八百六十(その三) 横山禎徳氏「デザインする思考力」
平成二十八年丙申
八月六日(土)
はしがき
三冊借りたなかで、この本だけは次の予約が入って延長できない。といふことで「デザインする思考力」から読書記を書き始めた。まづ「はしがき」でEMP(エグゼクティブマネージメントプログラム)とは
ビジネス・スクールでもなく、高級カルチャー・センターでもない、その両方が満たしていないものを扱おうとしている
とある。これだと否定的な評価になってしまふ。少し先に
伝統的な「教養」の定義を超えた、強靭な「知」と「思考」の最前線を知ることである(中略)。すでにわかっていることではなく、わかっていないことは何であり、それにどうアプローチしようとしているか。それがまさに、いまの時代が要求している先端的な知であり、それを支える思考能力であるはずだ。
これは賛成だが不十分だと思ふ。わかってゐないことをわからうとする目的は何かを明らかにする必要がある。
スマホやタブレットで便利になった世の中について
その代わりに何かを失っているのではないだろうか。それはたぶん時間をかけて何度も行ったり来たりしながら、深く考えるという規律であろう。(中略)「デザインする」とはまさにそういう面倒なことをやる作業であり、それに耐えていく辛抱強さが本質である。
これがEMPの本質なら、私も賛成だ。次に
まず仮説を作り、その妥当性や有効性を試してみる。結局、上手くいかない、気に入らないということで捨てざるを得ない。気を取り直してまた新しい仮説を作り出して、試してみる。それを何度も繰り返す作業を忍耐強く続けていると、最初の仮説がとても幼稚に見えるくらい練り上げられた、そして誰もが簡単には思いつかないような仮説にたどり着くことができる。
これは分野によって異なると思ふ。普通は仮説が正しかった或いは間違ってゐたのどちらかで、何度も行き来はしない。それを何度もすることがEMPの本質だといふのなら、EMPは普通の研究が単調なのに対し利益を激増させるのが目的だ。最初はさう思った。私がこのとき思ったのは後に出てくるプロモーション部隊の事だったが。
八月六日(土)その二
第一章、第二章
第一章は村山斉氏(東京大学カブリ数物連携宇宙機構・機構長)で、宇宙は暗黒物質22%の他に暗黒エネルギー73%、宇宙が加速の仕組みをわかりやすく解説された。しかし全体では日本の優位は偶然が重なったといふ内容と東京大学の自慢話で終はった。話した村山氏が悪いのではなく、聞き出して編集した横山氏が悪い。だから各章のまとめである横山氏の「知とデザイン1」でも頭の良いクラスメートがゐただとか無益な話で始まる。役立つ話もあり
数学、物理学、天文学の専門家たちが研究室にこもりきりになるのではなく、彼らが常に出会い、自由に議論できる、村山先生によるとイタリアの街の広場のようなスペースが中心にある。そこには大きな黒板(白板ではない)がいくつも置いてあり、興が乗ればすぐにチョークで数式を書きながら議論が始まるような雰囲気を醸し出している。そして、いろいろなフロアからその様子を垣間見ることができるようになっている。
これはよい話だ。日本の特長を生かせるからだ。今から十年以上前に筑波の加速器を見学したとき、部屋に神棚と日本酒の一升瓶をお供へしてあった。加速器の写真撮影に忙しい別の見学者たちに、かう云ふものを撮ったほうがいいですよと薦めたことがある。私は写真機を持って行かず撮影を逃したが。世界的な発見はたぶんこのやうな雰囲気から生まれる。日本の特長が生きるからだ。話を戻すと常に出会ひ自由に議論できる場がなぜ日本の特長になるかと云へば、日本の人間関係で集まるからだ。ドイツやフランスでこのやうな場を作れば同じくドイツやフランスの人間関係で集まる。ただしどの国も集まっただけで特長になるとは限らない。短所になることもある。
第二章は難波成任氏(東京大学農学生命科学研究科教授)で植物病理学が専門だ。
データ集めはアメリカの戦略です。ただ、そうすると日本も取るべき戦略を考える必要がある。それなのに、文明開化のときからずっと欧米列強の戦略の追認、追従です。差別化したところで、「欧米人とは遺伝的背景が異なるから、日本人についてもビッグデータを取る必要がある」くらいでしょう。その時点で二番煎じなのだから、目標ではなく踏み台でしかないと考える必要がある。最初の課題設定に問題があるわけです。それではだめです。日本は独自の課題を設定して、もっと付加価値の高い研究を戦略的に行って成果を挙げていくべきです。政治家や官僚だけでなく企業人にも分かってほしいのですが、まずは大学がそのモデルを提示するべきなのです。
