脳の複雑さではなく、人類が数千年を掛けて作り上げてきた文化の複雑さだ。後半は集積度が頭打ちになった時点で今度はCPUをどんどん大きくしたらどうか。人類を超えるのは時間の問題だ。それより初期の哺乳類から人類までの脳の発達を真似しないと人間の脳と同等にはならないから、これは過去の哺乳類が揃ってゐないから無理だが、人間の脳の発達の仕組みが新生児の健康管理を兼ねて磁気観測器を妊婦に装着すると判るやうになるだらう。さうなっても人類が支配されることはないはずだ。コンピュータは増殖できないし、スヰッチを切れば停止する。(完)


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