これは貴重な正論だ。しかし横山氏は「知とデザイン2」で本質とはかけ離れたことを主張してゐる。築地本願寺の講演でも話されたカロリーベースと金額ベースだが、世界が変動したら金額ベースは大きく変はる。だから非常時のためにカロリーベースを用ゐる。
八月七日(日)
第三章
第三章は池内恵氏(東京大学先端科学技術研究センター准教授)でイスラム政治思想が専門だ。
もしイスラム教の理念が、リベラル・デモクラシーに収斂していく世界の中で独自性を保っていけるのであれば、それは非常に興味深い。もしそうでなくて、イスラム世界もまた、紆余曲折を経てであってもリベラル・デモクラシーへと合流するのであれば、その過程を研究していれば、巨大な世界史的変化を目撃することになる。
まづリベラル・デモクラシーに収斂といふ考へ方自体がソ連崩壊後に出てきたもので、しかもすぐ後に地球温暖化問題が出てきてリベラル・デモクラシーは地球滅亡と引き換へであることが明らかになった。池内氏はなぜそこまで見ないのか。横山氏は「知とデザイン3」で
九世紀にアッバース朝のカリフであったマームーンが「知恵の館」という図書館を作り、ギリシャの科学、哲学などの文化をアラビア語に翻訳して継承し、(中略)その集積が後に西ヨーロッパの「ルネサンス」と呼ばれる活動、(以下略)
ところが
その後のイスラム世界では西ヨーロッパで起こったような科学・技術の発展に結びつかなかった(以下略)
その理由は池内氏の説明によると、このようなこと自体がアッラーの神の啓示なのだといふ。そして
日本の科学に関わる歴史を振り返ると、同じような問題を抱えているように思う。(中略)ドイツの医学者ベルツは、日本人は学問(科学)を便利な機械のように扱っているが、決してそうではなく、学問(科学)は有機体であり、それが育つ風土や気候、土壌が必要なのだという趣旨の警告を発した。
(前略)あるフランス人に「日本人には哲学がないから原発は向かないのでは、という意見がフランスにある」と言われたが、すぐに反論できなかった。
日本の哲学とは即ち道徳であり、社会の公序良俗であり、宗教である。日本に西洋哲学が無いのは当たり前だ。日本の道徳、公序良俗、宗教を破壊してきたのがリベラルと称するシロアリ民進党や社会破壊拝米新自由主義反日パンフレット(自称朝日新聞)だ。
思想、習慣の存続できる期間も注目すべきだ。ギリシャの科学、哲学をお蔵入りした西洋の中世は長い期間存続できた。しかしルネサンス後の西洋は戦争を繰り返し、世界中を植民地にし、米ソの冷戦で朝鮮半島、インドシナ半島は大変なことになり、冷戦が終はったと思ったら今度はアラブに口を出し混乱させ、あげくは地球温暖化だ。西洋に混乱をもたらしたと同じやうに日本も混乱した。それなのに
現在のイランは、世界最古の文明であるかつてのペルシャ(波斯国)としてのプライドから覇権主義的な傾向が強いが、その目的を達成するために「波魂洋才」をやろうとしているかに見えるのである。それがイスラム教の教義や思想とは関係ないところで行われようとしている。(中略)日本の二の舞以上の問題を起こすのではないかということを恐れる。
イランがかつてのペルシャのプライドから覇権主義だとは思はない。イランとイラクの戦争はイラクが仕掛けたものだ。イラクのフセイン元大統領はアメリカがイランとソ連を抑へる目的で育成したものだ。そのイラクに生物兵器や核兵器があると云ってアメリカは戦争を始めたが終はってみるとこれらの兵器は無かった。アメリカの覇権主義は不問に付し、西洋以外を低く見る傾向が横山氏にはある。
八月七日(日)その二
第四章
第四章は江崎浩氏(東京大学情報理工学系研究科教授)で
政府がやる場合、上手く行き出すと大きなお金を注入します。そうなるとやはりプロジェクトが緩むんですよ。財務管理をする人も「どうせ国のお金でしょう」と言って「適当でいい」というわけです。政府が絡むマッチングファンド(市民・企業・行政などが、より規模の大きい活動を実現させるために共同で資金を提供する制度)にしてもそうです。人間の心理の問題ですね。
の話は面白い。あと役に立つ話として
私は東芝にいたときに教えていただいたのですが、日本の企業にはプロモーション部隊がいないんですよね。(中略)アメリカでプロのプロモーターをつけてもらって仕事をしたときに、彼らがどういう仕事をしているかが分かりました。やっていることは、さまざまなアイディアを効かせてマーケットを大きくすることです。そういうスキルは日本では大企業にもないですね。
八月八日(月)
第五章(その一)
第五章は小野塚知二氏(東京大学経済学研究科教授)で専門は西洋経済史。
一九七〇年代頃は、まだ労働史という言葉も確立していませんでした。当時は(中略)労働組合の運動史が中心で、特に先進国イギリスの労働組合運動の栄光を語るような研究や本がたくさん出されていました。(中略)人々はどのような労使関係の中で働いてきたのか。(中略)イギリスでは、労使関係というのは「労働組合」と「使用者団体」の関係なんですよ。(中略)業種別に使用者団体を作っていました。そこではそれぞれの業種別に賃金相場などが決められて、抜け駆けして相場よりも高い賃金で労働者を引き寄せようとすると、それはルール違反と言われました。
これは貴重な情報だ。労使関係はかうでなくてはいけない。私が総資本対総労働と主張するのも、仮想の社会主義を目指す方法の他に、このやうなやり方もある。日本は形だけ労働組合を真似するからシロアリどもの巣になってしまった。
その国のその時代の社会の個性を掴むまで(中略)本当に分かったことにはならない。その意味では外国人は入っていきにくい分野なのだと思います。その国の言語から法律、制度、慣習までひと通り分からないと(中略)ほとんどお手上げです。(中略)私もイギリスについてひと通り分かるようになるのに一〇年はかかりました。
アメリカではかうだから、イギリスではかうだからといふ主張がここ二十年ほど極めて多くなった。これらはニセ労組シロアリ連合(自称連合)やシロアリ民進党が自分たちに都合のよい部分を引用したからだが、その背景には完全にその国を理解せず猿真似したことが、この情報から明らかになる。
EMPでは「失敗の合理的背景」で講義をされ
なぜ合理的な行為を積み重ねながら失敗に至るのか、(中略)第一次世界大戦の原因は何だったのでしょうか。(中略)一九七〇年代になってようやく新しいタイプの研究が出てくるのですが、それまでの通説といえば、資本主義が高度に発展して過剰な資本蓄積が起こり(中略)というものでした。つまり、膨張する帝国主義列強間の対立の結果として第一次世界大戦が起きた(以下略)
この説に対して小野塚氏は
第一次世界大戦の直前まで、イギリスもフランスもロシアもドイツも経済的にはものすごく密接な関係にあって、互いに依存しながら成り立っていたわけで、戦争までして何を求めようとしたのかという疑問が、その原因論からは解けないんですね。
中世が終はり近代になり、新しい国家間の関係が未発展だった、国内の政治の在り方が議会の権限の強弱に関はらず未発展だった、民族といふ野蛮な概念を持ち込んだ、などが考へられる。つまり世の中が大きく変はったので平衡に達してゐなかった。十分に解けるではないか。
貿易で密接な関係にあってもそれは商売だから親善とは異なる。フランスがイギリスの国教会に寄進し、イギリスがロシア正教に寄付すれば親善になるがそれとは異なる。戦争になれば貿易が途絶へるが欧米には国がたくさんあるから別の国と貿易をすればよい程度の感覚だったのだらう。
八月十一日(木)
第五章(その二)
一九一四年七月から八月初めにかけての本当に1カ月の間のことなんです。(中略)まず理解しなければならないのは、ナショナリズムの政治利用が第一次世界大戦前のヨーロッパ諸国では多かれ少なかれ行われてきたということです。
なぜさうなったのかと云へば
どの国も程度の差こそあれ議会制民主主義が台頭してきて(中略)絶対王政の統治下では必要のなかった民意の統合が、政権維持にとって重要課題となってきました。
つまり考へなくてはいけないことは、議会制民主主義には重大な欠陥があるといふことだ。だからといって王政に戻ることはできない。民主主義の欠陥は菅直人と野田のごり押しで明らかなやうに、利害に係る数のごり押しだ。本来はすべての国民が社会に責任を持つところから始めなくてはいけない。それには議員を無報酬または実費に留めることと、労組、業界団体による選挙への介入を禁止することだが、小野塚氏はそれに触れることなく
国際分業が進展すればどの国にも必ず衰退する産業や地域が発生しますが、(中略)民主主義的な社会では何らかの説明や解釈が必要とされます。一つの解釈は社会主義運動の側から提供された(中略)変え方ですが、皆がこれに同意したら革命が起きてしまいますから、これに対抗して、外敵に原因を求めるナショナリズムの側から衰退の説明が必要だったのです。
これは賛成だ。しかし議会制民主主義や国際分業が悪いことを明らかにしないといけない。国際分業は貨物の移動に無駄なエネルギーを消費するから許されることではない。民主主義の欠点はさきほど述べた。今の民主主義は本物の民主主義ではないといふ云ひ方をしてもよい。
ところが小野塚氏は国際分業と不完全な民主主義は放置し、ナショナリズムが広がる理由として
歌や演芸によって、そういう風潮を撒き散らすことです。当時のイギリスでいえば、ミュージックホールですね。あるいは子どものうちからそういう思想を植えつけることです。
として小野塚氏は「ジャックと豆の木」を挙げる。ジャックが庭に蒔いた豆のつるが雲の上まで伸びる。ジャックは登って雲の上のお城から金貨を盗む。地上にゐた母親が大喜びし、次に登ったときは「金の卵を産むニワトリ」を盗み、三回目は「歌ふ金の竪琴」を盗むが竪琴が鳴り出し大男に見つかる。逃げて豆の木を斧で切り、大男は地上に落下して死ぬ。
全く同型の話が、同じ時期の一九世紀末に日本でも登場します。それが「桃太郎」です。(中略)要するに、異界(=外国)には恐ろしい人食いの鬼や大男がいて、人里(=国内)に来て人々を困らせたり苦しめたりするという話です。
当時の世界としては、ここまで同感だ。しかしその後、(1)米ソの冷戦、(2)その終焉、といふ二つの昔を経た後はどうなったか。西洋文明、とりわけアメリカ軍事力の優勢ななかでナショナリズムを否定すればアメリカ文明に統合される。現に英語公用語だの、第二次世界大戦で世界のほとんどを植民地にした米英仏は正しかったが、その猿真似をした日本は悪かったといふ奇妙な主張がシロアリ民進党やニセ労組シロアリ連合、西洋猿真似ニセ学者あたりから出てきた。
今から十年ほど前だらうか。本屋で少年雑誌をちらっと見たところ、米軍が主人公の戦争漫画が掲載されてゐた。日本の雑誌がこんなものを掲載しては駄目だ。平和も民主主義も国の独立がまづあって可能となる。
八月十二日(金)
第六章
第六章は井上将行氏(東京大学薬学系研究科教授)で有機合成化学が専門。生物が何の目的もなく毒性を持つことがあるかといふ質問に
目的はあると思います。ただ、その目的には僕らが分かっていないものが多いです。なぜ目的があると考えたほうが合理的かというと、こうした毒性物質を作るためには、生物としてはものすごいエネルギーを必要とします。何の目的もなくただ無駄骨を折ってばかりいる生物が、四〇億年という長い間生き延びているわけがないという考え方からです。
この考へ方は変だ。生物が変化や分化を繰り返すなかで、必要な機能を体得したため生き延びたものもあるし、かつて必要だったが今は不要になったものもあるし、不要なのにある場合もある。不要なのにあるのは確かに無駄だ。だから木村氏の云ふやうに、何に使はれるかまだ判らない場合もあるし、かつて必要だったが天敵の消滅などで不要になったものもある。たまたまその機能を昔から必要としないものが誕生し生き延びることだってある。
横山氏も私と同じ疑問を持ったらしく
木村資生の中立進化説や、(中略)などが指摘するような「自然界はすべて合目的的なわけではない」という考え方も一理あるのではないでしょうか。
と再質問するが、木村氏の回答は同じだった。これは、木村氏に質問する横山氏が悪い。木村氏の専門は有機合成化学だからだ。今回私がこの問題を取り上げたのは「目的」といふ言葉が引っ掛かった。「目的」ではなく「理由」ならよかった。生物が発生した「目的」は何かとなると、XX教、XX教の世俗化した連中、XX教の世俗化したものを猿真似する連中、イスラム教、仏教、ヒンズー教、儒教道教神道その他で異なるからだ。
木村氏の発言で重要なのは
どの方面の人とも話せる言語能力も高いほうがよいわけです。(中略)情緒的な作文ではなく、ロジカル・ライティングを教育の初期段階からやってほしいということです。(中略)僕はその能力の方が、英会話よりも大切であるように思えます。
「情緒的な作文ではなく」の部分は同感だがロジカル・ライティングがよいかどうか私には判らない。英会話よりも大切なのは100%賛成だ。(完)
(その二)、東京大学批判その十八へ
(その四)、東京大学批判その二十へ
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